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小説で“みる”踊りとダンサー『spring』

恩田陸さんは『蜜蜂と遠雷』があまりにも面白くて、スピンオフ『祝祭と予感』も続けて読んで、さらに『チョコレートコスモス』も読んだ。
だから、バレエを題材とする小説が連載されると知ったときは嬉しかった。
習い事としては小学生でやめてしまったものの、私は今バレエ鑑賞を趣味としている。
好きなものと好きなものの掛け合わせだ。
でもバレエには台詞がないし、踊りはなんとも言葉で説明しにくい。
ダンサーのインタビューを読んでも“感覚派”のような人が多い印象がある。
それを恩田陸さんが言語化するなんてどんな小説になるんだろう、と連載が始まる前からどきどきわくわくしていた。

そして単行本発売日から間を置かず、この本を手に取った。
楽しみにしていただけに期待値も高かったけれど、期待以上の物語にぐんぐんのめり込んで、あっという間に読み終えた。読み終えるのが惜しいくらいだった。
以下、バレエ好きがバレエ小説『spring』を読んだ感想を蛇足も交えて書き連ねます。

※ネタバレといったネタバレはありませんが、本文を引用したり構成について触れたりするので、何も知らずに読みたい!という方がもしご覧になっていたら引き返してくださいませ。


どこから喋ろう?
まず、鈴木成一デザイン室が担当しているブックデザインだろうか。
書店に並んでいると真っ白な表紙でとてもシンプルに見えるけれど、カバーをめくるとカラフルなペンキをたらしたようになっている。
本文には左下に人物のシルエットがあり、それがパラパラマンガになっていてシルエットが踊る仕掛け!
紙の単行本を購入する醍醐味が詰まってるなと思う。

5人の登場人物のイメージカラーの栞もランダムでついている。
読み終わったあとに誰の栞だったのか確かめるのも楽しい。
さらに初版限定特典として、巻末のQRコードから書き下ろし番外編が読める仕様。
商売の上手さに拍手したい。

肝心の内容はというと、ダンサー兼振付家“萬春”について同期ダンサー、叔父、幼馴染みの作曲家の視点で順番に語られたあと、本人の視点に切り替わる4章構成になっている。

帯には「俺は世界を戦慄せしめているか?」とあり、俺様な主人公を想像していたのだけれど、それは裏切られた。
(本文を読んで、帯の言葉は柳田國男『遠野物語』の一文「戦慄せしめよ」から来ていると分かり、そちらも読みたくなった。)
萬春はどこか掴みどころがない天才として語られる。不思議ちゃんといっても良いかもしれない。
しかし物語が進むごとに、そして最終章では彼の人間らしい面が見えて、萬春という人間の奥行きが少しずつ見えてくる。
春にモデルはいないのかもしれないが、長野出身ということや名前、中性的な雰囲気から、勝手にフリーダンサーの二山治雄(にやま・はるお)さんがイメージに近いように感じている。

作中で主な舞台となるのはコンテンポラリーにも力を入れているドイツのバレエ団およびバレエ学校。
ということは、シュツットガルト・バレエ団とその付属であるジョン・クランコ・スクール(特に男子が憧れとする名門バレエ学校。日本人の留学者も少なくない)がモデルなんだろうな、と想像できる。

本作を読む前はクラシックバレエよりもコンテンポラリー中心の話と聞いて、ちょっと意外に思っていた。
コンテンポラリーは抽象絵画のようで分かりづらく、日本ではまだあまり浸透していない。実は私もちょっと苦手意識がある。
もちろん面白いと感じる公演もあるけれど、ダンサーの力量や観客の素養が問われることもあり、面白いと思えるまでのハードルがすごく高いのがコンテンポラリーという印象。
これをどうやって言語化するのだろうと思った。
しかし読むにつれて、これはコンテンポラリーだから描ける物語だ、と得心がいった。
作家のクリエイティビティが振付家のそれと共鳴して、語られる作品がどれもこれも実際に観てみたいほど面白そうなのだ。
これはクラシックバレエ(既存の物語があるもの)をメインの題材にしていたら成せないことだっただろう。
萬春がつくりだす作品「アサシン」「ヤヌス」「KA・NON」……どこかのバレエ団で実演企画をやらないだろうか。
とんでもなく難しいと思うけれど、ぜひやってほしい。観たい!

作中で実現した演目以外の、こんな作品あればいいのになーというくだりも面白い。

 今やデューク・エリントンやクイーンまでバレエになっているんだから、パリのオペラ座はミシェル・ルグラン・バレエを作るべきだよね。

p. 234

私も観たい、ビッグバンド付きのルグラン・バレエ!
こういうふうに知っている単語が出てくると嬉しいし、知っている曲なら脳内再生できてテンションが上がった。
(ちなみにジャズ作曲家のデューク・エリントンは牧阿佐美バレヱ団で「デューク・エリントン・バレエ」が制作されていて、ロックバンド・クイーンはスイスのモーリス・ベジャール・バレエ団で「バレエ・フォー・ライフ」が、日本でも「ROCK BALLET with QUEEN」が制作されている。「オペラ座」はパリ・オペラ座バレエ団のこと。ミシェル・ルグランは「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」などの映画音楽で有名な作曲家。)
ただ、こんなふうに小説や映画、音楽などに関する固有名詞がけっこう多く出てくるわりに、それらはあまり詳しく語られない。
振付家のつくる世界がいかに教養に裏打ちされているのか、その豊かさに圧倒される。
そういえば『蜜蜂と遠雷』でも気になった曲はYouTubeで検索したなあなんて思い出しながら、知らない単語が気になったときは調べつつ読み進めた。

また、クラシックバレエですらもあまり詳しく語られない。
例えば「ジゼル」は村娘ジゼルとアルブレヒトの恋物語で、アルブレヒトは貴公子の身分も婚約者がいることも隠してジゼルと付き合い、身体の弱いジゼルが真実を知ってショック死してしまう第1幕、そして後悔するアルブレヒトと幽霊になったジゼルが邂逅する第2幕で構成される。
アルブレヒトはクズ男としてバレエ界では名高く(笑)、ダンサーによっていろいろな解釈がある。
ジゼルを失ってから本当に愛していたことに気付いたとか、そもそも最初から本当に愛していたんだとか。
その点、萬春のアルブレヒトは突き抜けていて、「とことん自己愛の強い男で、最後まで自分のことしか考えてない」(p. 75)と解釈していたのが面白かった。

「眠れる森の美女」のローズ・アダージオも作中ではさらりと出てくる。
チャイコフスキーの3大バレエの一つである「眠り」はクラシック・バレエの中でも抜きんでてクラシックな演目で、第1幕でオーロラ姫が16歳の誕生日に4人の王子(求婚者)から1本ずつ花を受け取る踊りが「ローズ・アダージオ」。高難度で有名な見せ場である。
この場面も含め、ダンサーとしての萬春もとても魅力的に描かれていた。

こんなふうに説明に文章を割かずともぐいぐい読ませてくれるのは恩田陸さんの筆力ゆえだよなあと思うと同時に、踊りってなんだろう?ダンサーってどういう存在なのだろう?という本質的な問いにフォーカスされているからでもあると思う。
『チョコレートコスモス』で演劇、『蜜蜂と遠雷』で音楽の本質的なところが描かれていたのも同様で、演劇とも音楽とも繋がりが深いバレエが題材の本作は前2作があったからこその物語、芸術三部作のトリだとも言えるんじゃないか。
演劇でも音楽でもバレエでも、「表現者」の感覚を窺い知れるのはとても興味深い。

 自分が見られる存在になっていること。見られることの中に自分が存在していること。自分を取り巻く世界が反転し、俺の内臓がぐるりと裏返って世界を包み込んでいるような感覚になる瞬間が好きだ。
 そんな時、いつも俺は幸福を感じる。

p. 34

上記は春の同期ダンサー・純の独白だけれど、ダンサーの頭の中を覗かせてもらっているような楽しさがあった。

そして、作曲家も登場するからだろうか、本作では『蜜蜂と遠雷』のエッセンスを感じる部分も多かった。
私が特に胸を打たれたのは、「音」と「踊り」について書かれた以下の文章。

音源を聴いてしまい、音源に合わせてしまうダンサーは、どうしても踊りがほんの少し重くなり、極端な話、鈍臭くなる。聴いてから踊るのでは遅いのだ。一流のダンサーは、音源を自分の中で鳴らす。

p. 228

 卓越した音楽家やダンサーとそうでない者の違いは、一音、一動作に込められた情報量の圧倒的な違いだ。彼らの音や動きには、単なる比喩でなくそのアーティストの内包する哲学や宇宙が凝縮されている。

p. 352

私は音の取り方が気持ち良いと一気にそのダンサーを好きになってしまう。
客席から観ていてダンサーから音が出ているように思うこともあるし、スマホでダンサーの動画を音量をオフにして見ても音楽が鳴っているかのように感じられることもある。
それは不思議な感覚だけれど、きっとダンサーが踊ることで自ら音を鳴らし、濃やかな想いや思想を音に乗せて昇華しているからこちらまで伝わるのだろう。
ダンサーって、なんてすごいアーティストなんだろう。
『spring』を読んで改めて、彼らの偉大さに思いを馳せた。

きっと『spring』を読んでバレエに興味を持つ人がたくさんいると思う。
そういう人たちが良い作品に巡り合えますように。
私もまだまだたくさんの作品が観たい。
その場限りの踊りのきらめきをできるだけ多く、目に焼き付けておきたい。



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