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(無題)

死ぬってどういうことでしょう


生物が必ず経験するものでありながら、人類にとっては理解し得ない現象であり、私達はずっとそれを避けてきました。
でも死にたいって思う事はありませんか?死という言葉でなくとも、消えたいと思ったことがある人はいるはずです。

国や宗教によって死生観は変わります。個々人単位でもどう信じるか異なりますね。

身体の死。精神の死。存在の死。

色々あるけど、死ぬということは肉体がなくなって、母体から生まれて名付けられて人間として生きていた個が、もう今後この世に存在しなくなると考えるのが一般的だとおもいます。ただ死んだことと存在しないことは一緒でしょうか。
例えばAさんとBさんは古くからの友人で、最近は暫く会っていなかった。ある日突然Aさんが事故で亡くなってしまった。BさんはAさんの死を知るまで、時々思い出してAさん何してるかなぁと考えている。
実際Aさんは死んでいて存在しないわけですが、Bさんの視点からはAさんはまだ生きているのです。

また例えばZさんという人物がいたとして、彼を知らない人からすれば、当たり前の話ですが最初からZさんが生きているか死んでいるかもわかりません。 

私はそんな誰でもない誰かとして死にたいのです。誰かに認識されないで死にたい。消えたい。でも私という存在では、私を産んで育ててくれた家族がいて、恋人がいて、友達や、アルバイト先の知り合いも沢山の人に既に知られているのです。そして現在進行形で関係しているのですから、突然いなくなったら誰にも気付かれずに穏やかに…という事は無理でしょう。
それはとても恵まれていることで、幸せなことであります。ですが、死にたいという気持ちはいつもどこかで潜んでいるのです。
その根底にある価値観をよく考えてみると、迷惑をかけたことでがっかりされたくない。見捨てられたくない。というところでしょうか。甘えですね。迷惑かけないようにしたいというのも甘えや奢りです。「人は迷惑をかけるものだから、貴方も相手を許しなさい」インドの教えを知ると、日本人が他人に迷惑をかけないようにしろって教えるのは、自分は迷惑かけられたくないってことなんだと思います。

それでなんで死にたいかということなんですが、結局のところは自分でも漠然としていてはっきりわからないんですよ。ただなんとだけどとにかくなんとなく辛い(笑)
明日死ねるならと思って今日死ぬ気で強く生きたのに、昨日の明日である今日はまた死ねなかったし、明日もきっと死にはしないんだろう。明日もまたなんとなく辛いを抱えて、ふとした幸せを見つけながら生きるのでしょう。

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