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繰り返すことと、繰り返されること。

書くことが思いつかないとき、誰かの別の記事を「本歌取り」させてもらう形で、その誰かの記事に関連したことを、書き継ぐようなことができないかと考えたことがある。
しかし、書き継ぎをしたいと思わせる記事を探すことに、時間がかかる。時間を意識すると、自分で一から書いた方が早いように思われてしまう。

会社でも会社以外でも、「自分でやった方が早い」と言って、ルールや組織を無視して、スタンドプレーに走る人がいる。私自身も陥りがちな思考であるが、目の前の現象の背後や前後にあることに思いを致し、長期的に最良の結果が得られる言動を、考えねばなるまい。

上記のように、言うことは簡単だが、結局は優れた洞察もすぐに忘れ、旧態依然とした言動を繰り返している。訓練や教育の多くは「繰り返し」であるが、繰り返すことで、一時的な理解を恒常的な知識・知恵に変換する(一時性から恒常性への変換)ことが、言動の改善となるのだろう。教育、訓練は、敢えて望んで実行しなければ、「繰り返し」は疎かになる。働く大人が、どのように学ぶ場、繰り返しの場を得るかは、昔からの課題であるが、解決している人もいれば、私のように逡巡し続ける者もいる。

古い書類を整理した時に、使いかけた途中のノートが何冊も出てきた。ノートに書くことで、読み返す、理解を繰り返すことを、一生懸命試みていたのだろう。しかし当時、ノートを書くばかりでどれだけ読み返していたか。ただただ書いていた記憶しかない。
途中のノートは、使えそうな白紙の多いものを除いて処分した。
半ばが白紙の古いノートを再利用して、どのような勉強を行うべきか。読み返すこと、繰り返すことを意識した活用を心がけたいものである。

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