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儀式と例外

 

 昔から「儀式」、というのが大嫌いである。


 入学式、卒業式、結婚式、葬式……等々。やむを得ない場合を除いて、これまでの人生、ひたすら逃げ続けてきたものである。

 なぜ嫌いなのかと言えば、「儀式」には暗黙のうちに「例外を許さない」という掟が存在するからだ。
 この思想は、権力者が最も好んでいるはずである。一切の例外を排除したところの、閲兵式をご満悦で眺める元首の姿を思い浮かべてみれば納得出来るだろう。

 思えば、軍隊のような理路整然たる行進こそしないが、例外を許さず、きっちりとした「儀式」を以て生きている存在とは……実は、「本能」で動く動物達に違いない。
 動物にとって、「例外」を容認することは、すなわち群れの破滅にも繋がるからである。

 権力者の身になって考えてみれば、分からぬでもない。儀式次第で国民を縛り、動物の群れのごとくに飼育出来るならば、最も効率の良い統治法に違いない。

 しかし、権力者が国民をどう見做したいかは別に……人間とは断じて動物ではない。
 確かに、人間とてその肉体的機能を見る限り、動物の仲間であるという詭弁も存在しそうだが……本能の輪を断ち切り、言葉を獲得した段階で、動物とは全く別個の存在と認めるべきではないのだろうか?

 人間とは常に、儀式の掟を破り、例外的行動をもって進化を続けてきたはずである。
 もし人間社会が群れの儀式の縛りそのままに、例外を許さなかったのなら……恐らく、未だに旧石器時代から踏み出せもしなかっただろう。

 いちいち例を上げるつもりもないが、人類の歴史とは、異端扱いされながらも、「儀式」を乱し、例外的行動を取った跳ねっ返りが存在したからこそ、……かくまで適者生存的に見れば最弱者でありながらも……生き延びてこれたはずである。

 にも関わらず、国家という巨大組織は常に、国民に「儀式」を強制し……学校や職場に於ても、目に見えぬ形において侵食している事実は、たぶん誰もが思い当たるフシがあるかも知れない。 

 テレビなど見ていても、同じフレーズを合言葉のごとく繰り返し、それを強要するキャスター、飲み会での、たわい無いとはいえ、「ルール」という掟を強いる、遊びにオブラートされた無邪気な暴力。

 イジメや仲間はずれや、ネットでの誹謗中傷の類いが絶えないのも、知らず洗脳されてしまった輩達による「魔女狩り」と言えるだろう。

 もとより、かかる状況を産み出したのは、単なる政治家や官僚の企みである以上に、「国家」という膨れ上がった「巣」の……進化に逆行する「本能」回帰なのかも知れないのだ。

 思えば、「本能」は建前、「例外」を許さないが……実は蟻においては、多くの働き蟻の中に、一定数、怠け者で、働かずに食っている連中がいるらしい。
 イザという時の、予備軍という見立てなのだろう。

 ましてや、「例外」をエンジンにしてきた人間なのだ……僕も、孤立を恐れず、異端の怠け者でありたいと、考えている。

貧乏人です。創作費用に充てたいので……よろしくお願いいたします。