見出し画像

【時事】〈昨今の芸能人や著名人の不倫報道を受けて〉

標題の件について、急に思い立って書き始めました。

【誰が彼女を殺したのか】

先日、マスコミは例によって芸能人の不倫を話題に挙げた。
コロナ関連の話題で数字が取れなくなってきたのだろうか。

私自身、元々テレビが好きではなく、とりわけ最近のワイドショーやバラエティー番組は見るに堪えない内容であることから、家にいても自らテレビの電源を入れることはない。
しかし、何気なくスマホやパソコンを触っていると、この手の話題は望まずとも視界に入ってくるものである。

そして、今回の不倫報道を目にしたときにふと思った。

「木村花さんを死に追い詰めた責任の大きな一端はマスコミにある」

(今さら言うまでもないことだが)

マスコミのやり口は、たとえ一人の人間を槍玉にあげたことでその人が集中砲火を浴びたとしても、それによって数字が取れるのであれば食い潰すことも厭わないという姿勢にも見える。もちろん、その人には友人がいて、家族がいるにもかかわらず。苦しむのは当人だけではないはずだ。
それでも一連の報道で大衆をいたずらに煽り続けるのは、当人らの人権よりも数字を重視していることの表れともいえる。

そして、こうしたマスコミの扇動に躍らされる大衆の側にも問題がある。
「一つの『娯楽』そして『フィクション』であるバラエティー番組の演出をいちいち真に受けるな」ということはさておき、それ以前に物事を俯瞰的に捉える余裕、寛大さ、そして理性的に物事を捉える習慣が欠落しているのではないか。

困難な認知的作業が求められる場面に直面した場合、日常的に熟慮する習慣のない人は、利己的で表面的な判断をしやすいことが確認されている。人間は複雑な問題に直面した時、極端に偏った予測を立てやすいことから、自身の直感的な予測を過信するべきではなく、重要な決定をするときほど立ち止まって分析することが求められる。
(読書解説No.6「ファスト&スロー」)

人間の脳と行動のメカニズムについては、読書解説No.6「ファスト&スロー」の記事で詳細をまとめているため、参照していただきたい。

【「謝罪」のなぜ】

そして、これもまた言うまでもないことだが、芸能人及び著名人がテレビやYouTube、雑誌を通じて見せている姿というのは、パーソナリティのほんの一部分に過ぎない。ゆえに、それを見て当人の「性格の良し悪し」や「良夫/良妻かどうか」など判断できるはずもない。
芸能人の物議を醸す言動が報じられるたび「失望した」「裏切られた」などと意見をいう人は、いったい一日に何度失望しているのか気になるものだ。

さて、今回の一件に戻るが、もしかしたらなかには「不倫をする人は悪だ」「謝罪しろ」という正義(?)を振りかざす人もいるかもしれない。
その人たちに2つ問いたい。

「あなたに何か迷惑をかけましたか?」
「一個人のプライベートに入り込む権限がどこにありますか?」

この手の話題が取り上げられるたび、「一般大衆には一切被害も迷惑もかけていないはずなのに、なぜ謝罪を求めるのだろう」と理解に苦しんでしまう。本人がパートナーや子ども、仕事の関係者には誠心誠意謝罪の姿勢を示すべきだとしても、見ず知らずの人間に謝るような義理も理由もないはずだ。
熱心に謝罪を求める人はまるで、仮初めの正義を振りかざすことで他者を陥れる口実を作り、悪を成敗する自分に酔っているように映る。

【結びに】

万が一、今回の不倫報道に限らず苛烈な報道が再び悲惨な事件へと繋がってしまった場合、無責任に煽るマスコミや思慮のない攻撃を加える大衆はどのような対応をとるのだろうか。
そのとき、どこに本物の「悪」があるのかが明らかになるかもしれない。

よろしければサポートお願い致します。今後記事を書くにあたっての活動費(書籍)とさせていただきます。