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一緒に学ぶ?別々に学ぶ?@特別支援

そういう言葉はなかったが、特別支援に興味をもったのは大学生の時だった。
大学2年3年で、愛育養護学校を見学する機会があったり、1年間、障害のある幼児の療育実習に参加したり、保育士の資格を取るために保育園で実習をしたりして、どの子も適切な支援で成長するということを実感していた。

その上で、当時の言葉で統合教育や交流教育(障害のある子もない子も共に学ぶ的な)と言われていた考えに理念的に賛同していたが、本当はどうなのかな、周囲の子供はどう思っているのかなというのをすごく知りたかったので、卒論のテーマに取り上げた。
もっと絞らないと論文にならないと言われたけれど、どうしてもやりたかったのでやってみた。論文としては、ギリギリの物だったと思うが、その経験は、今でも、私の考えの基盤となっているので、やらせてくれた恩師に感謝している。

約30年前の母校での観察

母校の千葉県の小学校には、当時「ことばの教室」があった。実際には、発音等を治したい子は少なく、今だったら自閉症スペクトラムと診断されるであろう子供達が多めで、週に何日か1時間ずつ通っていた。
そこでの様子と学級での様子を観察したいと伝えたところ、校長先生がOKしてくださった。今になって思うと、よく担任の先生方が了承してくださったと思う。

3人の子供を、観察した。
「ことばの教室」に行くと、くつろいで甘えていたり、大きな声を出していたりする子が教室に行くと違う顔を見せる。3人ともそれぞれのやり方で周囲の影響を受け、頑張っている。そうやって成長する教室も、ホッとできる「ことばの教室」もどちらも彼らにとって大切なのだと感じた。

先生によって学級経営はさまざま

教室での彼らはというより、みんなと同じことをするのが得意ではない彼らを含めてどう学級を運営していくかは違った。

そんなに単純化はできないが、表現してみるとこんな感じ。
①数人のお世話係(やらされている感はない)がいて、声掛けやお世話をする。
②班競争を常にしていて、班でその子をなんとかする。
③彼が違っても、周囲があまり気にしない。

①は、高学年では難しいが、今でも低学年で割とあるパターン。しっかりした女の子のお母さんが、面談で「昨年まで、ほぼずっと○○さんの隣でした。」と言ってくることがある。面倒を見る子供は頑張ってくれるが、実は、周囲が、○○ちゃん係みたいに決めつけてしまうことが、徐々に重荷になっていることもあるから、担任としては気をつけなくてはいけない。

②は、今は流石にないのではないかと思う。班競争というのは、片付けが早いとか漢字テストの平均点とか何でも班で競わせて順位や点数をつけるやり方だ。まさに先生が子供を管理するための手段だったと思うが、私が子供の頃はやっている先生も割といた。当然、競争だから、一緒にできない子は困るので、大きな声で注意される姿を見かけることが多かった。学級の雰囲気も温かくはならない。教室内にいると、心がつらい感じ。

③は、一人一人が自分やクラスに満足しているからストレスがなく、その子が少々違うことをしてもつられないし、文句も言わない。大らかな感じ。

私は、この時から、いつか自分も③のような統合教育ができたらいいなと思っていた。実際の経験は、また別の機会に。

今はどう思っているか

本人の性格や状況、学年や学級の子どもの雰囲気、先生など様々な組み合わせで状況が決まるから、一概に言えない。ただ、本人が楽しくて自己肯定感が下がらない環境というのが選ぶ基準だと思う。小さいうちは本人を見て、大きくなったら本人の思いを大事に選んだり変えたりすればいい。
学校のスタイルが国によって違う中で、海外では一緒が当たり前みたいなことを言っても仕方ないように思う。目指していくべき方向はあるけれど、親の理念のために、今、子供が幸せでない環境に置かれるのは違うと思う。今の日本の普通学級の一般的なスタイルは、自由度は高くない。みんなと一緒が楽しい子もいれば、そうでない子もいる。とにかく、なるべく多くの子に今を幸せに過ごしてほしい。




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