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若者に見捨てられ、忘れられた「まち」の行きつく先。

人口の少ない、小さなまちで住んでいる僕。
最近は、自分自身もこれからが不安だったり、
それでいいのかを考えたり、悩んでいるわけだが、
そんな中、僕は地元になんか心があった。

その心の正体は知らない。
でも、最近思うことがある。

なんだろう。
自分自身が弱いのか、力がないのか、頭が悪いのか、それとも必要とされていないのか。と思っていた。
自分自身は今いるこの「まち」に絶対的な必要性を感じてもらっているという実感が持てない。

まあ、そんなのは甘えだ。
それは、おまえが自己承認欲求が強いだけだ。
それは、自分が努力していないからだ。
それはスタンスの問題だろ。

そういわれるのかもしれない。
でも、本当にそうか?とふと思った。



大人には、ポストがある。
大きなことができる。
楽しそうにいろんなことをしている。

それは経験値があるから。
今まで努力してきたから。
それはその人がすごいから。

そうなのかもしれない。
その面をあるんだと思う。



でも、思う。
僕たちも、一人の人間。
若くて、ちっぽけでも、そのまちに住む住民。
表現ができる人間。
いっしょに、楽しく、できないのか。

その人が経験がある。
やりやすい。
それはいいと思う。

でも、なんか違う気がする。
ぼくは、おじいちゃんとおばあちゃんが大好きだ。
いつまでも元気でいてほしい。
死ぬまで、笑っていてほしい。
施設に収容されるなんてかわいそう。
だって、まだ生きてる人間だよ。
同じ、ぼくたち、人間だよ。

なんか、つめたいな。
最近思うことが増えた。

若者だけに何かしろと言いたいのではない。
ちょっと自分と違う人と、輪っかになってすることが少ないと思う。
世代で分ける。
それは分けたほうが楽だと思う。
上の人がうるさかった、自分も自由にしたい。
それもわかる。

だから、非難したいのではない。
でも、そうやってじぶんたちの世代でまた、しがらみをつくる。
そして、僕みたいな、財力もない、経験もない
ちっぽけな住民は、表現ができないのかな。

僕が求めすぎなのかもしれない。
そう思う事にする。
そして、それができないのは、まだじぶんがそこに行けてないから。
だと思う事にする。




今日、大学生の子と話した。
「私は地元で何かしたかった」
いいなと思った。

はなしを聞くと、自分の家がちかくにあって、
どんどんなくなるおうちがさびしい。
静かになっていくこのまちがすこし悲しかったらしい。
そして、たまたま聞いた子供を持つひとに子供の遊び場がないよねー。公園あきたから。と聞いたらしい。

そうなのか。
素直でいいなと思った。

今、その子は県外の大学に通ってるらしく、
その大学の同級生たちの思いや勢いに触発されて、じぶんも頑張りたいと思って、わざわざ帰ってきていた。

将来はどうするの?
とふときいてしまった。
まあ気になるからね。

その子の言葉は、
「こどもたちに遊んでもらえる場所をつくりたい。だから、遊具とかのメーカーにいこうかなー」

その言葉に、この場所にいることはなかった。
そして、数年後は帰ってきたいと思っているらしい。

でも、今その子から聞いた話をぼくなりに解釈すると
「私がいましたいことは地元ではできない。」
と聞こえた気がする。

まあ、そうかもしれない。
選択肢にも入っていない。
論外か。



ぼくは、悲しかった。
悔しかった。
そして、つらくなった。

その子も必要とされれば、来ると思うんだ。
このまちには、私は必要とされていない。
そんな場所はいまない。
なんかみんなどんどんいなくなっていく。
悲しい。

だから、私がつくらないと。
そうでしかなれないのかな。


僕もそうだ。
つくるしかない。
今自分で。ほんとうにこのまちで、僕たち外れた世代のひとでも、
じぶんらしい表現ができる。
そんな、あたりまえにあってほしい環境をつくっている。

おばあちゃんが最後まで、幸せに生きてほしい。
もっと、自分のひょうげんができるようにしたい。
若者が、社会に求められていることをするんではなく、じぶんのしたい表現が自由にできるようにしたい。


なんか、もっとやさしいまちにしたいな。
外から人なんて、来ないよ。
だって、あきらめていなくなるんだから。


ぼくは、もっといいまちにしたい。
そんな、思いをもって、明日も、輪っかを広げ、
みんな生きやすい、まちにしたいな。


別に、誰かが悪いわけではないと思うんだ。
たぶんね、その調整弁が必要なんだと思うんだ。
どろにまみれるし、汚くなるし、汚れる仕事なんだけど、
それは、このまちで、僕しかできない仕事なんだと思う。


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