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美術館考4 炎上と忘却、炎上後の議論

喉元を過ぎれば熱さを・・ではないけれども、あいちトリエンナーレ(2019年)は今であればもう少し冷静に議論できるのではないかと思う。そして炎上に乗じた野次馬のない状態で、冷静な議論は現在進行形で行われていると思う。次は2022年だが、期待してよいのではないかと思っている。

深い議論に立ち入るつもりはないが、炎上や批判はいささか過度なものではなかったか。そしてそれらが、10年に1度も美術館に足を向けようとしない人々によってなされたものではなかったか。このことに限った話ではないが、「炎上」によって物事の本質に注意が払われなくなったり、冷静な議論がされなくなるのは残念なことだ。そしてもっと恐ろしいのは、炎上の「操作」であり、その巧妙さはプロパガンダを超えてマインドコントロールになるのではないかと危惧している。

美術作品には、まったく理解できないものもある。むしろ、すべての作品を理解できる展覧会や美術館など行ったためしがない。それでも作品には敬意を持つべきと思うし、立ち止まってしばらく考えてみたりもする。現代社会はあらゆることに理解と共感が求められるが、「理解できないこと」に対して寛容な場・自由な場として、美術館はある種の安全地帯(あるいは聖域(サンクチュアリ)といえば大げさであろうか)のようにも思われる。ある図書館の司書が、学校にどうしても行きたくない子は図書館へと呼び掛けて議論を呼んだが、学校は理解と共感(協調性と言い換えられる)を養う場(強要する場)である。私がその司書の言葉に付け加えるならば、美術館もあるよ、ということになるだろうか。(美術館のスタッフではない私が言うのもおこがましいが、公立の美術館の常設展が小中学生を無料にしていることが多いことには、何か意義があるはずであると思う。)

炎上は止めることができないが、炎上のリスクを恐れて沈黙することも不健全であろう。炎上は消火できないがいずれ鎮火する。人はしょせん飽きるものである。静かに鎮火を待って、本当に関心のある人だけで真摯な議論をしていけばよい。激動の時代でも待つことは重要であろう。

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