無関心にスカすより、”高尚な人種”として議論しよう
好きの反対は嫌いではなく無関心である、という言葉がある。
現代社会においては様々な文句が飛び交うわけだが、それもこの社会に対する関心の高さを表しているのであって、嫌なことはたくさんあっても無関心になってどうでもよくなるほどではない、という意味ではまだ社会は健全なのかもしれない。
以前も取り上げたMr.Childrenの「彩り」という歌の中に、こんな歌詞がある。
言われてみればその通りである。
記者という仕事も言ってしまえば、報道機関という大きな会社の看板を掲げながらああでもないこうでもないと社会や世界の出来事を論評する仕事だ。私たち記者は、仕事がなくなれば単なる一介の庶民に過ぎない。
ただ、だからこそやっても意味がないといってやめてしまうのは勿体無い気がする。
学び続けながら、社会問題や世界についてちょっとコメントができるくらいの知識を兼ね備えておくことは重要なのだろうと思う。
それは別に教養があったほうがいいとか、民主主義がどうのこうのというお堅い理由よりも、年を重ねれば自然と自分だけのために生きることが難しくなるためだ。自分だけのために生きて満足して死ねるのなら、別に社会のことなんて歯牙にもかけずに人生を過ごせばいい。でも、それができる人はほとんどいない。
もっといえば、年を重ねれば他者との関わりの中で生きることが必要になるのであり、他者という「異世界」の理解のためには、いま世の中で何が起きているのかを把握して、自分なりに意見を持つ必要がある。
社会問題の当事者は、他でもない目の前の「他者」かもしれないのであり、社会への無関心とは他者への無関心でもあるのだ。
それゆえに、社会のあれこれについて少しコメントして議論できるくらいの教養はあったほうがいい。Mr.Childrenの言葉を借りるなら「少し高尚な人種になれた」気がする日々の積み重ねの中で、他者への理解は少しずつ深まっていき、そして自らもまた「少し高尚な人種」になっていくのかもしれない。
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