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アートは無意味?じゃあ人生も無意味?

美術館を訪れること、アート作品に触れることは私の数少ない趣味の一つだ。小さい頃からよく美術館に行っていた訳ではなく、学部生時代に留学先のロンドンでクラスメイトに連れられて行って以来、よく行くようになった。高校までは野球と勉強の毎日で、何よりも美術の授業は苦手だったし、アートに対して興味を持つ時間がなかった。しかし今ではそれに向き合う時間が自分にとって大事な時間となっている。

そしてそれと同じくらい、別に趣味とは言わないが、「人生とは何か」「生きる意味」などについて考える時間を大事にしている。とある転換点を迎えるまではそのようなことを考える必要なんてないくらい、ある程度人生はとりわけ苦労することなく上手くいっていたが、その転換点を経て以降毎日のように考えるようになった。しかし、それらの問いについて考えても毎回同じ答えに行き着くわけでもない。ある時は「何かを成し遂げるために生きている」とか、カント的に「生きる、それ自体が目的」だとか考えたりしてる。そして時には「そもそも人生に意味はない、無意味だ」と考える時もある。

◆問い -アートって意味あるの?-

そんな私は先日、知り合いに「美術館に行って、アートに触れて体得できるものは何か?」と聞かれた。その知り合い以外からも「アートを見て意味あるの?」とか「そもそもアートに価値なんてあるの?」なんて言葉を聞いてきた。そこで自分の考えを答えることもできたし、「アートは無意味だとして、お前の人生は意味あるの?」なんて意地悪な問いを返すこともできたが、しなかった。無理もない、私もかつてはそう思っていたし、上記のロンドンでの初訪問時もアート作品たちを見ても「わからなかった」からだ。

前置きが非常に長くなってしまったが、この記事の目的はそのような問いをされた時に答えなかった私の考えの提示をすることだ。それはどうアートに触れてきたか、アートが何を与えてくれたかという私の経験を辿ってそこから得た1つの人生/アート観である。

◆入り口 -違う世界とメガネ-

初めて行ったのはロンドンにある世界有数の現代アートの美術館TateModernだった。もうさっぱりわからなかった。それまで美術とは風景や人物を描写したもので、その描き方の上手さが評価されるものだと思っていた。しかし、そこにあったのは何を描いているのかわからない絵や、カンヴァスにただ色をつけたり、ただ筆をぶち当てた絵や、ガラスケースに入ったトイレの便器や3本並んだコカコーラの瓶、積み重ねられて塔のようになっているラジオたち。なぜこれらがアートとして展示されているのか、解説文を読んでも全くわからなかった。印象に残っているのはむしろその連れて来てくれたクラスメイトと6階にあるテムズ川の対岸に見えるセントポール大聖堂をのぞむ見晴らしの良いカフェで話した時間だった。聞けばそのクラスメイトは美術館にはよく行くと言った。なぜ行くのか、何がわかるのかなんて聞くことに恥ずかしさを感じ、それ以上深くアートの話はできなかった。ただ明らかにセンスの塊であったクラスメイトが何かそれまで私が使ってきたメガネとは全く違うメガネで世界を見ていることは感じた。展示作品たちに対して理解もできず、何も感じ取れなかった私だが、ラッキーだったのはこのクラスメイトのセンス/メガネには「良い」と感じたことで、自分もそのようなセンス/メガネを持ちたいと思えたことだった。だからこそ、このアートたちを「わからない」という呆気ない解釈で終わらせることはできなかった。これが私のアートへの入り口であり、美術館へ足を運び続けるキッカケとなった。

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◆知識 -自分の外の世界でのリンク-

それから1年半後、大学院進学という形で再びロンドンに戻ってきた。専攻は国際関係論だったが、その大学はアートやデザインの分野では有名な大学で、本コース履修前に用意されていた準備コースでは思想史や美術史を学ぶ機会があった。どのようにアートが変遷してきたのか、シュルレアリスムやあのガラスケースに入った便器が美術界に与えたインパクトや、カンヴァスのあり方、美術館の展示の仕方など様々な知識や理論を歴史とともに学ぶことができた。それ以来、美術館の展示作品への見方は明らかに変わった。少しは「わかる」ようになったのかもしれない。解説文、自分の持っていた知識、新たに得た知識を頭の中でリンクさせたり、別の情報や作品との関連性へと派生させるなどして、目の前の作品たちを見つめることが少しできるようになっていた。それは「わからない」ものをどうにか少しでも「わかる」に近づけるための糸口となったし、「わからない」それ自体も楽しめるようにはなった。幸運にもイギリスはほとんどの美術館・博物館の入館料が無料なので、TateModernを中心に暇があれば美術館を回った。そのようなステップを繰り返すうちに、少しは作品たちにも、あのクラスメイトにも近づけた実感もあったが、それでも何かが欠けている感は常に付き纏っていた。

◆抽象表現主義 -ポロックとロスコ-

少しずつ知識が積み重なっていく中で、特に気になったアートシーンは1960年代に一大ムーヴメントになった抽象表現主義である。この時代に引き寄せされたのは、芸術の中心地がパリからニューヨークへ移ったという実社会のアメリカの時代に呼応しているという点だけではなく、描き方・描く対象が大きく転換した点が気になったからである。特に代表的なアーティストであるジャクソン・ポロックの作品の前では毎回立ち止まって数分は眺めていた。その一方で、もう1人の同時代の代表的アーティスト、マーク・ロスコにはそこまで関心が湧かなかった。Tate Modernにはロスコルームというロスコの作品だけが壁にかかっている部屋がある。しかし、ポロックの躍動感と比べてロスコの作品は大きなカンヴァスに色が黒と赤の2色がドバッと塗られているだけで、どうにも理解ができなかった。ただロスコルームには真ん中にベンチが置いてあるので、展示を回り見る途中の休憩として毎回訪れ、座りながらその大きなカンヴァス眺めていた。

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◆ロスコルームでの衝撃 -コミュニケーション-

その日も普段と同じように時間が空いたのを利用してTateに行った。ただ普段と違ったのは自分の感情だった。その日はショッキングな出来事が2つ同時に降りかかってきていて、それらは私に初めて「人生の無意味さ」や更には「死」というものを強烈に意識させていた。冒頭の転換点とはこの日である。美術館に向かっている間も、到着していつもの展示を見て歩いている途中もその意識に取り憑かれていた。ポロックの絵も見て、いつものようにロスコルームに入って行った。しかし、そこからが衝撃だったのだ。あの理解できない赤と黒で塗られた大きなカンヴァスを見た瞬間、全く違って見えた、心が揺さぶられたという言葉では片付けられない、というか言葉では表せない何かが自分の心の中で起きていた。そこでは抽象表現がどうだとか、この絵が描かれた年代はどうだとかの知識は介在していなかった。そこにいたのは「人生は無意味」だと感じていた自分とそんな自分の中に入り込んできたロスコの絵であった。ロスコの絵を理解できたとは思わない、けれども初めてアートから明らかに何かを感じ取れた。言語を介さないコミュニケーションが私とその大きなカンヴァスの間に存在していた。

ロスコルームから出る時、私の意識はそこに入る時のそれとは異なっていた。この衝撃的で不思議な体験は深く沈殿していた「自分の感覚」を浮かび上がらせてくれたし、アートとはコミュニケーションなんだと教えてくれた。そして鑑賞を重ねても感じていた「何か欠けている」の正体は自分自身だったのだ。

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◆アンサー    -人生とアート-

ここまで私のアートとの触れ合いを書いてきた。そしてこの記事の目的は「アートを見て、美術館に行って体得できるものは何か?」「アートなんて意味があるの?/価値があるの?」に答えることだ。もしこの質問者が何か実利的なものを想定して問うてきたのなら、それに対しては「ない」と答える。アート作品を見てもお金は稼げないし、何回見たらポイント付与なんてものもないし、何かしらの利益を生み出すことができるスキルも身につかないと思う。だったら無意味だねとあなたが考えるなら、それはある意味で自分の人生が上手くいっていると思えている、もしくは目的ある人生という虚構を信じれている証拠なのではないかと思うので別に問題ないと思う。あなたが「わからない」から無意味だと片付けても、あなたの人生にはとりあえずは影響しないと思う。

私が自身の経験を基に言えるのはアートは時に意味のあるものになるし時に無意味なものになる。「人生とは何か」と考える時に、生きること自体が目的だと考えたり、人生の無意味さを感じたりするのと同じようにである。なぜならアートとはコミュニケーションであるからである。「アート作品は観る者が完成させる」とマルセル・デュシャンは言った。たとえわからなくても、あなた自身が作品に向き合った時にそのアートは完成される。実際あの日以降毎回美術館を訪れる度にあのような不思議な体験をするわけでもないし、何回見ても「わからない」作品ばかりである。それでも誰しもが人生に疲弊した時、悲観した時、無意味さを感じてしまった時、時としてアート作品自体が生きる意味を与えてくれるかもしれない。人生の無意味さを感じること自体が、アートに意味を与えるのかもしれない。それがコミュニケーションであり、あなた自身がアートの一部なのである。

正直、これが問いに対する答えとして十分ではないのは分かってはいるが、これ以上言語で表現することは難しい。だけれども今はアートに興味がないあなたにも、そのような不思議な瞬間や体験が訪れるかもしれない。そんな可能性が美術館にはある。

最後に、私にとってアートとは世界を広げてくれたものでもあるし、世界の見え方を変えれるメガネを与えてくれたものでもあるし、少し「自分自身」を取り戻すことを手助けしてくれたものである。そして少なくともあの日、私はマーク・ロスコによって救われた。


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