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筆跡の持つ情報 書くことと打つこと

賀状を書いたとき、久しぶりに「綺麗な字」を書くことを意識した。そしてまた、字をきれいに書く機会の著しく少なくなったことに、改めて思い至った。デジタル化、オンライン化の流れの中で、自ら文字を書く機会が減ることは、必然でもあろう。その中で、文具にこだわって紙の上に敢えて直筆で書くことの意義とは、何であろうかと思う。
一つは手指を動かすことによる脳と知性の活性化、一つはデジタルフォントにはない人が書いた字形の揺らぎを見ることによる、脳と知性の活性化ではなかろうか。

十数年ぶりに日展を観に行ったが、書道の部も観た。あまり満足はしなかった。自分の鑑識眼が劣ったのかとも思うが、前衛的な作品は昔から好きではなかったし、奇を衒った独善的な作品にも私は批判的だった。かえって古典的な書道作品を、図書館の図版で見たい気になった。欧陽詢の「九成宮醴泉銘」の美しい楷書を観て、口直しがしたい。

日展では、彫刻の部が期待以上に面白かった。人間を身体の彫像を、素材の材質感とともにじっくりと鑑賞した。表情もそれぞれ面白かった。彫刻とは、これほど面白いものであったか。
おそらく、図書館の図版では彫刻の面白さはわからない。彫刻こそ実物を美術館で観る価値の高いタイプであると思う。
また、日展では洋画よりも日本画の点数のほうが圧倒的に多かった。これは、日展という組織の歴史によるものであろうか。

書初めなどという習慣も、廃れて久しいといえるだろう。あるいは、敢えて墨をすって毛筆で書くこともあるまい。直筆の意義、人の書く文字に現れ出る書き手の人間らしさを、再確認する機会とはできないか。
デジタル化した社会で、この note などにおいて私たちが「饒舌」になっているのは、単純な匿名性だけでなく、自分の声や筆跡を隠すことができているということも関係しているのかもしれない。
あるいは、筆跡を敢えて隠さないとすると、どのようなインパクトを読者に与えられ得るか。昨今のOCR技術にかかれば、人間の書いた直筆の文字もすぐにデジタルデータに変換されてしまうだろうが、直筆の持つ固有情報に、何らかの意味を背負わせることがあることを覚えておくことは、どこかで役に立つこともあるのではないかと思う。

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