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【連載小説】 彌終(いやはて)の胎児 4章〖28〗

        4章〖28〗

 北校舎の、ベッドのある個室の前の廊下や、東校舎の、相変わらず鍵の掛かった『告解室』そして『見合い室』近辺には吸い殻はほとんどなく、啓吉はそのまま戻りかけたが、ふと思い立って屋上への階段を踏みしめた。
 屋上には裸電球もなく、張り巡らされた金網もあちこちねじ曲がり、いっそ薙(な)ぎ倒された殺伐(さつばつ)たる空間であった。それでも見上げれば、思いの外に星がまたたき、奥行のある冷たい風が頬を打った。出し抜けの息抜き。開放の予告。しかし、腐った卵黄のような歪んだ満月が、一時の休息に粘質の不安を流し込む。同時に、西校舎の金網にしがみつき、人文字の指揮に当たっているらしい二人のこども教師の姿が目に飛び込んだ。金網にはスタジオででも使いそうなライトが二つ三つ括り付けられ、強烈な光を放って闇を強姦している。忍び足でその方に進むと、一人はスマホを、もう一人は楷書で「美」と書かれた色紙を持ち、グラウンドの人文字と比較しているようであった。     
「どうも、磔(たく※右払いのこと)の感じがキマらないなあ」
「しょうがないよ。まだ人数が足らないんだ。とにかく、美が美に見えなければ美は存在しない」
「美が美であるためには、美が美に見えなくてはね」
「そうさ、美を美にするには、美を美としなければならないもんね」
 もったいぶった口調の禅問答に忙しく、背後の啓吉には気がつかなかったらしい。吸い殻が落ちているわけでもなく、見咎められては厄介だろう。啓吉はじきに階段を降りた。

 二階まで降りると、西校舎の、とある教室から二人連れの少女教師が顔を寄せ合って出てくるところであった。どうやら、美術室らしい。遠目にも悟られるほど顔を上気させ、照れ合いじゃれ合っている。いちいち頭を下げるのも癪にさわり、二人が会話に夢中になっているを幸便に、素早く北校舎の廊下に左折し、ついそこの教室に身を隠した。
「見た? 見た?」
「いゃあねぇ、あんなふうにするの?」
「なによ、知ってるクセして……けっこう感じたりしてさあ」
 そんな嬌羞ほとばしるやり取りが近づき、そのまま三階に消えていった。
 
 しばし間を置いてから、啓吉は教室を出、西校舎に踏み込んだ。グラウンドの拡声器からの怒声が遠くこもったように響いてきて、いっそこの廊下の静けさを強調しているようであった。あたりには誰もいない。再び理科室を覗く気になったのは、無論さきに放擲した好奇心もあったが、むしろこの二階西側の教室の窓からグラウンドを見下ろし、加代子の存在をなんとしてでも確認したいがためであった。
 明かりの消されてある理科室の戸を開け、恐怖によるためらいに身が強張るよりも早く、啓吉の指先は手探りで触れたスイッチを無意識の裡に押していた。無遠慮な光に曝された未知の世界を目のあたりに、啓吉が手にした箒を思わず落とすのも無理はない。
 ああ。一瞬そこに加代子を見、気が遠くなりかけたが、それは加代子同様抜けるように白い肌の、長いストレートヘアに気品漂う細面の輪郭、心持ち首を傾げ、凛とした眉、彼方を睨みつけるよう見開かれた大きな目、キッと閉じた口尻から流れる血の糸いとおしく……そんな十四、五歳ほどの美少女の姿であった。しかも、少女は上下スライド式になった黒板に、キリストさながらの磔刑に処せられているのだ。ああ、なんと神々しき無惨さだろう。それでも、打たれた釘の位置は流布されしイコンに違い、掌ではなく手首に、足の甲ではなく足首に、それはおそらく物理的重量を支えるべく算段として、骨と骨との間を選んで打ち込まれたものに違いない。
 少女は白い襟のついた濃紺のドレスに同色のベレー帽という清楚なよそおいながら、そのスカートはスリップもろとも武骨な古釘もて、展翅板の蝶のふぜいで左右に大きく広げられ、あわれいたいけな下腹部を曝している。加えて、その下腹部はあたかもたった今、遊び半分の腑分けを終えた直後にぱっくりと切り開かれ、断末魔にくねる腸やら、その他なんとも識別しかねるぬめぬめと妖しく光る臓器やらが、火掻き棒か何かで荒っぽく掻き出されたていで垂れ下がり、ぽたりぽたりと鮮血を滴らせているのだ。未熟な女陰が、血膿の中の桜貝のように痛々しい。
 磔刑美少女の周りには、その所持品とおぼしき品々……そう、小さなバスケットがある。刺繍入りのハンカチやキャンディーがある。書きかけのラブレターやブロマイドがある。ついでに、初々しいナプキンから可憐な下着類に至るまで、さながら曼陀羅でも作るよう渦を描いて打ち付けられてあった。そして、黒板にはチョークによる殴り書きの、幼稚な、それだけにいっそう残虐にして猥褻な落書が様々の手をもって所狭しと寄せ書かれ、中でもひときわ目を惹いたのは、稚拙な男根の図に他ならず、その誇張おぞましい一物は、とある臓器を指し示す荒々しい矢印の根元に記された「子宮」の真っ赤な二文字をグサリと貫いて揺るぎなかった。 
 いずれにしても、少女はものの見事に死んでいる。鍾乳石さながらの臓腑から滴り落ちる血、足に絡んで清水のように流れる血。その無表情な引力運動を除いて、微動だにしない。確かに、あからさまに死んでいる。米蔵の話を信じれば、一年以上も血を流し続け、ひたすらに死に続けている。にも拘らず、啓吉はしばしの後、この磔刑美少女の図を目のあたりに、無惨という感覚を遥かに通り越したところの、いっそ崇高なまでの悲壮美を見るに至ったのだ。からだの震えも恐怖ゆえで断じてなく、畏怖……むしろ感動と信じて疑わなかった。

 啓吉が理科室を出、階段を降りようとすると、北校舎の廊下をかの少年事務長がバケツとモップを手にやってくるのが見えた。この少年相手ならこそこそする必要はあるまい。しいて大人のゆとりを持って待ち受けたのに、少年事務長は俯いた面差しに、沈痛な、いっそ老成した表情を仮面のように張りつけ、啓吉にも気づかぬふうで、そのまま理科室の方に歩き去った。

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