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もう走れない

 「サマーフィルムにのって」という映画を見てきた。タイトルからしてもう青春とかそういう甘酸っぱい系のワードが口いっぱいに広がるのだが、映画自体はそこまで青春を全面に押し出したような感じでもなく、一味変わった青春劇として見られた。
 女子高生3人×映像制作という面では、ついこの間「映像研には手を出すな」のアニメを見たばかりだったので、その設定を受け容れる土壌はできていた。いや待て、私は映画批評なぞできるほどの立派な器も知識も持ち合わせてはおらんので、映画の話についてはここでカットする。

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 人間は一生、「青春」というものに悩まされ続ける。青春とは往々にして、良くも悪くもその人の人生を狂わせることが多い。とりわけ私にとっては青春というものがどちらかというと悪く作用しているような気がする。

 余談だが、本名と全く関連性のないあだ名をつけられる学生時代もまた、私にとっては憧れの青春の一コマだ。(麦茶が好きであるから"むぎちゃん"とかそういう形式)
 かくいう中学時代の私は、その当時の頭髪の卑猥な形状から「公然猥褻カット」と呼ばれていた(元ネタはデトロイト・メタル・シティ)。これはあだ名というより"イジり"に近いのでノーカウントにしたい。これも青春への心残りだ。

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 青春という時期を過ごしているその最中は、奇妙なことに、それが青春だとは気づかない。青春を一生懸命走っていても、ダラダラ歩いたとしても、やはりそのときはそれが青春であると気づけないのだ。あくまで青春とは"主観"でしかない。

 「青春」ではない、「青春だった」のだ。

 時が経って色々なことを考えなければならなくなったとき、真っ先に思い出すのは、何も考えなくて良かった時代のことだ。ここでの青春は"客観"になる。
 客観的な視点になって初めて、-もう戻ることの出来ない時間-という事実を自覚認識して初めて、そこに"青春"という事象が観測されるのだろう。あれが青春だったんだ、と自分が思えばそれは青春なのだ。誰も文句は言うまい。

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 "義務感に駆られて"走ること以外で、最近全力で走ったことはあるだろうか。寝坊したから、とか乗り換えに間に合うために、とかそういうロマンティックが止まった走りではなくて。誰かを追いかけて、あるいはどうしようもない情動に突き動かされて、あるいは誰かにこの思いを伝えるために、とかそういうハートフルな走り。

 青春は走ってナンボだと思う。青春の一コマはみんな全力で走ってる。メカニズムは不明だが、走るという行為はある種の達成感を生むのだ。例えそれが徒労に終わったとしても、走ったこと自体に悔いは残らない。何かを叶えるために走ったことに変わりはないのだから。

 走ることがなくなったのではない、走れなくなったのだ。何かに向かって見返りを求めずにひたむきに走ることの泥臭さを敬遠するようになったのだ。国語の授業を思い出せ、メロスを思い出せ。邪智暴虐な社会のために、走れ。

 とりあえず、ちょっと痩せるために走るか、あと体力つけたい。そこから青春を取り戻したい。

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