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【住野よる小説】この気持ちもいつか忘れるの仕掛けと伏線が凄すぎた【ネタバレあり考察】

こんにちは!おのたつと申します。

住野よるさんの「この気持ちもいつか忘れる」に施された仕掛けが凄すぎたので自分なりにまとめていきます!

※本noteは新潮社さんから出版されている「この気持ちもいつか忘れる」を"読み終わっていること"を前提に書いていきます。あらすじやストーリーの振り返りなどは一切行いません。そして平気でネタバレを含みます。未読の方は今すぐこのページをリーディングリストに入れてからブラウザバックし本を読んできてください!その後で本noteをお読みいただくことを強く、激しく、熱く推奨します。

それではさっそく本題に入っていきます!
それにしてもほんとに住野よるさんの作品、好きです。

そして宣言します。
このnoteを読んだ後あなたは必ずこの小説をもう一度読み返したくなる。

242ページがやばすぎる

このページが本当に好きすぎます。
住野よるさんの「一言で物語が大きく動く」ような展開のさせ方がとても好きです。

まず242ページではチカが主人公以外の人間(カヤと同じ世界とは明言されていないが)とも繋がっていることが、

初めに

というたった3文字のワードで明らかになります。僕の鳥肌も立ち上がります。
注意しながら読んでいないと読み飛ばしてしまうようなたった"3文字"が、物語の流れを一気に変えてしまうのです。

チカの発言の違和感

そして先ほどの展開を受けてから改めて読み直すと、チカの発言に初見では気づけないような違和感が散りばめられていることに気づきます。

・172ページ「アクセサリー」

まず172ページのアクセサリーのくだり。最初に読んでいるときは全く気にすることなくそのまま読み進めることができます。
しかし改めて読んでみるとここにカヤとチカの価値観の違いがありありと見えていることに気づきました。

恋をしているカヤは、チカにとってのたった1人の特別でありたい。恋愛という概念のない世界のチカは、別の人間とも繋がっていることを単純に喜ばしいことだと考えている。
だからチカからすればこの勘違いも"くすりと笑う"程度のものだったのです。

・222ページ「ここでは」

次の違和感は222ページ、チカの発言にあります。

「ここではカヤにしか会えないから」

"ここでは"。改めて読んでみると、この言葉の裏側が見えますね。
そしてチカはこの発言に何のためらいもないことからカヤとのこの出会いの捉え方の違いが見られるような気がします。

よく考えれば"ここでは"という言葉に含まれる限定の意に気づけたかもしれません。しかし主人公を含め、恋愛という概念を持つ我々人間は恋愛物語が盛り上がっていることに気を取られて物語の展開を追うのに夢中になってしまうのです。

これも住野よるさんの作品の書き方、伏線の張り方なのかもしれません。

この他にも162ページの「イヌ」の話題でカヤが「説明したことあったっけ」と言ったり、231ページで「制服」について知っていたり、135ページの声の大きさの話もあります。まだまだ違和感は隠されているかもしれません。(僕が気づけてないところもあるかもです!)

それら全てが、物語の会話の流れにごく自然に溶け込んでいます。しかし真実を知ってから改めて読むと違和感を感じてしまう、そんな伏線の張られ方が大好きです。

316ページがやばすぎる

このページも好きすぎます。
316ページ、正確には315ページの終わりからの斎藤との

「うちのクラスに、田中って人、いたっけ?」

「いや、いない」

という会話から過去の真実が明らかになっていきます。ここでは読者も作中の斎藤同様に状況が全く飲み込めていません。
しかし次の主人公の発言で全てがわかり、度肝を抜かされます。

「クラスにいる奴らのことを十把一絡げに田中という名前で分類していた」
「田中達から少しだけはみ出した行動をする奴には別の呼び名があった」
「お前のことは、斎藤って呼んでる」

これまで読者が田中、斎藤と思っていた登場人物は全く別の名前だったのです。
そしてこの直後に斎藤の本名が須能紗苗であることがわかり、それが現実であることが知らしめられます。

ここまで主人公が斎藤のことを紗苗と呼び続けていたため、フルネームは「斎藤紗苗」だと思い込んでいました。まさか学生時代から本名で呼んでいなかったなんて。住野よるさん恐るべし・・・

田中・斎藤の伏線

しかしこの田中・斎藤の違和感も、改めて読み直すことで浮かび上がってきました。

・○○の田中

このことに気づいたとき、とにかく全身に鳥肌が立ちました。鳥になりました。

ぜひアルミが死んでしまう少し前を見ながら読んでいただきたいです。
ここは田中が重要キャラクターとして多く登場するのですが、ほとんどの場面で

「あの田中」「飼い主の田中」「横の席の田中」

といったように、まるで何人もいる田中の中の1人を示すように、田中が固有名詞でないかのように、修飾されて呼ばれているのです。
そして、事実として田中は何人もいるのだということがのちに判明します。

これに気づいてからここを読み返すと本当に不気味なほど自然に「横の席の田中が」や「あの田中はもう帰宅しているだろうか」というような説明付きの田中が登場していることが急に気になるようになりました。
初見のときはどうしてあんなにも普通に読めたのだろうと疑問を持ってしまうほどに。

ところで途中でクラスが変わったときに"アルミの飼い主である"田中は「前の席」から「横の席」の田中になったことが知らされています。この表現は田中に説明が付くことに違和感を持たせないためのものなのかな、とも感じました。

また28ページで駐輪場から校舎までの間で出会った挨拶をしてきた田中と29ページで犬の写真を自慢している前の席の田中(会沢志穂梨)も別人なような気がしてきます。ぜひこの部分読み直してみてください!

・鈴木呼びの田中と鈴木くん呼びの田中

これに気づいたときも鳥肌が立ちまくりでした。飛びました。
37ページの田中は主人公を「鈴木くん」と2回呼んでいて、56ページの犬の散歩をしている田中(会沢志穂梨)は「鈴木」とこの場面だけで2回呼んでいます。

これも読んでいるときには気づけませんでした。たった20ページしか離れていないのに不思議です。

恐らくですがこの田中はどちらも違う人物で、一方は会沢志穂梨であり、この物語で喋った田中は少なくとも2人いると思います。

もちろん他のクラスメートも斎藤以外全員田中なので台詞がない田中はもっとたくさんいます。
時々出てくる「田中達」という表現すらも違和感の塊に思えてきます。
主人公からすれば、有象無象の田中が集まったまさに「田中達」だったのでしょう。

ちなみに37ページの田中は「隣の席」から話しかけてきており、このとき会沢志穂里は「前の席」の田中なのでやはり別の田中なのかなと思ってます。喋り方はちょっと似てるけど・・・

・高校のクラスメートの名前を覚えてない?

258ページで斎藤に名刺を渡されたとき、主人公はピンとこないという反応でした。確かに高校卒業から10数年経ったらクラスメート全員のフルネームを忘れてしまうのかもしれません。しかし高校時代下駄箱で毎日一緒になり、ある種特別な関係を持っていた人間の名前を忘れるでしょうか?少なくとも名字くらい覚えているはずです。

これも、本名なんて見てもおらず、別の名字で呼んでいたということの伏線のように感じます。
実際この後主人公は「確かにこんな名前だった気がする」と言っています。
ここも若干の違和感を感じながらもまさか伏線とは思えませんでした・・・

ところで283ページで斎藤から「会沢志穂梨」の名前を聞いたときはその後の台詞について考え、「覚えてるのは覚えてるけど」と言っていました。覚えていないけど覚えているふりをしているわけではなさそうです。やはりアルミの件もあり本名を覚えてしまうほどに罪悪感を感じていたのでしょうかね。

少々逸れますが、高校時代の斎藤である紗苗と田中である会沢が仲良くなったきっかけは116ページで示されていました。
めちゃくちゃ勘のいい人は「斎藤と高校以降も付き合いがあるのはこのとき話しかけた田中なのでは?つまり田中=会沢・・・?」とかなるんでしょうか(笑)

・"もう使われている"普遍的な名字

これが本当に確信を突きすぎていてこれについて書きたくて仕方ありませんでした。

まさかこんな序盤に伏線があったなんて。今すぐ38ページ11行目を見てください。

「田中はもう使われているし」

普遍的な名前。名字。もう"使われている"し。
これは凄すぎる・・・!住野よるさん万歳。

このたった12文字が壮大すぎる伏線だったのです。
確かに改めて読むと名字を"使われている"と表現するのはおかしいですよね。

戸籍としてとか、ファミリーネームとしてとか、そういう意味で使われているのではないのです。主人公が普遍的な名字として使っているのです。

クラスにいる奴らを、自分にとって何一つ特別じゃない奴らって意味で。
316ページで語られたこの言葉で、クラスメートを"田中"という普遍的な名字で呼んでいる理由が明かされています。

もう使われている。自分の中での田中はクラスの自分にとって何一つ特別じゃない奴らのことで、自分にとって特別になり得る異世界の少女にもそれを使うわけにはいかなかった、ということなのでしょう。

「見つからないように」とは?

先ほどまでとは話題が変わります。
作中何度も出てきた別れの挨拶

「見つからないように」

という言葉には一体どんな意味が込められているのだろう、どんな秘密があるのだろうと最初からずっと楽しみにしていました。
しかし明確に解説されることはありませんでした。

カヤがチカに「見つからないように」と言った場面は2回ありますが、1回目はスルーされ、2回目はもうカヤには言葉が届かない状況になっていました。
チカが意味を聞いてくれると思ってたんだけどな・・・(笑)

しかし、物語に登場した情報で真実を知ることはできます。

16ページで用済みのバス停が撤去されずに残っているのは「下界に降りてきた先祖が必要とするから」という言い伝えがあるからだとされていました

しかし269ページで、本当は「かつてこの土地に逃げてきた人々が先住民から隠れるために空き家を利用した」という名残から空き家を残す習慣が残っているということがわかりました。
そして、それに関連する言葉、つまり「(先住民に)見つからないように」という挨拶も残っているのだ、ということも判明しました。

言い伝えという神秘的なお伽噺や不気味なファンタジーはなく、歴史的なものだったのです。
この挨拶には何の不思議も秘密も隠されていませんでした。

チカは何者だったのか?

ここまでは物語に散りばめられた伏線を回収し、真実を確認するという内容でした。
しかしチカの正体については伏線も根拠もなく最後までわからずじまいでした。それについて、僕の意見を。

これはきっと僕たちに委ねられているのだと思います。
奇跡の突風か、妄想の彼女か。

僕は個人的にあの異世界との出会いは奇跡で、強力な突風だったのだと信じています。全てがつまらないと感じていたカヤの心をあんなに惹きつけたのですから。カヤが心からの笑顔を見せたのは、作中チカに見せたあの笑顔だけです。

しかし、齋藤の言う通り妄想の彼女だった、ということを否定する材料は何一つありません。
なぜならあの出会いが終わってから主人公の元には記憶しか残らず、記憶も徐々に薄れていったからです。また兄がバス停に現れたとき、チカの存在が消えたのも「自分の世界の想像上の出来事」であったことを示唆しているのかもしれません。

しかしどちらにしても主人公にとってはかけがえのない時間であり、体験であり、自分だけの特別でした。いい意味でも悪い意味でも、主人公の人生を大きく変えた、大切な思い出でしょう。

読者の皆さんはどう思われますか?コメントいただけたら嬉しいです。

最後に

住野よるさんの作品の中でも1位を争うくらい「この気持ちもいつか忘れる」は素晴らしい作品でした!特に終盤の346、347ページが好きすぎました。
皆さんの感想もぜひお聞きしたいです!

ここまでいろいろ書いてきましたが、正直こんな読書初心者の僕でも気づける伏線なら多くの人が当たり前にわかっていることかと思います。

それでも僕をこれだけ多くのことを書こうと言う気持ちにさせてくれた「この気持ちもいつか忘れる」という作品と住野よるさんには深く感謝しています。
そして彼の作品を読むようになるきっかけを作ってくれた原田葵さんにも。

もし住野よるさんの作品を読んだのが本作が初めてという方や、「青くて痛くて脆い」の劇場版を見て興味を持ったという方がいたら、ぜひ住野よるさんのいろんな作品に触れてみてください。
僕のオススメは「また、同じ夢を見ていた」です。
「幸せ」の形を見つける物語で、登場人物が魅力的です。

ここまでお読みいただきありがとうございます!
よかったらnoteのシェアやスキ、フォローなどいただけたら嬉しいです。
僕はもう一度この作品を読もうと思います。

それでは、良い読書を!


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