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仕事なかりせば

就職活動をしていたころ、私はなるべくなら仕事をしたくないと思っていた。であればそもそも就職活動をすること自体に矛盾があるわけだが、飯を食うためにも仕方なく仕事をしないといけないから、しぶしぶやっていたというのが正直なところである。

なぜ仕事をしたくないと考えていたのかを思うと、人からあれをやれこれをやれといわれて何か事を為すというのが心底面倒だったのだろうと思う。なるべく自由に生きたいと思っていたのである。
働きたくない人間であるため、就活がうまくいくわけもない。企業だって働きたくない人間をとるほど余裕があるわけではないので、当たり前の話である。

結局就活を通じて様々な壁にぶつかりながら一年目にはなぜか銀行に入ったわけだが、金融機関とは自分自身が最も嫌悪していた「人からあれをやれこれをやれといわれて何か事を為す」仕事の典型であった。当時は金融にも関心がなく、人から命令をされてかつやりたくもないことをやるというのがこれほどまでに苦痛で空しいものであるのかを肌で知った。
そして心の底から「やりたくもないことをやる人生は避けたい」と感じたわけである。だから文章を書くのは好きなので、何か文章に携わる仕事であればまあまあ続くであろうということで、記者の道を選ぶことになった。

と、そんな調子でダラダラと仕事をしてきた私だが、最近ふと思ったことがある。
それは、「仕事なかりせば、私たちは社会に対して何の価値も与えない存在になるのではないか」ということである。

記者として世の中で起きた事象を広く伝えることを考えてみる。いまは組織に属しているから数万人単位に容易に伝えられるものの、一人きりであれば間違いなく無理である。頑張っても数千程度が関の山だ。
ほかにも営業として商品を売ることを考えてみる。「株式会社◎◎のおおぬきです」というからその商品に関心を持ち、そして買ってくれる(かもしれない)のであって、「おおぬきです」だけで商品に関心を持ってもらう、またはそれ以前の話を聞いてもらう段階に至るのは特別仲が良い関係でない限り不可能である。

また、工事をすることを考えてみよう。会社は重機などを持っているから工事現場の人はエイコラと頑張って工事ができるが、一人になったとたん工事の進捗は甚だ芳しくなくなる。簡単な日曜大工であれば別だが、ビルを建てるなんで一人ではまず無理だろう。

要は、私たちは仕事や組織を離れて一人になったとき、社会に対して大した価値を与えられないのである。逆に言えば、実は仕事を通じてやっていることというのは、一人でやろうとするとおよそ不可能(に近い)ことが多いということでもある。

だからこそ、仕事をすることには価値があるのだろうと思う。私たちが「これは仕事だ」といえば、相手は話をしてくれたりお金を出してくれたり協力してくれたりする。そのサラリーマンという檻の中にいることはとかく悪とみなされがちだが、ひとりではできないことを組織の力を借りながらやることができ、そしてその成果に対してお金までくれるわけだ。

私たちが安易にやりたくないことを「仕事だから」とだらだらやり続けてしまうと会社にとってもその人にとっても不幸な結果に陥る。
私たちは「これをやる/やりたい」という自らの意思をもって仕事をするほうが、一人ではできないことをやることができよほど有意義だ。
人生の時間は有限であるからこそ、成果を上げる気もなくやりたくもない仕事をやりただ定年を待つだけの時間は、恐ろしく空しい。

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