『Leica Summicron-M 50mm f2』の所感。
日頃オールドレンズばかり使っているが、近頃はズミクロンM2/50のような「普通の」レンズがすごくしっくり来る。
普通のというのは、フレアやゴーストなどの演出的な効果を得られるレンズではなく、真っ当に(これも表現が難しいが)写るレンズ、という事。
オールドレンズを好んで使う理由として「柔らかく写る」「優しく写る」といった表現を私もついつい書いてしまうが、ではその優しい写りとは一体何なのか。具体的に述べようとすると中々適当な言葉がみつからない。
ズミクロンの写りはすごくすっきりしていて、かつ驚くほどシャープなのに、どこか優しさを感じる。オールド的な味付けはないにしろ、この優しさはどこから来るのか…。
ここは一先ず無理に言語化しないのが写真表現の粋(と書いてしまう時点で粋ではないのだが)と、お茶を濁しておこう。(笑)
上の写真のように、ピントが被写体から外れている事による描写の甘さを「優しい」と表現している…わけではない。
無論意図的にピントを外そうとして撮ったわけではなく、遠ざかる被写体を捉えきれなかった私の腕の問題だ。
まぁぱっと見あってれば良いじゃないか…と最近は以前にもましてピントを気にしなくなっている。
私はスナップ写真を撮る際、大凡3〜5m離れた被写体を狙うことが多い。
ヘリコイドを繰り出しピンを合わせて撮影する、また次の被写体を狙い二重像を合わせようとした際、ほぼあっていることが大半なのだ。毎回毎回、決まった距離のものを注目してしまうのは癖なのだろう。
そして50mm f2というスペックは、被写体が3〜5mのあたりで被写界深度内に大体収まるという事に恥ずかしながら今更気づく。
特に人を主体としたスナップで程よい立体感が得られ、ピントもそこまでシビアに考えずとも良好な結果が得られる。
機材ばかりに目を取られ、撮影ロジックや場数を踏んでこなかったツケが今回ってきたのだろう。(汗)
現行ズミクロンの写りは非常にすっきりしており、目立つクセや粗さは感じられない。1979年から光学設計を変えていない衝撃的なロングセラーレンズだが、その実力は計り知れないものがある。
非球面レンズや特殊低分散レンズを取り入れ、収差を極限まで取り除く方向で開発された現代のレンズもまた良いものだろう。
しかし、四半世紀近く愛され続ける球面構成のズミクロンM2/50というレンズを使うたび、そのシンプルなレンズ構成と素直な描写に、「ああ、これで完成されていたんだな」と感嘆してしまう。
「あぁ〜こうでなくっちゃ。」と今更のように(笑)ボディとの相性の良さを実感する。
M型ボディで使うとヘリコイドや絞りリングの位置など、カメラを構えた際「目視せずとも弄りたいものが自然に指の届く範囲にある」設計になっている。当たり前な事だが、ズミクロンを使ってみて"無意識の中で手に馴染む"という事の凄さを思い知った次第である。
オールドレンズのクセや、個性的な描写を楽しむ。
今まではこのスタンスで写真に向き合ってきたが、このところズミクロンを使うようになり少しずつ感覚が変わってきている。
「まずはズミクロンで基準を作る。オールドレンズで遊ぶのはそれからで十分」と仰る方がいらっしゃったが、当にその通りだと痛感する。
写真を撮るにしても、レンズの個性に頼りっぱなしのアプローチでは限界がある。被写体に真面目に向き合い、自分の目的にあった撮影をするにはどうすればいいか。
撮り手の腕を如実に写し、そして工夫した分その結果を素直に汲み取ってくれるレンズ。ズミクロン。
まだまだ付き合いは浅いが、これから使い込んでいく楽しさを予感させる、私の写欲を駆り立ててくれるレンズだ。