見出し画像

フォルケホイスコーレとはなんだったのか?

先日、10ヶ月にも及ぶフォルケホイスコーレでの留学生活が幕を閉じた。あれは幻だったのだろうか?と思ってしまうくらいには、一瞬一瞬が尊く、輝きを持った時間だった。フォルケホイスコーレはよく、「バブルのようだ」と表現されることがあるのだけれど、全くその通りで、そこで生活している間はなんだか魔法にかかったように、その時間がとても愛おしく特別に感じる。そして、その生活が終わるとともに、その泡はパチっと弾けて消えてしまう。「あれ?あの時間は本当に存在したんだっけ?」と疑ってしまうくらいに。

そんな「バブル」の中で、10ヶ月という時間を過ごしたわけだが、この留学生活は一体わたしにとってなんだったのか?今回は振り返りをしていきたいと思う。

フォルケホイスコーレとはなんだったのか?それを3つのキーワードで言い表すと、「型にはまった自分を解放し、本来の自分に出会い直す場」であり、「今、ここに生きる実感を持てる場」そして、「コミュニティで生きる意味を実感できる場」なのだと思う。

「型にはまった自分を解放し、本来の自分に出会い直す場」

わたしたちは、子どものころから今に至るまでさまざまな経験をしてきた。その中で、自分の気持ちを閉じ込めて我慢したり、やらなくてはいけないものを優先するあまり、知らず知らずのうちに、好きなものややりたいことを遠ざけてきてしまったり。みな少なからずそんな経験があるのではないだろうか。

学生の頃は、「勉強が1番大事だから」と本当は好きなことがあるのに我慢してしまったり。社会に出てからも、仕事が1番優先すべきだと言って、自分のことすら、大切な人のことすらないがしろにしたり、好きなことに時間を使うのを我慢してしまったり。知らず知らずのうちに、「みんながそうしているから」「普通はそうだから」と型にハマっていく。それが「大人になるということだよ」と言われることさえあるだろう。

わたし自身、典型的な型にはまってしまったタイプで、いつのまにか自分の好きなことすらわからなくなってしまっていた。自分で意識的にそうしているつもりはなかったのだけれど、どうやら自分軸というよりも、他者評価やいわゆる「社会のスタンダード」を気にして生きていたようだった。これまで送ってきた人生の中で、興味を惹かれるものはたくさんあったはずだが、「他者評価」というものに囚われてしまう中で自分が出会ってきた「好き」の片鱗を、どこかにそっと隠して見ないフリをしてきたんだと思う。

それに気がついたからこそ、わたしはここデンマークに来る決意をした。そして、フォルケホイスコーレという場において他者評価から自分を解き放ち、その中でわたし自身は何を選び何を大切にしたいと思うのか。それを確かめたかったのだ。

フォルケホイスコーレ校舎

フォルケホイスコーレには、試験や成績といった目に見える「他者評価
が無い。とはいえ、他者評価って目に見えるものだけではないというのも事実だ。「これを言ったら他人からなんと思われるのか」といった不安、「誰かに迷惑をかけるんじゃないか」「みんなの前で恥をかいたらどうしよう」と言った恥じらいの気持ち。目に見えない他者からの評価が気になる。こういうものに縛られて生きてきた人が、そこから開放されるのは中々難しい。

だけど、わたしにかかったその呪いをゆっくり時間をかけて解いてくれたのが、このフォルケホイスコーレだった。始まりは、他者や社会だったかもしれない。だけど、自分へ呪いをかけたのは紛れもなく自分自身だ。そのことに気付いて、他者と関わり、自己と向き合い、対話を繰り返す。そうやって、自分自身を解きほぐし、本来の自分に出会い直せるのが、このフォルケホイスコーレという場所なのだと思う。

留学生活を経た今、わたしは型から解放され少しばかり自由になって、自分が好きだったことや本当はやってみたかったことを思い出し、自分らしさを取り戻せた気がしている(まだ完全とはいえない道の途中だけれど)。

フォルケホイスコーレは、「人生のための学校」と表現されることがある。それは、自分の今後の人生をみつめて、自分の興味がある学問や仕事はなんだろう?と考える時間を持つ場であるからだ。個人的には、ここは「新しい自分を発見する」というより、「本来の自分に出会い直す場」であるという感覚が近い気がしている。

「今を生きる」ことができなかった

今、ここで生きている。」そう普段から実感して生きている人がどのくらい居るのだろうか。わたしは、少なくとも日本で生活していた頃、「今」を生きていたとは言えないと思っている。

その時のわたしは、「未来のため」「この目標を達成するため」「いつかきっと〇〇になれるから、今は我慢の時」といった調子で、常に目線は未来。その未来に向けてあれもこれもやらなくてはと、"have to"を並べて今を埋め尽くしていた。いつの間にか「今」は、「未来のための時間」でしか無くなっていた。きっと、思い当たる節がある人も多いのではないだろうか。

日本社会の中で、特にビジネスの世界で生きていると、「目標」を立ててそれに向けて努力をするのが、至極当たり前だろう。その目標から逆算して、今やらなきゃいけないことは何なのか?それを常に考えながら努力をする。目標を立てることが悪いと批判するわけでは全くない。もちろん、そのおかげで大きな成果に到達できることも事実であるからだ。でも、その目標が全てになって、目標を追いかけるためだけの「今」になってしまうのは、少しもったいない気がするのだ。

「今を生きる」とは、一旦時間軸を「今」に集中させ、自分がいるその場所や、そこで感じる空気、自然の美しさを体で感じたり、ともに過ごす人との時間を大切にすることだと思う。全力でスポーツやコンサートに熱狂するのも当てはまると思う。とにかく、地に足を着けて、今に集中し、そのままの自分らしく在ることなのだろう。

海辺にて

「今を生きる」ことの大切さを感じたのは、フォルケホイスコーレでの対話がきっかけだった。ある時の授業で、とある生徒が「もうそろそろフォルケホイスコーレが終わった後のことを考えなくてはいけない。」とこぼしたことがあった。すると先生がこう続けた。

ここから先は

2,277字 / 2画像

¥ 250

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が参加している募集

#多様性を考える

28,107件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?