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【連載小説】 彌終(いやはて)の胎児 4章〖27〗

       4章〖27〗

 二時過ぎ。娑婆の丑(うし)三つ時である。ぶらりとヤスがやってくるや、もく拾いを外だけやって校舎の方をやっていないのは職務怠慢と忠告。
「わし、親切や」
 自分を指差し、すぐに引き上げていった。
「気がきかねぇな」
 目を剥く米蔵に、
「校庭やグラウンドの周りと言ったでしょう」
「楯突く気か」
「突きませんよ。突こうにも、まともな楯も矛も持ってません。大先輩のナニと違って」 
「はっは、なかなかノリがよくなったな」
 下品な冗談も時には有効らしい。とにかく、何か用事でもない限り校内を無闇には歩き回れないのだから、図面を確認するためにもむしろ格好のチャンスであった。啓吉は再び塵取りと箒をひっ掴んで、用務員室を出た。それに、授業終了とかちあえば、どこぞの教室から出てくる加代子に出くわすことも期待できるだろう。

 二階の音楽室は空いていたが、一つおいた教室では授業が行なわれているらしく、『狂龍会』の二人が木刀を手に、お座りの犬さながらにしゃがみ込んでいる。窓側に点々と踏み漬されている吸い殻を塵取りに掃き入れながら、
「もく拾いでございます」
 二本の木刀に頭を下げ、西校舎の方に左折しようとしたとたん、二人のこども教師の、ちょうど階段を上がってきたのにぶつかった。出っ歯と縮れ毛である以外、相手の人相を確かめる間もなく、上半身が勝手に四十五度に倒れるや、少年事務長の勧告のまま、
「右大臣先生、ご苦労様です。もく拾いでございます」
「おしっこして、ご苦労様か。こいつ、馬鹿じゃないのか」
 出っ歯はそう言って、出来の悪い下級生に対するようにせせら笑ったが、縮れ毛の方は不意に啓吉の足を踵でグイと踏みつけるや、
「おい、当て付けか、もう一度言ってみろ!」
 さだめし、「栄光コース」でも席次が後ろのやつなのだろう、幼な声で凄んだのに、出っ歯の方は鷹揚なゆとりをもって間に入ると、
「やめとけ、やめとけ。どうせ豚の糞から見れば、ぼく等はみんな殿上人なのさ」
 啓吉はその間、たぶん成り行きを見守っているだろう『狂龍会』の木刀を意識しつつ、じっと頭を下げ続けた。二人のこども教師はそれ以上絡むこともなく、新作のゲームの話題に花を咲かせつつ、三階へと階段を上り始めた。ほっと一息ついて啓吉が西校舎の方に進みかけると、いきなり後頭部に小さな衝撃。とっさにからだを鯱張らせたとたん、足下に黄色のチョークが落ちて二つに割れた。てっきり、縮れ毛の仕業だろう。『狂龍会』の二人が動作懶惰に拍手の真似事をするのを目の端がとらえたが、いきりたつ己れを諌めつつ、気づかぬふりで足早に歩を進めた。 

 美術室や理科室は単に名ばかりなのか、実際の授業は行なわれていないらしく、廊下の明かりだけがいたずらに点っている以外、吸い殻もなく、いっそ森閑としている。啓吉は不意に、理科室を覗いてみようという好奇心にかられた。米蔵の言を信じるなら、血を流し続ける屍体があるという。はたして、いかなる見せ物だろう。あたりを窺いながらその方に進むと、授業のけはいもないのに、中から明かりが漏れている。はて。念のため耳を澄まそうとしたとたんに明かりが消え、咳払いと同時に戸が開き、こども教師の、疲れのいろに弛緩したような顔が現われた。出し抜けに目が合うと、こども教師はイタズラを見咎められたようポッと頬を染めるや、啓吉の礼も待たず、苛立った口調で言うことに、
「何、こんなとこでうろうろしてるの」
「へえ、もく拾いでございます」
 思わずの、「へえ」であった。
「このへんには、ないよ」
 こども教師はうるさそうに言い、洟でもかいだらしい手につまんだ丸まったティッシュペーパーを塵取りに放り込むと、蝿でも追い立てるよう掌をひらつかせつつ、
「向こうへ行って。さっ、さっ」
 くぐもったチャイムが、毛虫の這うように響き始める。こども教師に追い立てられるまま啓吉が階段の方に退くと、ちょうど北校舎から授業を終えた三、四十人の生徒達が、収容所の捕虜さながらに行進してくるところであった。理科室にいたこども教師は、いっそ人目を憚るけしきで階段を駆け上がったが、啓吉は生徒達の中に加代子を探すべく、その場に佇立(ちょりつ)して待ち受けた。教壇に立っていたらしいとんぼのような眼鏡のこども教師が『狂龍会』の一人に何やら文句を言っているけはいながら、罵られる木刀の方はさながらヤクザの組長に対するよう頭を掻きつつ恐縮している。やがて、生徒達の行列は啓吉のすぐ脇を抜け、整然と階段を降りていったが、クラスが違うのか学年が違うのか、そこに加代子の姿はなかった。
「右大臣先生、ご苦労様です。もく拾いでございます」
 鞭で風切るこども教師に啓吉は頭を下げ、続いて、行列の最後尾につく『狂龍会』の二人にも頭を下げた。階段を降りぎわ、こども教師に文句を言われていた木刀に、いきなり唾を吐きかけられたが、怒る権利を剥脱された身の、さだめしこれも「豚の糞」の重要な職務なのだろう。
 直後、数人のこども教師が三階から駆け降りてくるや、「豚の糞」なぞ無視したまま一階に消えた。啓吉は理科室を覗くのは後回しにし、とりあえず三階に向けて階段を踏みしめた。上がると、廊下に人影はないものの、職員室の方からこども教師どもの、あたかも昼休みの教室といった無邪気なはしゃぎ声が流れてくる。どうやら、グラウンドで始まった生徒達による人文字の訓練をはやしたてているらしい。会議室を挾んだ校長室の前には、灰皿代わりの大きな空缶もあったが、踏み潰された吸い殻もあちこち散乱し、現に『狂龍会』の二人が、バルコニーから身を乗り出すようにしてグラウンドに目を向けている。啓吉は吸い殻を掃き集めながら校長室の中に聞き耳を立てたが、物音一つしない。もちろん、殴り殺されたという用務員の話を思い出し、ノブに手を掛けることはためらわれた。

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