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今ここにたどり着くまで。いろんな選択をしてきて今がある。

私はドイツの大学で専任講師として日本語を教えている。来独20年だ。自分でも結構変わった経歴だと思う。別に日本の大学でドイツ語を専攻していたわけでも、親類がこちらにいるわけでも、ドイツ人の伴侶がいるわけでも、コネがあったわけでもない。普通の日本の田舎出身だ。最初から全て計画して今ここにいるわけではない。気付いたらこうなっていたのだ。自分の気持ちに正直に選択を重ね、そして目の前のことに臨機応変に(行き当たりばったりとも言う)対応していたら、こうなっていたのだ。軽く道のりを振り返ってみようと思う。どうぞお付き合いください。事実は小説より面白いかもしれないから。

よく「自分が何をしたいのかわからない」という人がいるが、私は小学校の時から、自分は将来小学校の先生になるのだと思っていた。両親共に公務員だということも関係しているのかもしれないが、一般の会社で働くなんて全くイメージができなかった。

その思いに微妙な変化が生まれてきたのは、高校生の頃だった。突然、無性に海外に行きたくなった。旅行とかじゃなくて、住みたいという思いがムラムラとわいてきた。18歳にもなって、一度も外国に行ったことがなくて、外国人の友人が一人もいないということが信じられないと思った。

そしてJICAの「青年海外協力隊」に憧れを抱いた。早速パンフレットを取り寄せて、自分がなれそうな職業を探した。そこで見つけたのが「日本語教師」という職業だった。これなら簡単で、私でもできそう、と思った。そこで日本語教育を主専攻で学べる日本の大学に進学した。多くの人がそうであるように大学名だけで決めずに、専攻を吟味して進学したのだ。全ては卒業後に青年海外協力隊に行くために。

在学中に「日本語教育能力試験」という難関の日本語教師のマストの資格も収得し、中国語も勉強した。そして大学卒業を控えた4年生の時、就活をする友達を横目に見つつ、「私は就活しないんで」と言いながら、意気揚々と青年海外協力隊に応募したのだ。「歯に親知らずがあったら合格できない」という都市伝説を信じて、2本の奥歯も事前に抜いておいた。準備は万端だった。合格するはずだった。しかし結果は不合格だった。第二次ベビーブームであり、就職氷河期だった私たちの世代は、どこへ行っても競争率が半端ないのだった。新卒で、教えた経験のないことが敗因だったのか、親知らずを抜いたせいで白血球の値が急上昇したことが原因だったのか、わかる術はない。

仕方がなく、プチ協力隊のような「YMCA オスキープログラム」というものに応募し、今度は無事に台湾に2年派遣されることになった。よし2年の教師経験が積めるぞ!しかも台湾ファンだった私は、このまま台湾に永住してもいいとまで思っていた。興奮が止まらなかった。初仕事イン台湾であった。

しかし人生は意外な方向に。仕事の合間に通っていた語学コースでドイツ人の彼氏ができたのだ。初めての彼氏だった。恋は盲目で、一気に私はドイツファンに変わってしまったのだ。アデュー台湾。その変わり身の早さに自分でも驚いた。

台湾への派遣終了後、日本に帰国した私は、ドイツ留学という新しい目標に向かって、ドイツ語の勉強を始め、2年後ドイツに旅立った。最初は語学留学という軽いノリだった。

1年間語学コースで勉強したが、語学学校の授業料は高く、貯金は出て行くばかり。収入のないことの辛さを身をもって経験した。対策として、授業料が無料(ドイツの大学は無料なのだ!)で、ビザが長期もらえる大学生になることにした。何という不純な理由。こうして私は正規留学生になった。

2度目の学部と大学院の修士課程の正規留学の奮闘記はこちらの記事をご覧ください。血の滲むような努力で卒業できました!

そして同時にバイトを探した。できれば日本語教師の仕事が良かったが、どこでどう探したらいいのかわからなかった。20年前はまだネットもないし、ドイツでは新聞広告にもそういう仕事の募集は出ていないようだった。そもそもアジアと比べて、日本語を勉強する需要があまりないようだった。そりゃそうだよね、地理的にも遠いしね。職を探す手段はクチコミしかないと聞いたので、近くの600年以上の伝統ある国立大学(東大の5倍以上歴史あり!)で日本学科があるところに、イベントの際に乗り込んで行って、自己アピールをした。生活がかかっているので必死だった。

「私、日本と台湾で日本語教師をしていたんです。経験あります!ここで仕事をさせてもらえませんか。」

ゴール花、渾身の自己アピールより

いきなり来た見ず知らずの人に、今の同僚は走って追いかけてきてくれて、「履歴書を出してみてください」と言ってくれた。そして何とか非常勤講師として、1コマ任せてもらうことができたのだ!嬉しかった。

初めての1コマは80人ぐらいの学生に漢字を教える授業だった。大きい学生の体に埋もれそうになりながら、拙いドイツ語を使って、黒板に漢字を大きく板書した。書き順を一、二、三と叫びながら。その場でドイツ語が話せるほどうまくなかったから、セリフは全部用意して読み上げた。「皆さん静かにしてください。」「ノートに漢字をきれいに書いてください。」などなど。今ならこんなの適当に言ってしまうのだが、当時はまだそれができなかった。

あれから18年。全力で目の前の仕事をしているうちに、あれよあれよとコマ数は増えていき、大学院を卒業する頃には、常勤になることができた。非常にラッキーである。長年勤められていた方が、私が卒業するタイミングで、ちょうど定年退職で辞められたのだ。他のスタッフは後任に私を選んでくれたのだ。このご時世に期限なしで働けるなんて、本当にありがたいことだ。だから恩返しに学生にはたくさん奉仕しようと思った。仕事とは、他の人に貢献できる場だと思う。自己実現も、成長もできて、お金ももらえるなんて、一石三鳥だ。

しかし「言うは易く行うは難し」。時には、いや、実はしばしば仕事が多すぎるストレスで、文句を言いたくなる時がある。教師って人間相手だから大変なのだ。ドイツの学生は要求も多いし。そんな時は初心を忘れずにいたいものだ。これが自分がやりたかった仕事なのだ。文句を言ったらいかんのだ!文句を言えば、引き寄せの法則でまた同じことが起こってしまうのだ!と自分に言い聞かせている。が、毎日修行である。まだまだ伸びしろがありそうだ。

追いかけてきた彼氏とはどうなったかって?残念ながら結婚ならず、お別れした。でも今はまた違う彼氏ができてハッピーだから、人生って面白い。「人生万事塞翁が馬」。いいと思ったことが、悪くなったり、その逆だったり。

今までの人生を振り返ると、その場その場で行き当たりばったりに対応してきた。人はそれを選択とも言う。そして予想外の道に出た。想定外のことだったけど、それはそれで面白い。例えるなら、ステーキを食べようと思ってレンストランに行ったけどレストランはお休みで、それで別の本格的なハンバーガーを食べさせるお店に行ったら、それもそれで美味しかった、みたいな感じだ。彼氏を追いかけてきたのに結婚ならず、でも、他のいい職を得ることができて、それが生き甲斐になった。

で、これからどうするのかって?このまま定年退職するまでここで働きたい。そして67歳で退職したら(あと20年もある!)、日本に帰国して、今度はJICA「シニア協力隊」に応募するのだ(笑)。しつこい私。40年以上超えてリベンジなるか?いつの間にか「青年」から「シニア」になってしまったのが笑えるが、今度は経験バッチリだから合格できるだろう。

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