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傾いた世界

 

 壁に掛かった額がちょっとでも傾いでいると、どうしても気になって、無意識のうちに直してしまう人がいる。もしかしたら、心に眠っているファシズムの衝動かも知れないのだが……


 しかし、世間にはたぶん、そんな人の方が多いのだろうか?

 僕はというと、傾いていようが捩じれていようが、全く無頓着な口である。
 神経質な女子なんかからは、即非難されかねないが、僕には僕なりの美意識というものがある。

 とにかく、定規を使って構築された世界というのが大嫌いなのだ。

 例えて言うならば、訓練された人文字とか、歩調乱れぬ軍隊の行進……
 そして、そういう世界に「美」を感じるような人間だ。
「美」という字を分解てみれば、「大きな羊」ということになる。即ち極上の貢ぎ物でもあり、権力の象徴とも考えられる。
 権力者が、閲兵式の時に見せる、傲慢不遜なる面構えは、すなわちそこに、自らの力の象徴たる「美」を見ているからに違いない。
 もし、僕みたいに歩調を乱す兵士がいたとしてら……はて、どんな懲罰が加えられることか……

 改めて考えるまでもなく、森羅万象には、定規で規定したような事象は存在しないのだ。
 長いこと信じられていた光の直線性も、アインシュタイン以来、曲がることは科学的事実である。
 宇宙にまで世界を広げずとて、視認できる自然界にも、定規を使ったような「美」は見つからない。竹にしてしかり。地平線や水平線にしてしかりだろう。

 要するに、定規を基準にする「美」の世界は、人間のアタマの中にしか存在しないのだ。

 思えば、ギリシャ神話に「プロクルステスの寝台」という話がある。
 泊まった旅人にベッドを提供するのはいいが、身長がベッドのサイズに合わないばあい、ノッポは足をちょんぎり、チビは引き伸ばすという話である。
 自分の定規に合わない手合が許せないのだ。残念ながら、世界にはまだそんな独裁者が生息している。嘆かわしい限りだ。

 都会にストレスを感じるのは、見るもの全てが定規で検閲された、アタマの中の独裁国家を見てるせいかも知れない。
 多くの建造物は、発想の段階では手描きであっても……最終的には製図板に乗せられ、プロクルステスさながらのT定規等によって、修正され、初めて図面として完成するのだろう。
 翻って、自然の景色は人間の作為のない、定規から開放された世界だ。癒されるのは、当然なのかも知れない。

 どうだろうか? 一度、アタマの中から定規をとっぱらってみては……

 壁と平行になっている机を、ちょっと斜めにずらす。壁の額縁は傾げ、整然と積み上がった書籍を断層あらわに崩してみよう。
 そして出来ることなら、時間の定規である時計の電池を抜き、眠い時に寝て、起きたいときに目を開く……もし、そんな自由が許されるのなら……

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