イヴに独りで鯛を喰う。
※今回出てくるお店は、以前の記事でも取り上げたお店です。
12月24日、終業後の19時過ぎ。
オフィスを脱け出た俺は電飾の煌めく街を彷徨い歩いていた。
ここ最近、仕事の調子が芳しくない。本来の実力の半分も出し切れていない。窮屈な箱に押し込められ手足を満足に伸ばしきれない、そんな閉塞感にずっと付きまとわれている。
上手くやれているところも多いが、上手くやれないところも多い。上手くやれたところは一向に評価されず、上手くやれなかったところだけ責められる。その状況を理解していながら打開策の見当たらない現状が腹立たしく、厭わしい。
世間はクリスマスイヴで浮かれ騒いでいるが、連れ合いも無く仕事の調子も悪い俺にとっては煩わしいだけだ。こういう日にこそ普段は呑まない酒を呑みたくなるが、どの店もイヴを楽しむ奴らでごった返しているに違いない。
嗚呼、とにかく一人で静かに酒が呑みてえ。いっそ肴だけ適当な店で包んでもらって自分の家でビールを空けるか。
そこまで考えた時、ある考えが脳裏に浮かんだ。
今年の初夏に行ったきり、長らく顔を出していない近所の寿司屋。煮物焼き物揚げ物は軒並み美味いが、肝心の寿司はよろしくないおかしな店。いつ行ってみても地元の常連客がちらほら居るだけのカウンターと、愛想を振りまくこともない寡黙な大将。
あそこなら、イヴの今夜も一人静かに楽しませてくれるのではないか。
そう思った瞬間、半ば反射的に踵を返した。
向かうは、繁華街の中心と逆方向。住宅街の俺の家からさらに数百メートルほど離れたあの寿司屋。
イヴに沸き立つ雑踏をすり抜ける足取りは、自分でも気づかないうちに早まっていった。
― ― ―
寿司屋の前にたどり着き、俯いたまま引き戸を空ける。
顔を上げると、カウンターの奥に年配のカップル二人連れ。多少大きな声で話してはいるが悪い酔い方はしていない。奥の座敷にも何人か居るようだが、大声で騒ぐ酔客の声は聞こえない。
薄暗い照明に照らされた店内は、やはり、いつも通りの雰囲気だった。
「いらっしゃい」
ネタを捌く大将が手を差し伸べて、引き戸前の席を俺に勧める。勧められるまま、一番右端のカウンター席に腰を下ろした。
そのまま品書きを開こうとした、その時。
「お久しぶりですねえ」
予想外の言葉に振り仰ぐと、大将が満面の笑みで俺を見ていた。
これまで俺は大将と談笑した事など無い。向こうが放っておくに任せて、ひとり文庫本を読みながら肴を突つきビールを煽る陰気な客として振る舞っていた。
そもそも俺はこの店を何度か使っただけの、まだまだ常連には程遠い存在だ。その俺を覚えていたというのか。
「・・・どうも、ご無沙汰しています」
驚きながらも、俺は大将に会釈を返す。
「梅雨の頃以来ですか。あの後は緊急事態宣言やらで色々ありましたからねえ。また来てくれて嬉しいですよ」
にこやかに続ける大将に俺は目を瞠った。何度か来ただけの俺が最後に来た時期まで覚えているとは。いや、そもそも大将はここまで愛想の良い人だったのか。何から何まで意外に過ぎる。
覚えていてくれた事への礼を形だけ大将に言いつつ、アサヒの中瓶と真蛸の唐揚げを注文する。ビールは肴と一緒に持ってきてもらうよう言い添えた。
― ― ―
運ばれた瓶ビールをグラスに注ぎ、炭酸が弾け終えるのを待たず一息に煽る。
キレのある軽い味わいのアルコールが炭酸とともに喉を流れ胃に落ちる。喉に張り付いた仕事のストレスが黄金色の液体とともに洗い流されていく感触を味わうと、ひとりでに深い溜息が漏れ出た。残留した重苦しいストレスが、溜息とともに体外に排出されるのを感じた。
一呼吸ついて、蛸の唐揚げにレモンを絞る。レモンの果汁が衣と蛸の身に染み込んだ頃合いで口の中に放り込み、じっくりと咀嚼する。
やはり、この店の蛸の唐揚げは最高だ。薄い衣のスパイシーさと蛸の旨味がレモンによって一気に引き立てられている。普段有難がっている鶏の唐揚げなど、こいつの前には足元にも及ばない。
唐揚げの油をビールで洗い流しながら、俺は早くも次の肴を考える。
この店の肴は美味いが、どれも出てくるまでに時間がかかるのが玉に瑕だ。今のうちから考えておかないと満足な晩酌は楽しめない。
寿司屋にも拘らず生物がよろしくない店だが、そうとわかっていても刺身を食いたい事もある。ひとつ安めの刺盛りでも頼んでみるか。
そう思いながら品書きを眺めていると、ある一文に目を奪われた。
鯛かぶと 2000円より【塩焼きと酒蒸しからお選びください】
鯛のお頭が頭に浮かんだ瞬間、火の通った肉厚の白身を噛み締めたい欲求に取り憑かれた。
仕事でうだつの上がらない、連れ合いも居ないクリスマスイヴ。何のめでたい事があろう。だがそんな事は関係ない。
祝福でも験担ぎでも何でもない。欲求に意味など有るものか。
只々俺は鯛が喰いたい。鯛の白身の歯応えと旨味を、この歯と舌で味わいたい。
塩焼きで鯛の旨味を最大限に引き出すのも良いだろう。だが、今日の俺の体は旨味だけでなく滋味も求めている。ならば答えは決まっている。
「すいません大将。鯛かぶと、酒蒸しで」
カウンター越しの大将に声を掛ける。
「はいよ酒蒸しィ。・・・時間かかるけど大丈夫ですか?」
大将の言葉に片眉が上がる。
「どれ位で上がりますかね」
「三十分くらいですかねえ」
三十分。飯の注文にしては些か長い時間だ。俺は壁に掛けられた時計を見やる。
現在、夜の七時半過ぎ。この店の閉店時間は九時だから、八時過ぎに出てきても支障なく食べ切れるだろう。食べている間に締めの飯物を注文すれば、九時いっぱいで晩酌を楽しみきれる計算だ。
それに、今日は金曜日。明日の仕事も予定もない身で、何を急ぐ事のあろう。
「構いません。じっくり仕上げてください」
そう応えると、大将は破顔しながらガラス張りのネタケースに手を入れる。そこから何かを取り出した。
真鯛の頭。大きさこそ小ぶりだが、形も色艶も良い上物だ。
「じゃあ、こいつを調理りますからね」
手にとった鯛の頭を俺に見せる大将の笑顔は、美味いものを食わせてやるという自信に満ち満ちていた。
― ― ―
「お待たせしました、酒蒸しです」
蛸の唐揚げを平らげ、文庫本を片手にグラスを傾ける俺のもとに女将が鯛を運んでくる。
文庫本から女将の手元に目を遣り、思わず二度見した。
女将の両手に抱えられた盆。その盆の直径の大部分を占める巨大な陶製の丸器。
丸器の小脇には榎茸と二切れの豆腐。別の器に添えられたのはポン酢に分葱と紅葉おろし。
そして、丸器の中央に鎮座ましましているのは鯛のお頭と、頭部から切り分けられた鎌の部分。そいつが一つずつ、ではなく二つずつ。つまり二頭分。
想定外の大盤振る舞いだ。
「一匹分じゃなかったんですか!?」
思わず大将に声を掛ける。
俺の声に振り返った大将は、またしても笑顔で応じた。
「サービスですよ。サービス」
「さ、サービスって、何の」
「お兄さん、久しぶりに来てくれたからねえ。何か疲れてるみたいだから、美味いもんたらふく食べてほしくって」
それに、と大将は続ける。
「寿司屋にゃ関係ないけど、今夜はクリスマスイブでしょう。世間の皆さんがめでたがってる日ィくらいは、めでたい晩酌にしても良いんじゃないですかね。ほら、何たって鯛ですし。おめで鯛、なんつってね」
ははは、と笑いながら、大将はカウンターを離れ厨房の奥に消えていく。
女将の置いた巨大な器の前でひとしきり呆然とした後、我に返った俺は鯛の頭に手をつけた。
脳天の肉をかき出し、何もつけないまま口に含んで噛みしめる。
美味い。噛むほどに旨味がにじみ出る。酒と塩だけで十分に鯛の旨味が引き出されている。
肉を飲み込んだ後、ゼラチン質の唇部分をこそげ取る。こいつはポン酢に少しだけ浸して口に入れる。
ああ、これだ。魚の頭で美味いのは脳天に目玉と決まっているが、この唇もまた良いものだ。ゼラチン質の食感とほのかな脂の風味がたまらない。
唇についてきた鱗を口内から箸で取り出し、そのまま目玉に箸を突き入れひっくり返す。黄緑がかった目玉周りのゼラチンを少しだけポン酢に漬けて口に入れ、ゆっくりと舌の上で圧し潰す。唇よりもさらに濃い旨味を凝縮させた脂のゼリーが、旨味の洪水に姿を変えて口内に広がっていく。
美味い。只々美味い。しかも、食っても食っても無くならない。
魚のアラはただでさえ食い尽くすのに時間がかかる。食い切ったと思っても美味いところが残っていた、その繰り返しこそが魚のアラの醍醐味だ。
幸福な宝探しと言い換えてもいいほどの、味覚にも時間にも贅沢な食卓。しかも今回は二匹分それが楽しめる。
ビールを煽るのも忘れ、俺はひたすら鯛を貪っていた。
心身に蟠っていた仕事のストレスは、気づかぬうちに跡形もなく消え去っていた。
― ― ―
「・・・大将、巻物の残りを包んで下さい。そのままお勘定で」
締めに頼んだ葱とろ巻。その半分以上が乗った下駄を指差し、俺はチェックを大将に宣言した。
葱とろ巻が不味かったわけではない。以前に散々くさしたこの店の寿司だが、流石に寿司屋の葱とろ巻だ。百円の回転寿司屋のまがい物とは一線を画する、上品で豊かな風味の一品だ。
だが、小ぶりな鯛の頭とは言え、流石に二匹分ともなると結構な食いでがあった。予想外のボリュームの酒蒸しを綺麗に平らげ、そのまま巻物の三、四切れを収めると、腹も心もいっぱいだ。贅沢な話だが、残りは明日の朝飯に使わせてもらおう。
「はいよぉ、お愛想」
大将は相変わらずにこやかに応じる。
それにしても、こうも愛想の良い大将だとはこれまで思いもよらなかった。常連とは言い難いにせよ、何度か通った店で新たな発見など無いものだと思っていただけにつくづく予想外に過ぎる。
もっとも、こういう予想外なら大歓迎だ。
「お兄さん、満足できた?」
勘定を終え店を出ようとする俺に、大将が声を掛ける。
美味かったか、ではなく、満足できたか、という問い掛けが、大将の心遣いを表していた。
手にぶら下げた葱とろ巻の包みを掲げ、大将に応える。
「蛸も鯛もこいつも、全部美味かった。大満足です。ごっそさん!」
いつも陰気に文庫本を読んでいた俺が、この店で初めて見せた満面の笑み。
それを見て、大将も笑った。
「また来て頂戴よ。メリークリスマス!」
「はいよ、メリークリスマス!」
大将の笑い声を背にして、後ろ手に引き戸を閉める。
外に出るなり冴えた冷気が体を包んだが、それも一向に気にならない。酒ともてなしで上気した顔のまま、家に向かって歩き出す。
「・・・メリークリスマス、ね」
ふと、歩みを止めて、独りごちた。
めでたくもねえイヴの夜。そんな日に鯛のお頭なんて悪い冗談だと思ったが、蓋を開けてみれば酒と肴と愛想をしこたま頂戴しちまった。
要するに、大将からプレゼントを貰ったわけだ。
久しぶりに来たかと思えば疲れ切ったツラの客。そんな俺を見かねた大将からの、心尽くしという名のクリスマスプレゼント。
何だよ、ずいぶんと結構なイヴの夜じゃねえか。
くっくっと喉で笑ったあと、再び帰路を歩みだす。
歩きながら、この方十数年は口にしていなかった歌を口ずさんだ。
「きぃーいよぉーしィー、こぉーのよぉるぅー・・・。ほぉーおしぃーはァー、ひぃーいかぁーりィー・・・」
調子外れの”きよしこの夜”は、口ずさむそばから車の排気音に紛れて聞こえない。それがなんだか可笑しくて。
聞こえないまま、ずっと。
今の自分には縁遠くなった聖歌を、口ずさみ続けていた。