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【SF連載小説】 GHOST DANCE 15章

   

   15 アダムとイヴ


 革命という魔羅を振りたて、病院体制にいどむ刑天のいきごみとは裏腹に、目下の冬吉はプロジェクトの掌中なさけなく、やはり憂慮すべきは《愛の臓器》の件に他ならない。貴宏と臓器ブローカーとの密談の真相はいかに。究明しようにも、白衣の訪問はぱったり途絶え、ひたすら苛立ちの一週間が過ぎていた。
 来ないとなるといっそ不安が募るは、やはり病のこころだろう。カードを手につい病院内をうろつけど、少しでも枢要においたつ地帯に踏み込めば、おい、どこへゆく。同じカードでもグレーは格落ちの、生若い研修医からもクラスの違いをまざまざと見せつけられた。見事、紐つきの自由である。それでも、なんとか集めた情報によれば、稲垣博士をはじめプロジェクトの面々は会議とやらでどこぞに赴いていると知れた。

 一方、美也子はといえば、電話は相も変らず不通、病院の迷路にこれを求める術はない。頼みのささやきも現れない。刑天を訪問するのも、かえって迷惑になるだろう。
 夕食に出る前、半ば諦めつつも冬吉が今日二度目の電話を美也子に入れると、五度目のコールののち思いがけず、
「あっ、冬吉さん……」
 話によれば、電話がかかっていたのは知っているとのこと。なんで出ないと訊けば、妙にうじうじと、Fブロック、1998号室の自分の部屋に来てくれという。冬吉はさっそく部屋を出た。

 言われた階の、病院とはけしきの違うホテルにも似た廊下を探せば、部屋はすぐに見つかって、名札には「小杉美也子」としるされてある。
 チャイムを押すと、ドアスコープで確認のけはいののち扉ひらかれ、美也子は素早く冬吉を招き入れた。それにしても、いかなるたわむれか。美也子は淡いピンクの、シースルーあられもない衣通姫のふぜいで、からだを小さく不機嫌に照れている。冬吉が思わず顔をそむけ、代わりに室内を見回せば、とんだ翠帳紅閨(すいちょうこうけい)の、派手な鏡といい装飾けばけばしい天蓋つきの円形ベッドといい、その手のホテルの再現であった。まさか、美也子の趣味でもあるまい。冬吉は顔から火の出る思いを、照れ笑いで誤魔化しつつ、
「まいったね。つい、その気になりそうだ」
 美也子はそろりとベッドに近ずいて仰向けの、いささか淫らな体位で横たわるなり、
「だったら、早くcoitusして下さい」
 こなしとは裏腹に、ぶっきらぼうに言い放った口吻に女のなまめきはない。割り切れぬまま冬吉がその方に進むと、美也子は不意にこちらの視線をからめてシーツを剥いだ。見れば何本ものコード束をつくり、ベッドの下に潜り込んでいる。やはりパンダの口の、《愛の臓器》をひたすら「生殖」に結びつけようとするコンタンのようであった。てっきり二人のイトナミを逐一分析するための装置が、このベッドの底に控えているのだろう。
 冬吉は、盗聴されていることを意識しつつ、
「『恋煩い』ってやつ、目の前に充足が約束されたとたん、急速に治癒するってこと知ってるかい。いっそ食欲が出る。ベッドより食卓をともにしたいね」
 美也子もイタズラっぽい笑顔で応じると、即座に羞恥の衣をまとってからだを起こした。

         ※

 二人はすみやかに部屋を出、病院を抜けると夜の『蟻の巣』に踏み込んだ。人ごみは百年前の繁華街同様、これからというながめであった。美也子は押し付けの厚化粧を落とし、白のパンツルック軽快に以前に比べてずっと若々しい。外出には隠しマイクを持参しろと命じられているそうだが、美也子は敢て忘れてきたと打ち明けた。
 とりあえず中華街で食事をとりながら冬吉は、
「とにかく、なんの真似だ」
 何を訊いてもいっこう煮え切らぬ美也子ながら、ようやく語り出すことに、
「実を言うと、わたしにも《愛の臓器》が発現したらしいの……」
「そのことは、この間のデートの前に稲垣先生から聞かされた」
「ほんと? わたしは、昨日になって初めて告知されて……」
 ついては、ぜひとも《愛の臓器》を持ったもの同士の性交のデータが欲しいと頼み込まれたとのこと。部屋の模様替えについては稲垣博士が陣頭指揮に立ち、ビデオによる四十八手の実技指導まで受けたという。やはり、ワイセツは古典の世界らしい。真顔で説明する美也子の口からもついあられもない表現が飛び出したが、本人は恥じるふうもなかった。
「それにしても、君がそんな生体実験に同意するなんて俺には理解できない」
「わたしも、自分ながらよく判らないの……」
「変だと思わないのか。確かに、《愛の臓器》については俺も皆目だ。見たわけでも、これと意識したわけでもない。そんなモノが『恋煩い』を起こすなんて、本来お笑い種だろうに。男と女、ぶつかったところに火花は散るもの。それをわざわざベッドシーンのデータまで取っての研究たあ、百年後の人間てのはそこまでオタンコナスになっちまったのか」
「なってるのよ」
「あれ、あっさり同意するな」
「……て、いうのもね、わたし、このところ古典を読んでるの」
「万葉集でも繙いてるのかね。それこそ、『恋煩い』の洪水だろう」
「わあ、そこまで古くないわよ。せいぜいい明治大正、あなたの生きていた昭和平成……」
「よせよ、ひどいジジイになった気がする」
「でも、今じゃ十把一からげよ。とにかく、言葉の意味がどんどん変わってるでしょ。言葉だけじゃない、いろんな価値観も……」
 美也子は首をひねって考え込んでしまった。
「どうだ、又『遊民窟』に行かないか」
「そうね」

 二人は中華街をあとに雑踏を避け、じきに立ち枯れた樹木ものさびしい公園を左手に見る通りに出た。月はなく、街灯もところどころ切れていて薄暗い。こどもの引く屋台や、『ゴーストダンス』を口ずさむ酔客と時に擦れ違うばかり。冬吉はムードのまにま美也子の肩を抱いたが美也子は逆らわない。かわりに、小さく首をのけぞらせてこちらを仰ぎ見ると、
「今ね、わたしの中で、二つの価値観がせめぎあってるの」
「聞かせてくれ」
「はっきり言えば……」
 出し抜け何を思ったのか美也子の頬が染まり、夜目にも鮮やかに見る間に真っ赤になったのが、ついには両手で顔をおおった。
 その時、何者かが冬吉の袖を背後から引き、振り向けば野球帽にランニングシャツの、八、九歳のこどもが立った。見事な青洟を垂らし、半ズボンのだぶついたやつに踵の潰れたスニーカーのいでたちふてぶてしく、手にはコナマイキなアタッシェケースをぶらさげている。
「何か用か」
「おじさん、ペニスを買ってくれよ」
 こどもは素早くアタッシェケースを開くと、中から一振りの一物を突き出し、
「安くしとくよ。正真正銘、メイド・イン・ホスピタル。最新の『インランBⅢ型』。快楽度はホロ酔いからのけぞり失神まで十段階の調節が可能。おまけに、インポテ治癒力もあるんだ」
 噂に聞く、『人工ペニス』というやつだろう。冬吉は苦笑しつつ、
「悪いけど、俺は自前で間に合ってる」
 こどもは頬を膨らませジロリと上目使いで睨んだあと、ふと美也子の顔を見上げ、
「あっ、おねえちゃん。こないだはありがとう。調子はどう。故障があったら修理するから」
「な……何、言ってるのよ。人違いしないで」
 うろたえる美也子の抗弁に、
「おいら、商売柄、人の顔は忘れないのさ。確か夏になる前。縮れ毛の眼鏡のおじさんと一緒の時だよ。二人ともゴキゲンに酔っ払ってさ」
「知らないって言ってるでしょ!」
 血相を変えて怒鳴りつける美也子に、
「清純派!」
 こどもは、憎さげに罵ると走り去った。縮れ毛の眼鏡とはもしや貴宏。「清純」が悪口なら、いっそ「淫乱」がこの時代の褒め言葉なのだろう。古典を読んでのこころの相克とは、さだめてこの件に違いない。逃れる術もなく美也子は表情くすませて顔をそむけていたが、とうに振り切ったはずのこと、過去に於て誰と、どんな関係があろうとも咎めだてする気は毛頭なかった。
 冬吉はいっさいの憶測を中断し、タクシーに乗ると同時に、つい忘れていた最も重要な話を押し黙る美也子にぶつけた。
「ところで、例のささやきとかいう女の子と知り合いになってね。妙なことを耳にした……」
 無論、ささやきが『ホワイトカード』を持ち、当初から冬吉の部屋に出入りしていた件には触れず、貴宏と臓器ブローカーとの会話をさり気なく持ち出したしだいであった。
 美也子は寝耳の水というけはいで、
「貴宏さんが? きっと作り事よ。この間も言ったけど、あの子ロボットのくせに妄想癖が強いのよ。でも、やみの臓器ブローカーがいるのは事実よ……」
 やみといえばいつの世も変わらぬわざの、「不老不死」の夢咲き誇るところ、病院、『蟻の巣』股にかけての臓器ブローカーはうたて繁盛とみえた。より強く、より若い臓器を求める強欲なやつらはあとを断たない。モノによっては入院はおろか日帰りも可能とは臓器移植の進歩も驚くべきものなれど、もとより値は張る。加えて病院の掟きびしく、《ブルー・サングラス》を例外とすれば安易なる臓器移植は厳罰である。そうは言ってもジャの道は蛇。ディスカウントあざとくも正規移植の半額、若い上物と謳い文句たくみにして、ジジババの廃品という泣きを見るもしばしばながら「一植千年」の夢を託した若返りの秘術はやみの世に鮮やかに輝くけはいである。
 さるほどに、『遊民窟』は間近に迫った。

 扉を引くと同時に4ビート歯切れよく、ピアノトリオの生演奏に冬吉の血は騒いだ。あかねはもすそ引く深紅のドレスの、こなしたおむやかに二人を迎えると、バンドの演奏をひとまず中断させての口上に、
「みなさまにご紹介いたします。このお二人こそ百年の彼方より尊き愛を携えてやってこられた現代のアダムとイヴ、末世の光明でございます」
 満員札止めの、『遊民窟』に歓声が沸き起こった。若者から老人、男も女も一様に下層階級のよそおいながら、二人を取り囲み酒を勧め祝福を送る顔つきの、誰もが人懐こく快哉を叫んで笑顔が揺れる。バンドが再びアップテンポのブルースをぶつけた。駆け付け三杯。冬吉も美也子も面食らうさき異口同音に、
「どういうこと?」
 あかねは慈悲深い母親の眼差で受け、さり気なく二人を祝福の輪から連れ出すとベッドのある倉庫にいざなって扉を閉めた。それから並んでベッドに腰掛けさせると、まず冬吉に向かい、
「冬吉さん。記憶の方は?」
「残念ながら、いまだに……」
「ああ、まだるっこい」
 ついで美也子の手を取って両手に包むと、
「美也子ちゃん、驚いちゃダメよ」
「なによ、あかねさん……」
 美也子はすでにホロ酔いのゴキゲンであった。構わずあかねが言うには、
「実は、この間の冗談、本当のことなの。美也子ちゃんも、冬吉さんと同じく百年前の人。そして、二人はその頃すでに恋人同士だったのよ」
 目と口を同時におっぴろげて美也子は絶句した。
 あかねがいっそ淡々と語り出すことに、十年前美也子が《自動冬眠装置》で見つかったは偽りにして、埋もれる地下の凍結室にて久遠の眠りについていたというのが真相のようであった。小杉院長の幼く死んだ娘に似ていたはそのとおりながら、これを暗々裏に蘇生すれば精神半ば錯乱して、その分析を試みるさき芳紀十九の看護学生の身の、道ならぬ恋に三十四になる妻帯者の影が浮かぶ。はたして、これが現世の冬吉なのか。そのゆくたてをあかねはざっと省いたけはいながら、二人してのドライブにおける事故は、もしや心中。こころの傷深く泣き叫ぶ当時の美也子を、これ以上追求するはためらわれる。結果、そのつらい過去を無意識の彼方に追いやったところの、すなわち記憶喪失の娘として小杉院長はこれを即刻養女に迎えたしだいであった。
「実は、あたくしが小杉院長から預かった桑原博士のノートには、《愛の臓器》を宿したカップルをそろって凍結したとありました。臓器はさておき、美也子ちゃんにとっての恋人、冬吉さんのこと。けど、当時の美也子ちゃんは先の理由で記憶喪失、おまけに冬吉さんはかのVIPともども冬眠のまま新院長の座を争う『臓器移植科』の医長の手中。この秘密、あたくしこころに納め、一存でその記録を抹殺しました。あたくしが、美也子ちゃんにからかわれながらも王子様の話を繰り返したは、そのこと故。でも、愛は偉大。共に記憶を失いながらも、運命は二人を再び……」
 あかねはそこで言葉を切って、涙ぐんだ。美也子は茫然自失のていで、あらぬ彼方を見詰めている。あかねは涙を拭い、二人に向き合って椅子にかけると、
「ところで、あたくし、美也子ちゃんから《プロジェクト・プシケ》のことを聞く前より、《愛の臓器》についてはブンヤの本能、あたくしなりに足を使って調べていて、たまたまかの桑原博士の日記を手に入れました……」
 ときに、『第二螺旋病院』の前身である『第一慈因病院』は都内で有数の総合病院ながら、経営者はあくどい商売人で、地下にあたかも核シェルターのごとき凍結室を作って、極秘のうちに、死病に蝕まれたVIPどもを冬眠と称して凍結していたという。
 一方、この病院の医の中心をなしたのが桑原博士である。博士は世を憂え「科学」とは対極の、「神」の再臨を祈るとある新興宗教の信徒でもあった。博士には一人息子がいて、これも医の道に進んだもののそのタチ放縦にして身も固めず漁色に明け暮れたらしいが、その中の一人の娘を博士はめっぽう気にいったもようであった。彼女は保母をめざす、博士言うところのけなげな娘であって、家こそ貧しいが他の尻軽とは違いこころより息子を愛していると確信、博士はこの娘との結婚を切望したらしい。しかし息子はこの期待を裏切り、当の娘を散々に慰んだあげくちゃっかりスター女優との婚約を表明、週刊誌上を賑わせたという。信徒としての博士に息子の所業は許せない。天罰覿面。芸能人気取りの教会での派手な結婚式の日、当の息子はかの娘に刺殺されたとのことであった。しかし博士は娘を恨まない。獄に繋がる娘に詫びつつ、ひたすら祈った。「神」にか。あらず。博士が祈ったのは「遺伝子DNA」であった。たましいをなおざりに、邪神たる欲望の信者になりさがってゆく人間に未来はない。ああ、偉大なる遺伝子DNAよ、人類に加護を。直後、博士はヒト遺伝子には五臓六腑以外もう一つの臓器を発現せしめる可能性があると発表した。いわく、《愛の臓器》。無論、博士は狂人として学会を追われたしだいであった。
「キチガイはともかく、その病院に俺達が運び込まれたってわけか」
 美也子も口を挟んで、
「そういえば解凍したときの冬吉さん、内蔵だけじゃなくて頭も少し潰れてて、百年前ならきっと脳死ってとこね」
「おい、よせよ。あんがい記憶がないのもその後遺症じゃないのか」
「信頼しなさい、現代の医療を。ところであかねさん、わたしの怪我は……」
「それが、不思議。ほとんど怪我はなかったの。もしかしたら、冬吉さんがいのちを張って庇ったのかも」
 美也子はコトの重大さを心底理解したのかどうか、むしろキョトンとちぐはぐな笑みをたゆたわせている。いや冬吉とて同様の、筋道は半ば夢にして、辿り着いた感動のみに酔った。
 話を終えたあかねが椅子から立つと、美也子は不意に目を瞠って、
「あかねさん、本当に……」
 あかねがこなししおらしく下腹部に手を置いたところ、疑いもない懐妊の兆しがそこにはあった。
「あなた達の愛のように、この一週間のうちお腹の子もこんなに。あたくし産まれてくる子に、『希望(のぞみ)』という名をつけますわ」

 店内に戻れば、ビート高まって再度祝福の、紙テープ舞いクラッカーが鳴り響いた。めぐる杯には麻薬、媚薬も混じったか、たちまちからだは浮き、二人とも乱痴気騒ぎの主役であった。握手ぜめ。抱擁ぜめ。彼らは泣き、叫び、笑った。『愛のパルチザン』の復活だとわめくやつがいる。ガンが天井に向けて発射された。祝砲か。『遊民窟』の客達は一気にその素性を、肌と肌ぴったり合わせる親密さで二人に披瀝した。その多くはやはり、『愛のパルチザン』の残党かシンパ。君達こそ愛の戦士だ。救世主だ。アダムとイヴ、万歳。シュプレヒコール沸き起こってバンドのシンバルも掻き消えるさき、二人は百年の昔、愛に満ちた楽土からの賓客であった。はて、百年前の世がそれほど「愛」に満ちた時代なのか。訝しがりつつも冬吉の頭は酒に痺れ美也子も浮かれ、二人手を取って踊り狂えば空より花ふり地は動き、観世音をその身に示現させた鼻息であった。
 長いブルースが終り賑わいも一段落、続いてベースが物悲しさを秘めたリズムを刻み始める。ピアニストが声を張り上げて、
「『ゴーストダンス』いきます。この曲は今までは先祖の蘇りを希求する退廃のしらべ。しかし、今宵この時より、百年前のゴースト蘇るのことほぎの曲。新しい編曲でぶつけたいところながら、今日サックスのやつ転んで前歯を折ってしまい、ピアノにてご勘弁を……」
 あたりに笑い声と拍手が舞い上がる。ピアノがブロックコードを打つと同時、冬吉は技癢押さえがたく、ずいと立ってバンドの前に進むと、
「俺にサックスを貸してくれ。この曲は俺のオリジナルだ」
 脇に腰掛けていた前歯の欠けた髭面が快くケースを開き、テナーを組み立てた。冬吉は礼を言い、差し出された新しいリードを口に含む。甘く、切ない味。気づいた時はすでにメッキの剥げたセルマーを首に、冬吉は堂々まかり出ていた。フィンガリングは架空カルテットで練習ずみの、腹から吹き込む息に淀みなく、指は滑らかにキーを踏みわたった。 
 テーマを終えアドリブに突入したとたん、足でリズムを踏む美也子の姿も歓声をあげる観客の姿も一瞬にして掻き消え、冬吉はたちまちにして没我の、真っ白い世界に突き抜けた。

 小さなアトリエで、こどもはいつも御満悦であった。キャンバスの上に見る間に猫がおどる。魔法の彩管をふるうは祖父であった。アトリエにはさまざまの猫がとび、蹲り、眠り、じゃれ合っている。その中に一点、ひときわ立派な額に入った少女の像があった。こどもはそれを誰とは知らなかったけれど、こころの中で「婚約者」と呼んでいた。おじいちゃん、ぼく絵描きになりたい。絵描きなんかになったら、お嫁さんに逃げられちゃうぞ。こどもは少しムッとした。額縁の少女は、決して逃げたりするもんか。ねえ、おじいちゃん、ぼくペンネームを考えたよ。ほう、どんな雅号かな。おじいちゃんの「今村」を取って「今村冬吉」。はっは、おじいちゃんとこにいると、本当に毎日が冬だぞ、春吉。早くお母さんのところに戻って、春になりなさい。いやだ、ぼくは絶対にいやだ。
 特殊なフィンガリングに操られ、サックスが金切り声をあげる。

 幻は露出オーバーになって白く光り、次にこどもは檻の中にいた。人さらい。鞭がうなる。踊れ。歌え。とんぼを切れ。ぼくは猿じゃない。檻を脱走して、こどもは走る。走るさきに懐かしいアトリエがある。おじいちゃん、おじいちゃん。答はない。見回せば、おじいちゃんは少し若返って額縁の中。おじいちゃん、ぼくの「婚約者」はどこにいるの。おじいちゃんは答えない。たくさんの猫が、あちこちのキャンバスから這い出して、こどもをいざなう。しめやかな、猫の葬列。外に出ると、どの猫もなき始めた。声が重なって読経になった。メラメラと音をたてる焚火の中、「婚約者」が燃えている。猫と一緒に、こどもも泣いて……

 アドリブを終えてテーマに戻り、脈動と共にずいぶん走ってしまったいきおいのまにま、コードを外したカデンツァでわめき散らし、身振りでタクトを下ろせば、ドラムスの派手な乱れ打ちの中、冬吉は思わず背後によろけ椅子の上に倒れ込んだ。総立ちの拍手に押し出され、美也子が駆け寄って……

 冬吉も美也子もひどく酔っ払っていて、あかねの呼んだタクシーに乗せられた時には壮行会にぎやかに、夢から現に向かう辻馬車に乗っふぜいであった。
 それでも、車を降り、潰れた満月に照った病院の威容を目で仰げば、何やら新たなる悪夢へ向かう道程の心地さむざむと、おのずと足取りも重くなる。つい酔いも覚めかけた。近くの繁華街もすでに寝静まる時刻に、ぐるりの大通りも夜の帳を降ろし人通りも絶えた。
 冬吉にしがみついていた美也子が、出し抜けに言うことに、
「今村冬吉って、実はわたしがつけた名前なのよ」
「君が……」
「だって、凍結されてたあなたは三十四歳、男、とあるだけ。意識不明で名前が判らない。先生が、名前をつけなきゃって言って、わたし、とっさにその名前が浮かんだの。もしかしたら、わたしの無意識が……」
 素直に同意できぬしこりを覚え、冬吉は押し黙った。
「とにかく、あかねさんの言うことを信じれば、わたし十代で三十四歳の冬吉さんと道ならぬ恋……刺激的ねえ」
「しかし、君は十年お先に目覚めたわけだ。はっは、もはや、年齢差もたいしたことはない」
 美也子は頭で冬吉の胸を突くようにして歩を止め、気怠そうに上向くと、
「年とったって、言いたいんでしょお」
 非難する口ぶりながら、唇には蠱惑的な笑みがくすぶった。舌をちらつかせ意識的に口臭を浴びせ掛けてこちらを誘うしぐさの、厚化粧の仮面がないぶん「清純派」の美也子にはそぐわない。朝顔の蔓に、しいて曼珠沙華を咲かせたに似た。二十八歳の女の、すでに男の洗礼を受けたからだと理解はしていても、何故こだわるのだろう。そう。かの額縁の少女の呪縛のようであった。一瞬、ショートヘアの美也子の姿が浮かび、さらにそのさきの、十代の美也子を冬吉は記憶の中に探った。いや、待て。それは罪ではないのか。今、この時点での、ありのままの美也子。冬吉はこれを力いっぱい抱き締めて、その口を吸った。長い抱擁に美也子の舌は乱れて、あえぎ遣る瀬なく、突き上げる腰の動きははやベッドのわざをなぞった。
 その時、忍び足で近ずくワゴン車一台。慌てて抱擁を解けば車より四、五人の影飛び降りて、何者とも知れず二人を取り囲んだと見る間に、抵抗の隙もなく組み伏せられるや甘い刺激が口元をすっぽりとおおい、意識は糸を抜かれたように急激に薄れて……

 ⇦前へ 続く⇒


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眠れない夜に

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