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障害を通して優しさとは何かを考える

職場に車椅子に乗っている人がいる。ある日彼女は言った。「言いづらいんですけど、自然にドアを開けてくれたり、コンセントを刺してくれたりする人にイライラしてしまう時があるんです。」と。

その一言は職場でも色んなリアクションを産んだ。善意でやってたのにとか。そんなこと言われるなんて思ってなかったとか。なんかごめんなさいとか。「優しくしたのに拒絶された」という不思議な感覚を感じた人が多かったと思う。

もちろん、その人は誰かを責めたかったわけではない。ただ、「自分でできることは自分でしたい」という皆が持つ自然な感覚を持っていただけだと気付く。

例えば、怪我をして一時的に障害を持っているだけなら、同じ場面でもきっと「助けてもらえてラッキー」と思うだろう。でも、それが毎日、毎時間になったら?常に「出来ないだろうからやってあげる」と思われる対象で居続けることになったら?親切を押し付けられ感謝を強要され続けたら?

私は耐えられないくらい悔しい気持ちになりそうだ。それでいて悔しいと言ったら「ワガママ」とか「バチ当たり」とか言われるんだろうな。

そういう社会的な抑圧や言葉に出されない差別(時に好意的なもの)を、どれだけ彼女が感じてきたのだろうと想像した。きっとドアの開閉やコンセントの件は本当に小さい一例でしかないのだと思う。その上でのあのセリフだと考えると、重みがある。むしろ、言ってくれてよかった。

彼女は常日頃伝えてくれている。「勝手に出来ないと決めつけないで、まず聞いて欲しい。自分のすることは自分で判断したい。困ったら、自分で発信します。」と。優しさは、まずその言葉を尊重するところから始まるのかなと思った。

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