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ジャネーの法則

 

 駅で電車を待っていた時、つい近くの男女のご老人二人がこんな会話を交していた。


「見てよ、ついこないだ爪を切ったぱかりなのに……ほら、もうこんなにのびるちゃって」
「あらら、生爪はぐよ」
「どうなんだろう……歳取ると、爪が早くのびるのかな……」

 近くで聞いていて、

 そんなこともないだろう……と、思ったしだいであった。

 なんのことはない。人間歳をとるに従い、体感として時間が早く過ぎてゆくように感じられる傾向にあるのだ。
 先のご老人にしても……実は、かなり以前に爪を切っているはずが……体感的には「ついこないだ」と思っているのだろう。

 これを「ジャネーの法則」と言う。

 ポール・ジャネ。十九世紀のフランスの哲学者である。歳をとるに従い、体感としての時間が早く進む……という法則の発案者である。

 ご存知の方もいると思うので仔細は省くが……、では、一体何故、人間歳をとると時間が早く進むように感じられるのか?

 要は、「子供の眼差し」を失っているからに他ならない。

 蓋し、僕の愛するギリシャ哲学に「タウマゼイン」という概念がある。
 「驚異」「驚愕」といった意味である。

 子供というものは、目に映る全てが物珍しく、……つまり、何を見ても「すげぇ!」という「驚異」の眼差しを輝かせるものなのだ。

 誰だって経験があるはずだ。蟻の行列、蝶の飛行、冬季の口からの白い息、シャーベットの溶けかた、……もちろん新しく目にする天体から植物に至るまでの数々……、その一つ一つを、ウットリと、あるいは息を飲んで見詰めたことを……

 もとより人間は、この過程を通り過ぎることで「知識」を獲得してゆくものである。

 しかし「知識」とはもろ刃の剣でもあるのだ。

 そう。全うな「大人」として生きてゆく武器であると同時……その代償として、限りなく「真理」から遠ざかるということである。

 確かに「知識」とは便利なもので……あれこれ逐一検証する手間を省いて……「猫は猫である」みたいに、総括して納得してしまうのだ。

 へたに「子供の眼差し」なんか持って、いちいち「すげぇ!」と呆れていては仕事にならないだろう。

 結果として、毎日繰り返される日常を平均値として認識し、「驚異」や「発見」の類いを切り捨てて生きることになる。
 一昨日と同じような昨日、昨日と同じような今日、たぶん今日と同じような明日。

 「タウマゼイン」に費やす時間をコマドリしているのだから、……時間が早く過ぎるように感じられるのも、当然だろう。

 もし……時間が早く過ぎてゆくように感じたなら……それは疑いも無く「真理」から限りなく遠ざかっている証左と言えるかも知れない。

 「知識」とは、「真理」の周りに構築された壁のようなものらしい。
 「知識」のブロックを積み重ねるほどに、その向こうの「真理」は見えなくなる道理である。

 思えば、街中でよくこんな風景に出くわす時がある。
 何に興味を持っているのかは別に……小さな子供がついしゃがみ込んで、ジッと一点を見詰めている……そんなシーンである。
 近くのお母さんはこれを見てイライラ……
「○○ちゃん! 何やってんの? 早く行くわよ!」

 大人には皆目見当もつかないだろうが、その時、子供は、成長してからでは見ることの不可能な「真理」を、覗き見するように確認しているのだろう。

 もし、少しでもゆとりがあるのなら……しばし、そんな子供に寄り添ってやること……それこそ、本当の教育ではないかと考える。

 そう。大人になるとは悲しいことで……子供には微かながら見えていたモノが見えなくなってしまうのだから……

 とはいえ……今一度、子供に……例え休日だけでも、子供に戻って見てはどうだうか?

 街角で見かけた猫を……「なんだ猫か」ではなく、毛で覆われた不思議の生き物として、子供の眼差しそのままに身を屈め「すげぇ!」と感嘆してみることも……加速の付いた時間を止めるヨスガになるかも知れない……

貧乏人です。創作費用に充てたいので……よろしくお願いいたします。