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思い出に広告がカットインしてくる

 動画サイトで動画を見ようとしたら、動画が始まる前に広告が流れるようになった。さらに一定時間ごとに短い広告が挿入されている。基本無料で使わせていただているのだから仕方ない、そうは思うけれど、ほんのちょっと前まではそんな仕様なかったんだから疎ましく思うのも仕方ない。
 動画サイトを徘徊していると、「切り抜き動画」や「ショート動画」というのが目に付くようになった。切り抜き動画とは、配信者が投稿した長尺のゲーム実況動画や雑談配信を見やすいように面白い部分だけを切り取った動画、曲でいうところのサビのみ集めた動画のこと。ショート動画も同じように、20秒ほどの短い動画に限られるが"広告なし"でみられる。

 コンテンツのスリム化、スピード消費が進み、音楽からイントロが消え、高くて上質なファッションから安くてそこそこ良いファッションに。これらの現象は、世の中にコンテンツが溢れすぎた結果のような気がしてならない。

 娯楽の楽しみ方のひとつとして成立しているのであれば、躍起になって批判することもないが、このようにコンテンツの良いところだけを掠め取っていくような消費方法は、人々に良い影響を与えることはまずないと私は思う。ステーキを一切れだけ食べてフォークを置くような、「楽しんだ気になっている」という心理状態が最も厄介なのではないだろうか。

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 コンテンツ過多に加えて、コンテンツの情報の仕入れやすさも問題なのかもしれない。
 例えば、旅行に行くとして、事前に旅先の情報をある程度調べる。著名な観光地の周りには、話題のスイーツ店や、行列必至のラーメン屋、オシャレな雑貨を取りそろえたショップが存在する。私たちはこの情報を仕入れた段階で「ここに行きたい」という感情が発生するが、いつしかそれが「ここに行かなきゃ損だ」という感情にすり替わる。実際旅先に赴くと、観光スポットの扱いは疎かにされ、あくまで観光の副産物的要素であったサブコンテンツ消費のほうに時間を割く。

 その結果、旅行という非日常的な体験をしたにも関わらず、肝心の観光スポットの思い出や写真はあまりなく、都会でも食べられるような料理の写真がフォトアルバムを圧迫することになる。それで旅を満喫したつもりになっているというのが、怖い!!

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 切り抜き動画やショート動画など、娯楽コンテンツの断片化は、人々の処理能力に頼りきりで負荷をかける反面、コンテンツの全体像を見失いやすくなる。メディアの偏向報道や切り取られたワンシーンのみを見た視聴者が誤解してしまうのと同じように、最初に述べたような"木を見て森を知った気になっている状態"は、外部情報の流入に対して非常に脆弱な状態なのだ。

...と前置きはこのへんにしておいて。

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 なにかと思い出話をする機会が増えた。昨今はコロナ禍ということ、また進学就職により私含め同世代の環境が大きく変わったことによって、今まで普通に会えていた人々と会う機会が少なくなっていった。故郷の旧友などとは進学を機にパッタリと会わなくなる人が大多数であろう。そこからライフステージを進めていけば、会える確率回数はグンと減っていく。

 それでも何かのめぐりあわせで、卒業以来会っていなかった友人と久しぶりに再会するイベントは定期的に発生する。会えば弾むのは未来の展望の話ではなくてやはり過去の話。ささやかな懐古が心行くまで許される。フォトアルバムには記録こそされていないが、確かに残っている記憶がある。それらを必死に繋ぎ止めながら、ああでもないこうでもない思い出話に花が咲くのだ。

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 10年以上も前の思い出や人間関係を鮮明に正確に覚えている人などいないと思う。当時どれだけ腹がよじれるほど笑ったといっても、毎日復習でもしない限りは薄れていくのは当然。小5のときの先生も言ってた。でもまあ考えてみれば当然だ。子供の頃は、自分が経験したことが何年後かに思い出としてぶり返されるなんて想定していないから。修学旅行などの特別な思い出はともかく、普段の日常会話までは意識できてないし。

 余計な広告がカットインしてくる。久しぶりに名を聞いた同級生は、今何をしているのだろうか。高校を出たあと働いている?中学校卒業後に結婚してもう子供がいる?まったくの消息不明?有名な進学校に行った?大企業勤め?詐欺まがいなことをした?バーを開店した?

 私は目の前の思い出話に集中したいのに、旧友と自分の今のステータスとどうしても比較してしまう。

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 たくさんの思い出話が細切れになったようだ。「あの頃」という名の長い長いロードムービーの切り抜きが脳内に散らばっている。その断片をつなぎ合わせようとすると、案の定余計な広告がカットインしてくる。

 あの頃の思い出は、すべてが一本につながっていて現在へと続いている長い物語だ。でも、その物語をひとつの主体として捉えるのは、長い年月が経った今、主人公である私にとってももう不可能に近い。にじんで思い出せない曖昧な部分も多々ある。こうした中で、印象深いシーンや都合の良いシーンのみが切り抜きされて、思い出という名目のもと自己の中で美化されていく。思い出なんてただの虚構(ゴミ)だ。確かにあの日あの場所に存在した、美しい虚構なんだ。


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