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【連載小説】 彌終(いやはて)の胎児 4章〖26〗

     

       4章〖26〗


 とまれ、仕事もひとまず終わり、何よりもこの学園の地図をはっきりと頭に刻み込めただけでも収穫であった。腰を伸ばしつつ、啓吉はようやく北校舎の廊下に出た。ところが、吸い殻はこの廊下と校庭との境にこそやけっぱちなほどに散らばっている。こころで悪態をつきつつも塵取りを下ろし、箒を使い始めると、つい目の前の教室で生徒一統による朗読が聞こえてきた。しかも、その声は音楽室での合唱そのままの、理性の箍(たが)が見事に緩んだ涙声であった。テキストはどうやら「野菊の墓」らしく、「そこまで!」という号令のあと、少女の金切り声が続いて、
「作者である伊藤左千夫だって、涙を流しながら読んだの。だから、あなた達も、もっともっと、泣いて泣いて、鼻まっ赤にして読まなくちゃいけないのよ。感動は涙。涙こそ芸術なのよ。判って? さあ、続き!」
 朗読が再び始まり、再度休止の号令のあと、少女のひときわ甲高い詠嘆が響く。
「ああ、ああ、なんて悲しいの。青い子宮が疼くわ。お民さんは本当に可哀想。先生も泣けちゃう。涙でうがいが出来そうよ。それなのに……あんた! そう、あんたよ。鰓(えら)の張ったオジさん。なんで泣かないの。唾つけて誤魔化そうったってダメ。こんな感動的な作品なのに、なんで、どうして素直に涙を流さないの!」
 少女の声が教室の中を移動したかと思うや、男の悲鳴、それにおっかぶさって、
「処刑にしてやる! この役たたず! お前なんか虫の餌食にしてやる!」
 半狂乱な少女の声。同時に、空気を裂いて鞭の嵐が猛り狂う。教師とはいえ、所詮中学生にも満たぬガキではないか。大の男にとっては、鞭を取り上げ往復ビンタの逆捩じを食らわせるくらい造作もないはず。しかも、『狂龍会』は駐車場でサボっていて、近くにはいない。しかし、男を含め生徒達には見えているのだろう。木刀を手にした冷酷無比なる拷問者の姿。そして、生きる処刑装置、夢食う虫『桃源虫』。悪にはおよそ縁のない無辜(むこ)の決定版、ヤソ教ならずとも真っ先に救われてしかるべき彼らへの、これが仕打ちというか。啓吉は己れの無力を棚上げにしながらも、この地の理不尽に慨嘆せずにはいられなかった。

 用務員室に戻ると、米蔵はぶっきらぼうに、
「吸い殻はごみ捨て場に捨てろ」
「ごみ捨て場と、言いますと?」
「娑婆のことよ」
 まこと、御尤もであった。集めた吸い殻をまとめて塀の向こうに放り投げると、休む間もなく物干し竿の幽霊の干物の焼却、そして昼食後は、すでに生々しさも消え、頭髪も体毛も白髪のように干涸びてすっかり透き通っている生徒達の遺骸の焼却と、矢継ぎ早に命じられた。ところが、こいつらまだ十分乾き切っていないとみえ、プラスチックを焼くような嫌な臭いを発するは、炎もチリチリとしきりに火花を散らすやら、なかなか一筋縄では燃えてくれない。いっそ石油でもぶっかけて……と、そこに至って、啓吉はハッと息を飲んだ。気がつかぬうちに、証拠湮滅のための屍体焼却を計る凶悪犯の精神に近づいている気がしたのだ。自戒した。このカサカサに落ちぶれた夢の屍体、どうせ燃やすなら、せめてチリチリ、パチパチ、線香花火のように爆ぜる炎をじっと見守ってやろう……かろうじて人間らしい感性を取り戻したようであった。
 それでも、感傷の供養はそう長くは続かず、啓吉はすぐにこの学園の地図を改めて頭に描き、加代子との脱走についての方策に思いを巡らせた。なんとする。自分はともかく、『狂龍会』の厳重な監視を掻い潜って、いかにして加代子を連れ出したらいいのか。やんぬるかな。いくら頭をひねっても名案はいっこうに浮かばず、いっそ目端をきかせ生徒として入学出来なかったものかと後悔の臍(ほぞ)を噛み、とたんに思考はヒステリーを起こして停止、ひたすら加代子は待っているという焦燥感だけが膨れ上がって、目の前の炎のようにチリチリ、パチパチ、捨て鉢に弾け始めるていたらくであった。思わず、不覚の涙。典型的な自己レンビンというやつだろう。反吐の代わりに、派手なくしゃみ……

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