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自分のスティグマと他者の怒りへの向き合い方

最近南綾子さんの「死にたいって誰かに話したかった」という本を読んでいる。そこに出てくる「生きづら会」という会が凄く良くて、私も誰かとしたいなと思っている。自分の生きづらさについて誰かにとりとめもなく話し、否定されずにただただ傾聴しあい、ところどころ共感しあったりする会だ。

そんな「生きづら会」に参加しているような気持ちで、自分の生きづらさの一つのエピソードを書いてみようと思う。

久しぶりに職場で人の怒りの感情が私に矛先が向くことがあった。対人の仕事をしているので、もっと頻繁に向くことがあってもおかしくないのだが、意外とそんなに頻度は高くない。

毎回それに対し腹を立てるわけではない。もう社会人歴も長くなったし、大体のことは受け流せるようになってきた。ただ私は、相手が自分より年齢が高かったり、異性(男性)だったり、権威や地位のある人間だったりすると、一気に喧嘩っ早くなってしまう自覚がある。それはきっと私の中に「自分より年上の男性で役職もあるんだから、自分より聡明でいるべきだ」というスティグマ(偏見)があるからだと思う。

なので、そういう相手の言動に矛盾があったり、逃げ腰だったり、保身的であったりすると無性に腹が立って、殴りかかりに行ってしまう。(実際には殴らない、暴力は反対。)「逃がすものか、絶対に負けを認めさせてやる」という感情が爆発し、昨日は自分も相手も文字通り息も絶え絶えになるくらい言い返してしまった。

まだ、自分より立場が下の人間をフルボッコにする卑怯な人間ではなくてよかったとも思う。でも、私が殴っている相手もまた人間であり、傷ついたり、怖かったりするんだろうなとも1日経って思う。

私は「言い返す」という行動で、一種の高揚感と優越感を得ているのだろう。昔から自分が正しいと思うことは誰に対しても全力で主張してきた。それが学校の先生でも、会社の役員でも上司でも、取引先の偉い人でも。(各エピソードが強烈に記憶に残っている…)そして、自分のスティグマがそれを加速させるというか、ストッパーを外させる。

思っていることが言えずに生きづらさを感じている人からすると、こんな私はずっと生きやすく見えるのかもしれない。でも私は私で高揚感と優越感を通り越した後の、罪悪感や焦燥感が待っている。

多分小学生くらいのころからそういう傾向があったので、親には「正しいことだけが世の中全てではないんだよ」と言われたし、先生には「いつか大人になったらわかるときがくる」なんて言われたこともある。でももう30歳を超えた大人になったけど、未だにいい塩梅で曖昧さを飲み込むということが出来ない。

ちなみに結婚したパートナーは私とそういう側面においてはとても似ていると感じる。間違っていることは間違っていると誰にでも全力で鉈を振るえる人で、そういうところを尊敬している。そして、私のこういう性格も「いいね!」と肯定してくれたり、話をわくわく聞いてくれたりする。

ただ、そういうパートナーとだからこそ、全力で喧嘩になったときは結構厄介であり、言葉を濁さずにいうと刺し違える形になる。全力で自分の正論をかざして殴り合い満身創痍になってから、自分が間違っていると理論的に理解できた部分にだけ謝罪する。これもこれで喧嘩両成敗的な形で一周回っていいのかもしれないが。

仕事でもプライベートでも言えることだが、殴ってる相手は決してサイボーグでは無いのだということは忘れないでいようと思う。スティグマは完全に無くすことは出来ないし、衝動的に上がってくる自分の感情をいなすこともできないけど、それくらいの意識だけなら保てる気がする。

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