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深い夜が決める行き先は。


内示は出ていないものの、東京へ戻ることはほぼ確実だった。

転勤で大阪に越して、およそ3年。4月に戻るとして、あと1ヶ月半。流石に3年もいると、名残惜しさの1つや2つが滲み出てくる。

「あと、こっちでやり残したことはないだろうか。」

そんな折にふと頭に降ってきたのは、未開の地、和歌山県だった。正確に言うと井出商店の和歌山ラーメンだ。

実はと言うほどでもないが、上は北海道、下は沖縄まで、47都道府県すべての地を訪れることを密かな目標に掲げている。出張や転勤が頻繁にない今の環境では、なかなかすぐに達成できるものでもないが、和歌山に関しては、東京に戻ってから訪れては、そこそこの時間と労力がいる。

「和歌山ラーメンでも食べに行くか。」

自分にとって近畿地方唯一の未開の地、和歌山に行こうと決めた頃には、すでに3連休初日の2月11日、夕方となっていた。思い立ったが吉日という言葉を胸に、ニコンのカメラを1機、レンズ2本、最小限の着替えを手早く準備する。本は荷物になるから、文庫本を1冊だけリュックに忍ばせて、部屋を出た。

環状線の電光掲示板を見ていると、たまに見つける紀州路快速、和歌山行き。スマートフォンで調べると、大阪駅からはおよそ1時間30分で到着するようだ。特急くろしおであれば、1時間で到着するようだったが、ここはあえて在来線で行こうというのが、その日の自分の気分だった。


車内では和歌山について下調べをすることもなく、松浦弥太郎さんの「場所はいつも旅先だった」を読み耽っていた。戌の刻、紀州路快速で1時間半という距離にある和歌山へと向かう道中の自分に対して、著者はオークランドで大量のリーバイスのヴィンテージジーンズを掘り当てて、一攫千金を元にニューヨークへ挑戦の舞台を広げていた。あまりのスケールの違いに、身が縮こまる思いだったが、行ったことのない土地や、会ったことのない著名人の体験を、夜の紀州路快速で慮るのは、この上ない幸せな時間だった。これからきっと素敵な小旅が始まる。そんなことに胸を踊らせながら、大阪と和歌山の県境を後にした。


予約したのは和歌山市駅直結のサウナ付きホテル。行く途中で分かったことだが、和歌山市内の主要駅はJR線「和歌山駅」と、南海線「和歌山市駅」の2つがある。駅間の距離は徒歩にして40分弱ほど。さらにこの文章を書いている時に気づいたのだが、この2つの駅を結ぶ紀勢本線なるものがあるらしい。しかし、そんなことも露知らずの当時の自分はタクシーを選択した。行き当たりばったりの旅にありがちな浪費である。

途中電車のトラブルがあり、和歌山駅に到着したのは20時半過ぎ。まん延防止等重点措置の対象となっていたため、井出商店もやっていないだろうと判断して、タクシー料金1190円を支払い、無事にホテルに到着した。

眼下にある漆黒色の紀ノ川からは、街の電灯で水面が反射した光芒がいくつか見える。左に目を向けると日本製鉄所の工場の灯りが灰色の月とともにぼんやりと滲んでいた。

サウナに入り、コンビニで買ったオロナミンCとポカリを混ぜたオロポを飲みながら、和歌山観光のVlogや、るるぶ和歌山電子版を読む。


井出商店のほか、和歌山城や、和歌山県立美術館など、行ってみたいスポットはいくつかある。明日は和歌山市内を観光して午後には大阪に戻ろうと思っていた――



ひとり旅の良さは、自分が行きたいところに、好きな手段で、好きな時間に行けることだ。その日の自分の気分で行き先を決めても、誰も文句を言ってこない。自分の判断と責任はすべて自分に返ってくるだけだ。




――PC上でふと目に止まったコンテンツがあった。それは熊野古道と那智の滝の紹介だった。大学の卒業間近に行った伊勢神宮を思い出す。その時から行ってみたいと思っていた熊野古道と那智山。その霊峰を前にして自分は何を感じるのだろうか。写真家の原田教正さんがインスタライブで話されていた自然や神への畏怖、そしてその表現について。写真集、「Water Memory」にある鬱蒼とした森を捉えた写真が、鮮明に記憶から呼び起こされた。



時刻は深夜2時。熊野古道、那智の滝に行くためには朝8時48分和歌山駅発のくろしおに乗り、およそ3時間の移動を経て、紀伊勝浦駅で降車。熊野御坊バスに乗り換えて30分揺られた末に大門坂に降り立ち、そこから 那智の滝を目指す。紀伊勝浦に着くのは11時45分だ。小旅行という言葉に収まる時間ではなく、列記とした旅になってしまう。


岡山のひとり旅でもそうだったが、自分は前日の深い時間に行き先をガラリと変えてしまう節があるらしい。いや、その深い時間が、自分をなんでもできるという気にさせて、行き先をより遠くへと誘う。そんな感覚の方が近いかもしれない。



特急くろしおのネット予約は朝5時半から再開する。席はまだあるだろうか。少し不安な思いもあったが、予約できない今心配しても仕方がなかった。明日、もし席が取れたら、熊野古道に行こう。大丈夫、本はまだ読めていない
ページがたくさんあるし、道中の景色だって見たことのない景色が広がってるはずだ。


深い夜はいつも自分を何処か遠くへ連れ出そうとする。
少しの不安と期待を、白湯と一緒に体の奥深くへ閉じ込める。


そうして目を瞑ったのは深夜3時。
月が黄色から濃い橙に色を変え、紀ノ川の方へと沈もうとしていた。






つづく






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