みみあての理由

 うるさい。くさい。まぶしい。いたい。
 この世界はボクにとって刺激的過ぎる。
 車のうるさいクラクションとか。トラックの排気ガスの臭いとか。朝の日差しとか……いや、それはただ単に朝が苦手なだけなのかな。
 だから、世界とボクの間に壁を隔てた。
 それがたとえ、変だと言われても。

「おうい、『みみあて』」
 後ろを振り向くと、カズが走ってくるのが見えた。
 カズの足はクラスで一番速いから、ボクの隣まですぐに追いついてくる。
「おはよう、『みみあて』」
 息を切らしながら、ボクのランドセルを軽くバシっと叩く。
「ん……おはよ」
「テンション低いなあ」
「いつもこんなもんでしょ……」
「そりゃそうか」
 ハッハッハ、とカズは笑う。朝からなぜそんなに元気でいられるのかわからない。
 ボクは朝はまぶたも口もずっと閉じておきたいくらいなのに。うらやましい。
「そういや、みみあて。お前さ……」
 カズの話に相槌を打つ。最近流行っているゲームのことだった。
 みみあて、とはボクのことだ。
 もちろんあだ名。
 由来はもちろん、ボクが今まさにつけているイヤーカフだ。馴染みがないから、みみあてだと思われてるけど。
 ボクはうるさいものが嫌いだ。
 とりわけ、ざわざわしてる教室になんか入っていきたくない。
 だから、朝一番の誰もいない教室に登校するためにこうして毎日毎日早起きしている。自衛、というヤツだ。このみみあても、自衛の一つ。
 ざわざわ、がやがやと、うるさいものからボクを一歩遠ざけてくれる。
 ボクは、このみみあてがないととても……疲れてしまう。体じゃなくて、心が。
 ああ、疲れたな、と思うと、寝込んでしまう。学校に行けなくなってしまう。次女の雪姉さんにはズル休みと言われるけど、でも、本当にしんどいんだ。
「おはようございます……」
 まだ誰もいない、五年二組の教室にカズと並んで入る。
「はよざーす! みみあて! 朝の会までサッカーやんね⁉」
「やらない……ねむい」
 ボクはランドセルを教室の後ろのロッカーにしまうと、自分の席に座って、うつぶせになる。まだ朝の会が始まるまで四十五分もある。せっかく静かなんだ。もうひと眠りしたい。
「……お前、ここぞって時はスゲーのにな。それ以外の時はサナギみてえ」
「ここぞってどんな時だよ……見せた覚えがない……ふわぁ……むにゃ」
「ちぇ、一人でドリブルでも練習すっか」
 カズは教室の隅からボールを取り出し、ポンポンと軽くリフティングすると、教室を出て行った。
 しぃんと静かになる。まぶたが重くなる。別の階で大笑いする生徒の声が聞こえるが、それもまどろみに沈んで遠くなっていく。
 目をつぶってしばらくして。足音がひとつ、ふたつ、近づいてきた。

「あれ、みみあてまた寝てるわ」
「いつものことじゃん?」
「家で寝てくりゃいいのにね~」
 女子の声だ。この声はマシロとキョーコ。おしゃべり好きな二人だから、もうボクのゴールデンタイムは終わりだ。
 ひとりぼっちの時間は数十分しかない。
「はー! ちょ、外見てみ? カズ君、かっこい~! ドリブル練習してんのめっちゃ似合う……」
「キョーコ、ほんとカズのこと好きよね」
「はー? マシロだって好きじゃん。知ってんだかんね。恋のおまじないのヤツ、あれカズ君に……」
「なんで知ってんだし!」
 三人そろえばカシマしいという言葉を本で読んだ。カシマしいというのはやかましいとかと似た意味らしいけど、二人でも十分だと思う。特に恋バナ中の女子は、だ。
 あ、足音がまた一つ近づいてきた。たぶん足音からして、アヤカちゃんかな。
「おはよう。あ、マシロちゃんキョーコちゃん」
「うお……姫じゃん、おはよ」
「おはよー。今日もフリフリだね~」
 アヤカちゃんはいつもおとぎ話のお姫様のようなかわいい服を着ているため、女子からは姫というあだ名がつけられている。『みみあて』のボクとは同類のようだけど、あちらは愛されキャラというヤツなので、月とスッポンだ。当然ボクがスッポン。
「おはよう。も~姫はやめてよ~」
 アヤカちゃんはそう言うと、ランドセルを置いて、廊下のほうへ向かっていったようだ。廊下にいる金魚のエサをやりに行ったのだろう。
「う~ん、マシロよりしょーじき姫が一番ライバルなんだよなあ……」
「あたしよりってなんだし。ヒカクすんな」
「だってさ、カズ君、姫のこと時々ネツっぽい目で見てんだもん。あれさあ、もしかしてさあ……」
「ま、まじ……?」
「でもさ、姫、好きな人いるんだよねー」
「えーっ⁉ 誰よ誰よ⁉」
 ああ……数十分前までは静かだったのに……。
 アヤカちゃんを見習ってほしい。全然声を荒げてるところを見たことが……――――。
「だめーーーーーっ‼‼」
 ぴっ。
 思わず首の辺りに力を込めてしまう。すごくうるさい。きつい。
「だめ! だめっだめ! 言っちゃだめ! キョーコちゃん‼」
 前言撤回。アヤカちゃんまでうるさいのか。もうこの学校に静かな人なんていないのか。
 なんかこう、どこか静かで一人になれる場所は学校にないものだろうか。図書室は意外と人が多いし。トイレか。いやトイレは臭いし汚くて気持ち悪くなるからダメだ。他にないのか。朝からうるさすぎる。
「ごめ、ごめん! 言わない! 言わないから!」
「もうっ! もーっ‼」
「えー、姫がそこまで慌ててんの、ちょー気になるんですけど」
 女子たちはきゃいきゃい騒ぎ立てる。アヤカちゃんはもう叫んでないけど。それでも三人の高い声がボクの鼓膜をガンガンと痛めつけている。
 三人寄ればカシマしい、ホントなんだなあ。

 おはよー!
 ねーねー、昨日のテレビさあ……。
 今日放課後遊ぼうぜ!

ざわざわと。がやがやと。
 最初はマシロとキョーコだけの盗み聞くこともできた『会話』が、人が増えていくにつれて、どんどん『ノイズ』になっていく。
 朝一番に来る理由は、別に学校が好きだからってわけじゃない。耳をノイズに『慣らす』のだ。遅刻ギリギリに来たら、教室はしっちゃかめっちゃかなノイズで満たされてて、教室に入りたくなくなってしまう。静かなうちから来て、だんだんと騒がしくなっていく教室にいることで環境に適応するのだ。これはボクが高学年になってようやく理解した、自分の体との向き合い方だった。
 ボクはうとうとしながら、去年の出来事を思い出していた。

 冬が好きだった。
 幼稚園の頃も、低学年の頃も、なぜかはわからないが、冬が好きだと感じていた。
 理由に気がついたのは、二年前の冬。たまたま夏の思い出を振り返ろうと、長女のフー姉が動画を見せてくれたのがきっかけだった。
 夏は、うるさいのだ。
 蝉の声をはじめとして、いろんな人や生き物たちが生き生きとしている時期。誰も彼もが声を張り上げている。
 それに比べて冬は静かだ。
 虫や蛙は土の下で眠り、どうしてかはよくわからないけど雪は音を消してくれる。
 ボクは、それに気づくと冬がますます好きになった。
 でもどんなに別れたくなくても季節はめぐり、ボクは嫌いな春とまた出会った。
 目を覚ましたカエルたちの声も、クラスメイトのみんなの声も、ぜんぶ、ぜんぶ、うるさくて。
 ボクは、耳を塞ぐために、冬の間ずっとつけていた、みみあてをつけた。
 少しだけ、ほんの少しだけ、ノイズがましになった……と、思った。
 でも。
「おまえ、なんでみみあてつけてんの?」
「もう冬じゃないよ? あつくないの?」
「へんなのー!」
 うるさい。うるさい。ノイズがうるさい。
 人は、人と違うものに敏感だ。
 みんなと違うものを持っているだけ。つけているだけ。好きなだけ。できるだけ、またはできないだけで、人は人をバカにしたり、からかったり、いじめたりする。
 どうしてだろう。
 梅雨前のある日、ボクはみみあてをつけていた。担任の先生は眉を寄せながらボクの名前を呼ぶ。
「なんですか」
「……そのみみあて、取りなさい」
「……イヤです」
「なぜ?」
「……うるさいからです」
「違う。取れと言ったら取りなさい。理由なんか聞いてない」
「イヤです」
 何度も、「取りなさい」と言われては「イヤです」と答えるのを繰り返すと、ボクはその先生にとって『悪い子』として扱われるようになった。
 『悪い子』はなにをされても、「あなたが悪い」と言われるようになる。たとえ、ボクにとってとても大切な、みみあてを取られたり、壊されたりしたとしても。
「あなたがそんなのつけてるから悪いんでしょ?」
「先生の言うことを聞かないからです」
 そう言われて、おしまい。
 それでもボクは、『みみあて』と呼ばれることも、ヘンなヤツだと思われることも、受け入れた。
 ボクは、ボクが悪いだなんて、思わなかったからだ。

「学校、行きたくない……」
 ある朝、ボクは父さんに言った。
 父さんは、またか、と困ったような顔をしていた。
「具合、悪いのか?」
「ん……そんなとこ」
 朝食のトーストをガリガリ食べていた雪姉さんがギロッとこちらをにらむ。雪姉さんはボクに負けず劣らず朝に弱いので、この時間はいつも、不機嫌だ。
 父さんははぁ、とため息を吐く。そのため息は言葉にならない言葉で、「めんどくさいな」と言っているようで、ボクの心に突き刺さる。
 父さんはすごく仕事ができる。こうしてボクら三姉弟を一人で養っているわけだし、一軒家も車もある。ただ、論理的すぎて、人の心に寄り添う、とかはできないのかもしれない。
「わかった。今日は休むといい」
 心はチクチクするが、その言葉にほっとした。でも。
「はあ!? なんでよ!」
 抗議の声を上げたのは雪姉さんだ。
「風邪なわけないじゃん! 絶対嘘!」
「雪。やめなさい……」
 父さんは雪姉さんをなだめようとするが、一度キレた雪姉さんは黒板をひっかくような声でボクを責め続ける。
「どうせ学校でイヤなことあったとか、今日の宿題やってないとかでしょ! アンタそんなんで休んでいいと思ってんの⁉」
 みみあてがないから耳を守ることができず、雪姉さんの声が直接鼓膜を痛めつける。頭痛がしてきた。
「プー姉もアンタみたいに不登校だったから、今あんなクソニートになってんのよ!」
 プー姉というのは長女の風姉のことだ。フー姉は今、会社を辞めて部屋にほぼ引きこもっている。雪姉さんはそれが許せなくて、思いっきり軽べつを込めてプー姉と呼ぶ。
 でも、フー姉はフー姉で頑張ってないわけじゃないのに……。
 モヤモヤしながらフローリングの模様とにらめっこをしていると、雪姉さんはテーブルを叩き、叫ぶようにボクに言った。
「あんたもプー姉と同じよ! 甘えてんでしょ! 休みの連絡は自分でしろっ!」
「――――っ!」
 ボクは、その言葉を聞いた瞬間、顔がかあっと熱くなった。
 甘えてる? ボクは甘えてるのか? うるさいものが嫌いで、なんとかしようとして、いじめられて、何もかもイヤになって、学校になんか行きたくないと思うのは、甘えなのか?
「おい、どこに行くんだ!」
 父さんの声を背中に受けながら、ボクは走って、玄関を飛び出した。
 学校も、家も、先生も家族も、みんな。
 だいっきらいだ。

 走って、走って、走った。とにかく遠くに行きたかった。最低でも学区外。線路に沿って歩けば、もっと遠くへ行けるだろうか。
 そう考えながら、走った。新幹線が通る高架下を抜けて、郵便局の前を通って、家から二キロ離れている駅の近くまで来て、ようやく、足が止まった。口が渇いている。背中は汗でぐっしょりとぬれていて気持ちが悪い。太ももが痛くて、思わずさする。
 疲れた。
 休みたい。
 日陰の目立たない場所にベンチがあるのを見つけて、ふらふらと座る。
 息が落ち着いてくると、どうしようもなく胸がつかえた。甘えてるんでしょ、という声が頭の中で響いて、顔がこわばる。息をどんなに吐いても、胸の苦しさが消えない。
 そのうち、息がだんだんとしゃっくりのようになってきて、ポタポタと太ももに水がこぼれていた。
 認めたくなかった。
 逃げてることを認めたくなかった。逃げることは甘えてることだと認めたくなかった。
 ボクは、頑張ってる、はずだ。
 
「キミ、なぜ泣いているのかな?」
 その声に、びくりと体が固まる。
 不思議な声だった。柔らかくて、どこかボクの声に似ているような気がした。
 ボクは、おそるおそる顔を上げる。
 髪の短い大人の女性が、ボクを心配そうにじっと見つめていた。
 その女性は白いズボンの尻ポケットからキレイに畳まれたハンカチを取り出し、ボクの涙を拭いてくれた。ハンカチからは、香水だろうか、エレガントな花の匂いがした。
「すみ、ません。だいっ、じょうぶ……」
「涙を流しながら言う『大丈夫』は、あまり大丈夫じゃないんだよ。私の経験上ね」
 ボクの目から溢れてくる涙を、丁寧に、一滴一滴拭いながら、お姉さんは言った。
「どうかな、キミが泣いてる理由……教えてはくれないかな。力になれるかは、まあ、わからないが」
「……いえ、でも、ご迷惑だと……」
 思います、と最後まで言うよりも先に、お姉さんは口を開く。
「私は薫。今の季節と同じ、草冠のほうの。キミには少し難しい字だろうけど、呼んでみてくれるかな」
「……かおる、さん」
 ボクが名前を呼ぶと、お姉さん……薫さんは満足そうに頷いた。
「うん、私が薫だ。キミの名前は?」
 その様子が、なんだか、いつも周りにいる大人の誰よりも、頼りになるような気がして、でもやっぱり得体が知れなくて、ボクはつい、ひねた返事をしてしまう。
「みみあて、です」
「へえ、不思議な感じだけどいい名前じゃないか」
 そう言った薫さんの笑顔が、なんだかボクを助けてくれそうな気がして、ボクは、ボクの事情と、今日あったことを静かに話し始めた。涙はいつのまにか止まっていた。

「それはおそらく、HSPだね」
 ボクの話をすべて聞き終わった後、薫さんは静かに言った。
「病気……ですか?」
 ボクは知らない言葉が出てきたことに少し怯んだ。
「いいや。人より少し感覚が過敏な子という意味だ」
 かんかくかびん?
「例えばだ、こんなことはないかな。突然の怒鳴り声にすごく驚く、とか。学校のトイレの臭いが我慢ならないくらい臭くて気持ち悪いのに周りはけろりとしているとか」
 ボクは驚いた。トイレ掃除がすごく嫌な理由、みみあてをしている理由。まるでボクの心を覗いたみたいに、薫さんはすらすらと言い当ててしまった。
「それは、聴覚、つまり耳がすごくいいからだったり、嗅覚、においをとても強く感じるからだ。そして残念なことに、こういった感覚の『普通』は自分基準でしか考えられない。だから他人にはキミの『普通』をおおげさだと思われてしまうんだ」
 ボクは薫さんの言葉の意味を少し考えた。
 例えば、ボクは空を見て青いと思うけど、『ボクにとっての空色』は『他の人にとっての赤色』だったりするかもしれない。でも、その違いに気づくことはきっとない。だって、人の感覚を共有することはできないから。
 薫さんは、そのわかりあえない違いが、ボクの泣いている理由なのだと言っているのかもしれない。
「薫さんは、どうしてボクのこと、エイチエスピーのこと、わかるんですか」
「わかるさ。ふふ、だって、私もそうだからね」
 薫さんはトレンチコートのポケットに手を入れると、何かを取り出した。手のひらを見ると、ずんだ色の小さな耳栓がふたつ、からころと転がった。
「人の多いところや騒がしいところではコレを使うんだ」
 ボクは驚いた。だって、薫さんはとても普通の女性に見えた。なのに、ヘンなボクと同じ感覚を持っているのだ。
「私も、子供の頃はそうだったよ。給食のご飯のむあっとした匂いがキツくてね。配膳係は多少重くとも牛乳を運ぶ係をやっていた」
「お、おなじ……!」
「ははは、感覚過敏はそんなに珍しい存在じゃない。確率で言うなら、クラスに一人か二人は確実にいるものなのさ。それこそ、昔の私みたいに、『これが普通の感覚なんだ』と思って、自分の感覚が鋭いことに気づいていないかもしれないしね」
 そうなんだ。同じ感覚がある人は、薫さん以外にもいるんだ。
「さて、感覚過敏は病気でもなければ障害でもない。心理的定義であって、治療はできない。つまりみみあてくんはこれからの人生、耳の良さに付き合っていかなければならない」
「付き合っていく?」
「そうさ。そこでね……――――」

 薫さんはボクに感覚過敏の付き合い方を教えてくれた。気がつけば下校時刻の一時間前くらいになって、帰らないと同級生に見られるかもしれないと思い、後ろ髪をひかれる思いで帰った。学校を休んだ日に同級生と会うのは少し恥ずかしい。
 薫さんは「私はよく図書館にいるから。また会えるさ」と言ってくれていたが、ボクは薫さんと別れた瞬間に、薫さんと話をしたくなった。
 また会いたい。

「フー姉、ちょっといい?」
 帰ってきてすぐ、ボクは長女のフー姉の部屋の扉をノックしながら言った。
「んおっ? どうしたん」
 フー姉は扉を開けてボクを招き入れてくれた。フー姉の部屋に入るのは久しぶりだ。部屋は布団の周辺や机の近くがごちゃっと散らかっているけど、本棚はきちんと整頓されている。ぐじゅぐじゅのくだものとミルクを混ぜたような匂いに、香水やメイクの甘い匂いが混ざっている。もふもふしたぬいぐるみの隣に化粧品が転がっていて、大人と子どもが混ざった部屋だと感じた。
「ほしい……ううん、必要なものがあるんだけど……」
「ひょ?」
 薫さんはボクに耳栓をおすすめしてくれた。
 フー姉はよく通販を利用しているので、詳しいと思ったのだ。ボクの判断は正しかった。慣れているのだろう、パソコンを立ち上げ、ブックマークからAmanonという通販サイトにアクセスすると、カタカタッと素早く検索バーにボクが言ったとおりのものを打ち込んでくれた。
 薫さんが言うとおり、聴覚過敏の人はやっぱりいるようで、サイトにはいろんな形のみみあて……イヤーマフというヤツが並んでいた。
 フー姉は子ども用と書かれている商品の画像をクリックした。
「これとかよさげでは? ほうほう、ささやき声やテスト中の筆記音が聞こえなくなるくらい。色もかわいいし。アオ、いいよね……」
「うん。頑丈そうだし、これがいいかな」
「草。性能重視でダメだった」
 そうでもない。耳栓型じゃなくわざわざみみあて型を選んだ理由は、耳栓と比べてなくす可能性が少ないとか、周りに聴覚過敏をアピールできるとかいろいろある。でも一番の理由は、ボクが薫さんに『みみあて』と名乗った手前、『みみせん』ではダメなのだ。
「じゃあ注文するね。しかし、我が弟が聴覚過敏たぁね……苦労してんだね」
「フー姉だってそうでしょ。会社でいろいろあったって」
「やー。まあね……あたいオッサンに尻を揉ませたりお茶をくむために会社入ったんじゃないんですけお……ってね」
 そう。フー姉だって苦労している。甘えているわけじゃない。ボクはフー姉と仲がいいからフー姉の事情を理解している。でも、雪姉さんはきっと知らない。だから雪姉さんには、ボクらがサボっているように見えてしまうのだろう。
「おっと、小学生の弟に向かって闇深めな自分語りしてしまったんぬ……」
「できることあったらなんでも言って。いつもフー姉には助けられてるから」
「んんーん……弟の優しさがスーッと効いてこれは……ありがたい……」
 フー姉は、独特の言い回しをする。ボクはそれが好きなのだが、真似をすると止められる。なぜだろうか。
 まあ、今はそんなことはどうでもいいか。

 翌日くらいにAmanonからみみあてが届いた。思ったよりも頑丈そうで、テカテカとしたブルーがなかなかオシャレだった。
 ボクは早速、それをつけて学校へ行った。
 結論から言って、みみあての効果は劇的だった。車のクラクションを聞いても、心臓が飛び出そうにはならなかった。テスト中、教室中に響く筆記音が気にならなくなった。授業中、斜め後ろの席の子たちの、内緒話が気にならなくなった。
 これならボクは、HSPと付き合っていけるかもしれない。

「うわっ、まだみみあてしてるし」
「ヘッドフォンじゃね? 学校に勉強に関係ないもの持って来ちゃダメって言われてんじゃん」
 ――だから、こんな『声』とも付き合っていける、はずだ。
「あれ? 聞こえてる?」
「聞こえてないんじゃね? 音楽聴いてんでしょ」
 無視しろ。無視しろ。反応したら、こういう奴らは、面白がって調子に乗るんだ。
「もしもーーーし‼ 聞こえますかあーーー‼」
「っ……!」
 くそ、くそ。うるさい。
 なんだってこう、意地悪なヤツは声がデカいんだろう。
「ほらー、やっぱ聞こえてねーよ。取っちゃおうぜコレ」
「だよなー、無視されると傷つくもんなあ」
 頑張れ。頑張れ。逃げるな。逃げなければ、きっと――――。
 みみあてを無理矢理外されそうになる。左耳が外気に触れて、湿気が逃げる。
「くっ」
 フー姉がわざわざ買ってくれたんだ、また壊されてたまるか。ボクはみみあてを守ろうと、そいつの手を振り払おうとして――――
「――――やめろよ、お前ら」
 誰かが、そう言った。
 声がしたほうを見る。
 見たことのない顔だった。日に焼けた小麦色の肌、しゅっとした目鼻立ち、ボクより二回りほど高い身長。
 それがカズとの出会いだった。

 ――――なんてことがあったのがちょうど一年前だ。
 ボクはこの一年、みみあてをつけて学校で生活をして、たまに学校を休んでは図書館に行き、薫さんと話したり一緒に本を読んだりして一年を過ごした。
あだ名もみみあてですっかり定着し、親友のカズもみみあてと呼ぶようになった。
 この春のクラス替えによってちょっかいを出してくる奴らは別クラスになり、担任もあのへんくつな先生に替わって、ボクのみみあてを許容してくれる先生になった。そして、カズと同じクラスになった。ボクにとっていいことばかりだ。
 薫さんはいろんなことを知っていた。大人はなんでも知ってるわけじゃない、とはわかっていた。でも薫さんはなんでも知っているんじゃないかと思うほどに、ボクの質問に答えてくれる。 
 ボクは薫さんみたいな大人になりたいと思うようになった。

 その日の放課後、帰り道。
「お前さ、俺と友達になったときのこと覚えてるか?」
 カズが急にそんなことを言い出したので、ボクは首をかしげた。
「カズがボクを助けてくれたときのこと?」
 カズは一年前、ボクが新しいみみあてをつけ始めた頃、またいじめられそうになっていたボクを助けてくれたのだ。以来ことあるごとにボクを守ってくれて、つかず離れずになっているうちに今ではすっかり仲良しだ。
 そのときのことを言っているのだろうか。
「あー、やっぱ覚えてねーか」
 違ったらしい。
「あの時よりちょっと前に会ってるんだぞ、俺たち」
「え、いつ? 入学式とか言わないよね」
「……校庭でめちゃくちゃ走った記憶ある?」
「体力測定くらい?」
「もっと。マラソン大会以上」
 思い返してみる。ボクは別に走るのは好きじゃないので、授業でもない限り走らない。休み時間も積極的にグラウンドに出ることはない。もし走るとしたら急いでいるとか、後は……あ。
「なにか追いかけてたことがあった気が……確か、手袋みたいな」
「それ! それだよ!」
 急にどうしたのか、カズは興奮気味にボクを指さす。
「俺、六年生にサッカーグローブ取られてよ、お前、取り返してくれたんだぜ。六年生三人も相手にして、絶対諦めずにさあ……」
 ……ああ、なんか「返せ返せ」って上級生を追いかけて、上級生が三人がかりで手袋をパスしたりボクを妨害したりしながらもなんとか……体力勝ちしたんだっけ。
「あんときよ、『俺もアイツみたいに、いじめられてるヤツがいたら絶対諦めずに助けるんだ!』って思ったのに隣のクラス覗いたらお前がいじめられててさあ」
「……あったような気はするけど、あれ、カズだったのか……全然気づかなかった……」
「聞けよ……。もうちょっと自分のことに本気出してもいいんじゃねーの? お前が本気出せばいじめられたりしないじゃん」
「いや……だってああいうのって相手にするの疲れるし……」
 確か手袋を取り返した次の日も、疲れすぎて学校休んだんだっけ。
「じゃあ、なんであのとき俺を助けてくれたんだ?」
「……さあ?」
 ボクは首をかしげる。なんだそりゃ、とカズは肩をすくめる。
 そうしてカズの家が近づいてきたので、ボクたちは別れた。
 またね、と言い合って。

 それから数日が経った。ボクはなんとなく学校に行く気分ではなかったので、学校を休み、図書館へ行った。
 図書館の棚を隅々まで見る。薫さんと、ついでに面白い本を探した。
 心理学の棚のあたりできょろきょろしていると、床に何か落ちているのを見つけた。
「図書館の貸し出しカードだ……」
 ボクはそれを拾って、名前を確認する。明石香織、と書いてあった。それと、小さな星のシールが貼ってある。
 とりあえず、カウンターに行けば落とし物として預かってもらえるだろう。そう思ってカウンターの前に行くと、薫さんがいた。さっきここを通ったときはいなかったので、行き違いになったのだろう。しかしいつも余裕綽々な顔をしている薫さんにしては珍しく、少し慌てた様子だった。
 薫さんはボクに気づき、やあ、と手を振った後、また司書さんに何かを言おうとして……素早くボクのほうを二度見した。正確には、ボクの手に持っているものを見て、だ。
「ああ、よかった! みみあてくんが拾ってくれたんだね、ありがとう!」
「? これですか?」
 ボクはカードを見せる。
「ああ。その貸し出しカード、私のなんだ。シールを貼ってるからすぐわかる」
「え……でも、名前が……」
「あ……そうか、見たのか……」
 薫さんは、気まずそうに頬を掻いた。
「私の本名はかおりなんだ。薫じゃなくて。別にだますつもりじゃなかったんだけど」
 薫さんが何を言っているのか、よくわからなかった。薫さんが香織さん?
「えっと……薫さんは、本当は香織さん……薫のほうは、あだ名ですか?」
「いいや。……嫌いなんだ、私。香織って名前」
「……良かったら、教えてくれますか」
「私は、自分の性別が疑問でね。女じゃなくて、男だと……自分では思ってる。キミはまだ聞いたことがないかもしれないが……トランスジェンダー、と言うんだ」
「……で、でも、薫さんは女性ですよね……?」
「もちろん、体はね。でも心はずっと、男なんだ。恋愛的な意味で好きになる人は女性だし、スカートを履くと変な感じがする」
 確かに、薫さんがスカートを履いているところを見たことはない。でもそれは、動きにくいからだとか、単純に嫌いだからだとかの理由なんだと思っていた。
「自分の名前も嫌いなんだ……両親は女の子らしい名前をと考えてつけてくれたらしいが、私は逆に、その女の子らしい名前が、嫌いだ」
 薫さんは、ばつがわるそうに頬をかいた。
「かおりより、かおるのほうが本当の自分って感じがするんだよ」
 そうなんですね。と。
 そう言えばいいのに、なぜか、ボクの口からは違う言葉が出た。
「……ヘンです、それは」
 自分でも、なんでそう言ったのかわからない。わからないけど、ボクは薫さんに、お姉さんでいてほしかったのだ。
「そう、か……」
 薫さんは、さみしそうに、がっかりしたように、そう呟いた。
 その時の薫さんの表情を見て、ボクは、『ああ、間違えた』と思った。そしてそれっきり、何も言えなくなってしまった。
 ボクは押し黙ったまま、薫さんにカードを渡した。薫さんはそれを、「うん」と一言だけ言って、受け取った。
 薫さんがそのまま、本を借りようとしている間に、ボクは逃げ出してしまった。
 帰ってきた後も、お風呂に入っているときも、ベッドに入った後も、ボクは後悔した。
 なんであんなこと言ったんだろう。
 なんで逃げたんだろう。
 なんで、ちゃんと、謝らなかったんだろう。

 次の日。薫さんに謝ろうと思って、ボクは図書館でずっと待っていた。
 謝らなきゃいけないと思った。なにを謝ればいいのか、はっきりとはわからない。でも、ボクが何の気なしに変だと言ったとき、薫さんはすごく悲しそうだった。
 ボクは大切な人に「お前は変だ」と言われたら、それはもちろんツラい。薫さんだって同じはずだ。ボクは、何も考えずに、薫さんを傷つける言葉を言ってしまった。
 背中が丸くなる。息が苦しくなる。目の前が狭くなっていく。机の木目で迷路をして、この気持ちから逃げようとしている自分に気づく。ぎゅっとくちびるを尖らせて、余計なことを考えないように耐え忍ぶ。
 謝らなきゃ。謝らなきゃ。謝らなきゃ……。
 でも、会うのが怖い。薫さんは、ボクにがっかりしたんじゃないだろうか。怒ったんじゃないだろうか。
 昨日の自分の口を塞ぎに行けたらいいのに。そしたら今日も、昨日までと同じ薫さんとボクだったはずなのに。
 そんな考えがいつまでもいつまでもボクの頭の中をぐるぐると回っていて、今にも目からこぼれていきそうだった。
 薫さんは来なかった。

 図書館の職員さんに「ごめんなさい。今日はもう利用できないんですよ」と言われて、ようやく丸一日経っていたことに気がついた。ボクは細い声で「わかりました」と返事をして、外に出た。辺りはもうすっかり暗くなっていて、家に帰ったら怒られるだろうな、と思うと胸がますます苦しくなった。

 ため息を吐く。立ち止まり、自己嫌悪で頭を掻きむしりそうになって、またため息を吐いて歩き出す。足が重い。
 駅前の服屋の前を通る。すると、妙に気になる人影を見つけた。
 服屋の駐車場の近くに、きょろきょろと辺りを忙しなく警戒している、不審な……ボクと同じくらいの背丈の、人影。
「カズ?」
 思わずその背中に声を掛けると、その肩が大きくビクッと跳ねて……何かを、落とした。
 袋からはみ出したそれは、フリルのついた、かわいい服だった。
「わっ、わっ」
 カズはそれを慌てて拾って、隠すように抱きかかえながら、ボクのほうを見た。
「みみあて……」
 そう呟いたカズの顔は、耳まで赤く染まっていた。
「み、みたか。みてないよな、おまえっ」
「……ごめん。見た。女の子の服。フリフリの、アヤカちゃんが着てるみたいな、かわいいやつ」
 カズは、この世の終わりみたいに顔を青くした。

 二人で近くの公園に来た。石の階段に肩を並べて腰掛けて、ボクはカズの言葉を待った。
「ずっとさ……かわいい服に憧れてたんだ。ほら、デゼニーパークでだって、女の子はお姫様になれるのに、男はなんにもないじゃん。ずるいとかじゃねーんだけど、羨ましいなって」
「それで……買ったの? すごいな、行動力」
 カズは「そこかよっ」とツッコむ。心なしかいつもよりキレがなかった。
「あー、うち、共働きで親が帰ってくるの夜遅いから……夕飯代をちょっとずつ貯めてさ、それで買ったんだ」
 給食をおかわりしてたのは夕飯代の節約だったのか。
「そういえば女子が、カズがアヤカちゃんのこと熱っぽい目で見てるって……もしかして」
「え、そんな話になってたのか。アヤカの服かわいいなって思ってたんだよ……ジロジロ見すぎたか……」
 アヤカちゃんの服はお姫様のようで確かにかわいい。カズはその服を見ていたのか。
「だいたい、アヤカの好きなヤツって俺じゃなくておま……」
「え?」
「なっ、なんでもねえ」
 カズはそのまま押し黙った。
 気まずい空気が流れる。そのまま二人で黙ったまま、少し時間が流れた。
「俺、ヘンかなあ……?」
 ボクはハッとしてカズの目を見る。カズはこっちではなく地面を見つめていた。
 カズの声は震えていた。今にも泣き出しそうな声だった。
「だって、だってさ。男なのに女の子の服買っちゃうのって、お、おかしいじゃん。ヘンタイじゃん。俺……」
「そんなこと……」
 なにか言おうとしてふと、薫さんの顔が思い浮かんだ。
 ヘンだ。そうだよね?
 ヘンじゃない。そうなのかも?
 どっちだ? なんて言えばいい? なにが『正解』? どうすれば『間違い』じゃない?
 ボクは迷って、結局なにも言えなかった。
 でも、今度は逃げなかった。逃げたら後悔することを、ボクはすでに知っていた。
 カズを家まで送ってから、帰路についた。ボクは歩きながら考えていた。
 カズは悩んでいる。
 なにもしなくてもいいのかもしれない。時間が解決するかもしれないし、あるいはカズが自己解決するかもしれない。
 でもボクは、泣きだしそうな友達を放っておくのは、我慢ならなかった。

 前に、手袋を取られて、悔しそうに下を向いていた子がいたのを思い出す。
 泣かないように歯を食いしばって、顔を真っ赤にして、耐えようとしている。
 でも、今にも泣き出してしまいそうで、ボクは、その子の顔を見た瞬間に、こんな顔にさせている奴らを、許せなくなった。
 あの時と、似た気持ちだ。

「フー姉」
 気がつけばボクは、またフー姉の部屋を訪れていた。
「お、どした? また通販?」
 フー姉はボクを部屋に入れ、頭を撫でてくれた。ボクの表情が暗いことに気づいているのかもしれない。
「服、貸して」
「ん? どてらにはもう暑いと思うけど。それともジャージ?」
「ううん。……フー姉が作った女の子の服」
「……ファッ!? な、なんでまた!?」
「……着るから」
「説明になってないって!」
 意を決して、ボクはフー姉に打ち明けた。
 友達が自分自身のあり方に迷っていること。ボクはたまたまそれを知ってしまったこと。ボクは友達に勇気を持ってほしいこと。そのために女の子の服が必要なこと。
 そして、これからやろうとしていることを話すと、フー姉はゆっくり口を開いた。
「いいのかい? そんなことしても、恥をかくだけで、友達は感謝なんてしないかもしれない。むしろ、余計なお世話だとか、俺のことバカにしてんのかとか言われるかもだお?」
「いいよ。ボクはもう『ヘンなヤツ』だからさ。失敗したってヘンなヤツのままだよ。それより、いつも堂々としてる友達が、泣きそうなほど悩んでるんだ」
「助けたいって?」
「ううん。ただ、迷ってるなら、進み方を見せてみたい」
 フー姉は、ボクの言葉に満足したように笑う。
 そして、引き出しから採寸用のメジャー、針と糸と裁断バサミ、棚からミシンや布地をドサドサと並べる。
「――――……いいねえ。姉ちゃんに任しときなよ。コスプレ界隈の『時をも縫いつける女神(タイムステッチ・ゴッデス)』の名にかけて、一晩でその勇気に見合うとびっきりの衣装、繕ってしんぜよう」
 ボクたちは頷きあう。
 作戦、開始だ。
 
 次の日、ボクはカズの家の前でカズを待っていた。
 ここに来るまでですでに視線の剣山に滅多刺しにされていた。だが、今日はこれで行くんだ。徹夜で服を作り上げてくれた姉さんのために。なにより、友達のために。
「おっ……は⁉ え? みみあて⁉ なんだその……カワイイ服⁉」
「……おはよう」
 カズは、ボクの服をまじまじと見る。すげー……とか、かわいー……とか、ぼそぼそと一人呟いている。
「はやく行こうよ」
「へ? どこに?」
「学校でしょ」
「えっ⁉ その服で行くのか? マズいって! 家帰って着替えて来いって!」
「いいから」
「え、おい、みみあて……」
 カズは何度も、ボクを止めた。そのたびにボクは「いいから」と答えて、学校へと向かった。
 早朝だから人通りは少ない。しかし、やっぱり人の目は気になる。気になるが……。
 それでも、やってみせよう。
 校門を通ると、下級生や先生が遠目に見てくるのがわかった。
 下駄箱で靴を履き替え、廊下を突き進む。
 五年二組の教室が近づく。女子の話し声が聞こえた。
「マシロとキョーコの声だ。アヤカもいるか? なあ、みみあて……やっぱりさ」
「カズ、ボクを信じて」
「あっ、おい!」
 ここまで来てコソコソはしない。教室のドアを勢いよく開け、教室にいたクラスメイトに挨拶する。
「おはよう」
「ひゃわぁっ⁉」
 ちょうどドアに背を向けていたアヤカちゃんは素っ頓狂な声をあげた。
 その声を皮切りに、マシロとキョーコがこちらを向く。
「おは――――、は? みみあて、なにその服」
「えー……引くわ」
 どきん。
 予想通りの反応だ。だから痛くない。
 マシロとキョーコは珍しそうにボクに近づき、服をじろじろと見る。
 一方アヤカちゃんは顔を赤くし、マシロの後ろに隠れた。
「着てみたいと思ったんだ」
 ボクはマシロの目を見て答える。
「えーキモ。オカマじゃん」
「恥ずかしくないのー?」
 どきん。どきん。どきん。心臓の音がうるさい。その言葉が、その視線が、その笑い方が、ボクの心をアスファルトに擦りつけるように傷つける。
 でも、大丈夫。
「や、やめろよっ!!」
 ほら、カズは助けてくれる。ボクは知ってるよ。カズの優しいとこ。
 カズがヘンかどうかはどうでもいい。カズがカズだから、ボクは頑張りたいんだ。
 ボクは深く息を吸う。
「恥ずかしくないよ、別に」
「え?」
「かわいいでしょ? この服」
 ボクはむんっと胸を張る。フー姉が作ってくれたんだ。クオリティは保証されている。
「かわいいよっ‼」
 大声をあげたのは、マシロたちの後ろにいたアヤカちゃんだ。
「そ、そうだっ! めっちゃかわいい服だろ!」
「……あっ、そ、そう! 服! すっごくかわいい、と思う‼」
 カズとアヤカちゃんは服を褒めて、庇ってくれる。
「まー、服はかわいいけどー……」
「ねぇー……」
 二人の必死の様子に、マシロとキョーコは顔を見合う。
 受け入れられなくても、いい。
 これがリアルな反応だ。
 これを見て、カズがどう思うかだ。
 
 帰り道。やはり、ちらちら見る人もいる。が、学校ほどではない。慣れてきた。
 カズは今日一日、ボクを庇ってくれていた。でも、元からボクがヘンだからこそ、『またみみあてか』というように、あまり気にされなくなった。帰りの会までには特に誰もなにも言ってこなくなり、カズが庇わなくてもよくなった。
「なあ、みみあて。今日の……ってさ。その……」
 カズが言いよどむ。頬をぽりぽり掻いて気まずそうにする。
 ボクはカズの一歩半前を行き、言う。
「カズ。カズがヘンかどうかは、ボクが決めることじゃない。カズ以外のみんなが勝手に決めてしまうことだ」
 カズは、黙って聞いている。
「ヘンであることは、勇気が必要だし、恥ずかしいし、周りはうるさいし、楽じゃない。でも――――」
「でも?」
「ボクのみみあてをカズが庇ってくれたように、ボクはカズがヘンだって言われたら、庇うよ」
 カズは、あ……、と言った。なにかに気づいたような声だった。
「ボクは明日も、この服で学校に行くよ」
 それは暗に、カズもあの服を着てこい、と言っているように聞こえただろう。実際、そう言っている。勇気を持つことを強制している。ひどいことをしている。フー姉が言ったように、余計なお世話だ。
 それでも……。
「もし明日、あの服着ていったら……ヘンだって言われるんじゃねえか?」
「言われるだろうね。でも、ヘンなヤツが二人いたら、なにか変わるかもしれない」
 ボクは顔をカズの方へ向ける。カズはボクの目をじっと見つめてきた。
「変わりたいなら、変えたいなら、やるしかない。やるかやらないかを決めるのはカズだ」
 ボクがそう言うと、カズはそれから、「また明日」以外の言葉を、別れるまで口にしなかった。

 次の日、雪姉さんに大反対されながら、ボクは昨日と同じ服……厳密に言えば、フー姉が夜中にバージョンアップさせてクオリティをあげてくれた服を着て、カズの家に行った。
 カズの家のインターホンを鳴らし、しばらく待つ。
 がちゃり、と鍵の開く音がして、ドアが開く。
「き、ききき、着ちゃった……」
 カズは、あの服を着ていた。フリフリのフリルがふんだんにあしらわれたワンピース型の服。
「いいじゃん。お姫様みたいだ」
「褒めてんのか? それ……」
 カズは顔を赤く染めながら、ボクと一緒に学校へ向かった。

 今日は委員会の仕事があるからか、早く来ている生徒が多いようだった。
 いつものように人が少ないところからゆっくり慣れていこうと思っていたのに、すっかり忘れてしまっていた。ボクは内心冷や汗をかく。カズは大丈夫だろうか。
 ちらとカズの顔を見る。顔が赤い。でも、覚悟は決まった、という顔だった。
「おはようございます」
「は、はよざーっす!」
 クラスにはマシロ、キョーコ、アヤカちゃん、その他に七人ほどクラスメイトがいた。誰が言ったのか「ええっ」という声に、ボクたちは、いや……カズは一斉に注目を浴びた。
 一瞬の静寂。カズがそんなことするなんて、という失望にも似た冷たい視線。
 でも、カズは、むんっと胸を張って。
「お、おれも着たくなった……から!」
 カズの堂々とした声がクラスに響いた。
 安堵の息が漏れたのは、ボクだったか、あるいは「いつものカズだ」と判断したクラスメイトだったか。
 クラスメイトたちは、カズもオカマかよーとはやし立てたが、すぐに収まった。
 どうやら、カズはボクをかばうために女装したのだと思われたようで、昨日のボクのように質問攻めにはならなかった。むしろ、友達をかばうために恥ずかしいこともするなんてと女子たちからの評判が上がったくらいだ。
 作戦は、失敗という結果に終わらなかった。ボクはとてもほっとしたのだった。

 帰り道。
 カズが呟く。
「……今日のこと、一生忘れられないだろうな……」
「後悔してる?」
「んー……すげー恥ずかしかったから、ちょっとな」
 ……やはり、フー姉の言ったとおり、余計なお世話だったか。
 ボクは視線を下に落とす。
 カズは「でも」と続けた。
「でもさ、モヤモヤを抱えたまんまヘンな大人になるんじゃないかって考えてるより、ちょっと勇気出して、思いっきり恥かいたら、意外とスッキリしたっつーかさ」
 カズはぴょんぴょんと前を行く。フリルがふわふわひらひらと揺れる。
「ま、この服はカワイかったけど、俺には似合わないって気づいたよ。俺はカワイイ服が好きであって、俺が着たいわけじゃないや。サッカーもできないしな!」

 前を行っていたカズは、ボクの方を向いて、にかっと笑った。
「ありがとな、みみあて」
「どーいたしまして」
 コツ、と拳を突き合わせる。ボクたちにとってのフツーを確かめ合うように。
 
 じゃーな、と言い合って、カズと別れた後、家に向かって歩き出してすぐ、人影が二人分、見えた。
 近づくと、そのうちの一人が、こちらにひらひら手を振っているのがわかる。
 もしかして、と小走りで近づくと、それはよく知る人物だった。
「やあ」
「薫さん! それに……フー姉?」
「やー。久々の外は眩しいねえ……徹夜明けにゃあキツいにゃん」
 フー姉は猫背で寝ぼけ眼を擦っている。それを見た薫さんは「相変わらずだなあ」と笑っている。
「どうしてフー姉と薫さんがいっしょに?」
「私たちは、大学の同級生なんだよ。もっとも、キミがフーの弟だと知ったのはつい最近だけどね」
 そうだったのか。
 ボクは、薫さんに頭を下げる。
「あの、ボク、あの日、逃げちゃって……ごめんなさい。あと、ヘンだなんて言って……ごめんなさい」
「いいよ、気にしてない。事実だ。私はヘンで……フフフ、キミもヘンだ」
 そう言われて、自分が女装していたことを思い出した。
「あ、いや、あの、これは」
 ボクは慌てて説明しようとする。顔が熱かった。
「知ってるよ。友達のために頑張ったんだね。視線に敏感な人にはなかなかできることじゃない」
「な、」
 なんで知ってるんですか、と聞こうとした瞬間、薫さんの後ろでフー姉が手を合わせていた。
「すまん、お姉ちゃんがお漏らししちゃった」
「フー姉……」
「親友にウチの弟自慢したら弟と親友が知り合いだったと判明しまして……おれが悪い、あんまり怒らないで、しらなかったんです、すみませんでした……」
 略しておあしすおあしす~とつぶやき続けるフー姉に、ボクはしょうがないなと肩をすくめる。
「いっしょだね。私たちはどっちもヘンで、でもそれが『私たち』だ」
 薫さんは微笑んだ。その笑顔は全部わかってると語っているようで、そしてどこか安心しているようで、ボクは薫さんのその顔を見ると、肩の荷がすっと下りた気分になった。
「……だから、頑張ってる、ですね!」
 ヘンなボクでも、ヘンな薫さんも。ボクたちにとってはそれがフツー。
 いろんな理由があって、ボクたちは、ボクたちなんだ。ボクたちがボクたちでいるために、頑張っているんだ。
 ボクはみみあてを撫でながら、そう思った。

 その次の日は、カズが言うには、すごかったらしい。
 マシロもフリフリのかわいーの着てきたとか、反対にキョーコは渋くてダンディなの着てきたとか、クラスメイトがかっこいいものかわいいものに素直になった、と。
 ボクたちの勇気は、ほんの少しだけクラスを変えたらしい。
 ボク? ボクはここ数日頑張ったせいで疲れたので、熱出して寝てた。
 かっこつかないなあ。

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