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視聴覚派のシネマ入門_ディスカッション


小作品をいくつか作ってみた視聴覚派は、お互いの作品や影響を受けた作家や作品についてディスカッションを行いました。
本記事は、そんなディスカッションの文字起こしをしたものです。
記事作成_本藤

※映像も収録したんですが、あまりにも声の音量差がありすぎたので公開は控えさせていただきます…


2022.8.7 21:00

本藤

「視聴覚派のシネマ入門」ということで、なんだか映画を作ってみたくなった我々は、試行錯誤しながら、小作品をYOUTUBEに全部で7本。私が5本、宮田さんが2本とりあえずで今まで作品を作ってみました。ということで、感想の交換会をまずしてみようかと思います。

じゃあ先に私が喋った方がいいかな

じゃあ、まず1本目のこの『Fieldwork@妙本寺』

これなかなか素直でいいですね普通のお散歩かと思いきや、割と不穏な音が流れてきて、この曲は元々あったものを使ったんですか?

宮田
元々あったものを使いました。そもそも、この場所でフィールドワークをして作った音楽です。

本藤
音楽を作った場所にカメラが戻っていって、撮ってみて。編集してみるっていうのはすごくなんだろう、いいですよね。 
時間軸と空間軸が円を結んだような感じがして。
構図も、止まっているけども揺らぎがあるところが何か、ぽさなのかなと思ったりとか、曲の雰囲気も相まって。

宮田
撮影するにあたって道具も揃っていないんで手振れがあったりしますね。

本藤
選択としては特に問題ないかと思います。
その、道具とかエフェクトを手に入れてしまうと、それを使うことが目的化してしまうことも多々あるので、多分それは音楽とかも同じかもしれないですけど。
今回は、かつてこの曲を作った場所にもう一度戻り、その作った時の記憶とか感覚とかを反芻しつつ、またその動画を編集するっていう段階で、また行ってるわけですよね。
この場所にそういう時間と空間の層みたいなものが圧縮されているような感じがして、すごくいい作品だと思います 

宮田
このテイストをもう何作かやってみたくて、先週とかもこの違った所、土日あれば行こうと思ってたんですけど、ちょっと個人的に体調がちょっとすぐれなかった。某感染症ではありませんでしたけど。
来週連休があるので時間見てちょっと撮ってみようかと思います。
こんな感じのものはもうちょっと作ってみようかなと思います。

本藤
このフィールドワークは全然シリーズ化していけると思います。
多分視聴者さん、今これを見てて、多分なんのこっちゃと思ったかもしれないんですけど、ちょっと背景をもう少し、例えば概要欄に開示しても良かったかもしれないですよね。
やっぱりその流れていた曲を作った場所に戻ったっていう事を聞いて、はっと自分も見え方が変わったので、そういう路線もありかもなと思ったりしました。

そして2作目は『海は見ていた』です。

これもなんか見ながら喋る感じでいいのかな。
今回、テキストが入ってるんですね 

宮田
元々この文章はちょっと以前書いていたものを動画用にちょっと一部変えたりしながらも使っていて、ちょっと僕、2016年ぐらいにちょっと体調を崩した時期があって、色んなことがあった時に書いた文章を使ったんですね。
その時にこう、頭の中で考えてること。思考がまとまらないかんじというか、をテーマにですね、言葉にするのが難しいんですけど、その時、そういう感じがあって…
あと薬も飲んでたので、ちょっと副作用で鬱が出たこともあって、こう、何かこう頭の中がぐちゃぐちゃになってしまって、その時に書いた文章です。

本藤
テキストを書いた時の心象風景を動画というメディアを使って再現してみたっていう感じですかね。

宮田
こう、自分が目に見えているものの現実感がなくなっていく感じとか、頭の中で考えていることとかごちゃごちゃになって何を見てるのかとか、そういうのが分からなくなってしまうっていう。
時系列が戻る演出もそれの再現。仲本さんからの指摘もあり、手を加える余地があると思う。10月に向けてブラッシュアップしていきたいですね。

本藤
今までのその作品を1本の串で指すとしたら、かつて・あった場所やものや、その時に発生した感情に再び会いに行き、再解釈をして動画に落とし込む、みたいな、そういう営みを実践してますよね。

宮田
今はもう体調はもう落ち着いて、普通な状態に戻りつつあるので、こういった当時抱えていた思いとかを改めて立ち返って作品に昇華したいです。

本藤
過去に立ち戻って咀嚼した上でアウトプットするというのであれば、言葉を使った表現、つまり物語の方が解像度が上がるような気がするんですけども、それでもなお映像作品にするっていう理由とかそういうが何かあればお聞かせください。

宮田
音楽はどうしても聴覚でしか表現できないですよね。そこに映像とか詩とかを加えていくことでより具体的に自分が伝えたいことを伝えられるとおもうからです。言語化が苦手というか。

本藤
言語化するというよりかは音ないし、映像に抽象化した方が宮田さんとしては鑑賞者と分かち合えるのではないかと思うわけですね。

宮田
なかなか言葉にするのが難しいんですが。

本藤
でも、その、「塊」をブッと出しちゃうのって良いかもしれませんね。
私は分かんねえ!見た方もわかんねえ!でも何か残るものがある!みたいな。
その、自分の中に渦巻いている「分からなさ性」みたいなものを分からないまま、分からないなりに、分からないだろうけど、形にして出すってのは、すごく勇気がいる作業だと思うし、その事はすごく建設的だと思います。
だから、エフェクトの選択だとか使う道具とか編集の小技みたいなことは全然後から加えていけばいいと思うので、宮田さんの場合は、その分からなさを、ちょっと体調にもよるかもしれないですけど、自分の中に好きなだけダイブして、そのサルベージできたら何かすごいいい作品ができそうですね。

2本見てきたんですけども、ターンを交換しましょうか、日記シリーズを流しましょう。


宮田
全部の作品共通してると思うんだけど、こう被写体のチョイスとかカメラのアングルとか、ちょっと前に個展行ってたんで、本藤さんが今まで撮ってきた写真とか見てきましたけど、今こう映像化させてみても、本藤さんが写真家として今まで培ってきた個性っていうのかな、やっぱこういう風に映像っていう形になっても現れてくるものなんだなと思いました。捨てられた空き缶とか、都会の匂いがすごいですよね。

本藤
なんでここでズームしたんだろう?とか思わせたいですよね。

宮田
本藤さん流のセンスだと思うんですよね。多分、僕カメラを向けてもあそこにフォーカスしたかっていうとしないと思います。
そこに目をつけたかっていうのは結構あったりするんですよ。そういう写真家として今まで続けてきたことを、やっぱりこういう風に映像になってもこう生かされてるというかね、個性が出ていますよね。 

本藤
基本的には、岡本太郎が心の中にいるので、「何だこれは」っていうのは凄く大事にしてて、人間って頭がいいので、例えばこれを見たら「風車」とか、言語化できちゃうんだけども、カメラを持って歩いてる時はなるべくその、初めてこの星に来た宇宙人みたいな気持ちになって、もっと言えばもう目だけになって、彷徨うことによって、目が反応したものをカメラで記録するっていう事をずっと写真でやってたんです。
その物質から名前性みたいなものを奪う。
奪って、氷漬けにカメラを使ってするみたいなことですよね。
それって多分物語にも音楽にも演劇にもできない記録っていう、カメラっていう機械が持っている特性であって、写真や動画、つまり映像/イメージですよね。
イメージっていう表現分野でやるべきことなのかなと思ってやってたんですけど、動画になったら、音も時間も生まれちゃうんで、凍結のさせ方が全く変わってくるんですけどね。
例えばこのシーンなんか、焚き火してるカットの上にあの焼肉屋でだべっている会話がオーバーラップしていくんですけど、そういう別の時間と空間を合わせられることができる、乗せることができるって凄い映画的だなって。ああ、これ載せたら面白いんじゃねっていうことができるのが、やっぱ最初の映画に関して思ったそのワクワクというか、また、自分ができる余白が生まれたなっていう感じがしました。
それはやっぱ写真でできなかったんですよ笑

宮田
それってやっぱ今までできなかったことできなかった表現方法を試したいというかね、こうしてみたい!っていう思いが共通してあると思います。
あと、この日記のシリーズがストリートスナップでしたっけ?
それを今度映像でやってみたいっていうような、試してみる気持ちだったんだと思うんですよね。

本藤
やっぱりストリートは操作できないので、色んなことが勝手に起こってるんですよ。その勝手に起こってることをコントロール、撮影も編集もしてるから、人の手は介入してるんだけども、それはスパイスとして使うだけで、そういう何だろう、予期せぬことが如何に舞い込んでくるかみたいなことが、やっぱりその、映像メディアができる面白さだと思うんですけどね。
例えば絵画は絵の具を支持体の上に乗せてるんだけど、基本的に作家が画面をコントロールしてますよね。
やっぱりカメラが回ってると写っちゃうんですよね。うん、その映ってしまうっていうのをいかに呼び込むか、それを如何にして、その見るに堪えるもの、連続した一つの塊に料理することができるかっていうことは、やっぱり考えるようになりましたね。
広告とかやってるとどうしてもやらざるを得ないんですけど、何か、人の顔にピントが合って後は全部ボケてるみたいな映像とかっていうのはありますよね。あれは操作の賜物なんで、それ以上見ようがないですよね。
だから、如何様にも見る人が見れるような映像を目標にしてます。
だから究極的に言っちゃえば、もう全部広角で全部の世界を取り込んで全部にピントが合ってるっていうのが理想ですけど、それは無理なんで、それを平面で表現するにはどうしたら面白いかなってこと考えてます。
あと、今見せてる小作品たちは、YOUTUBEでシークバーがあるから飛ばせちゃうんですけど、とはいえ劇場で見せるという前提で作ってることはあります。
もう、その、鑑賞者が時間に関与できないってある種暴力ですよね笑
でも、そういう暴力性って劇場にあると思ってるんすよね。そこにも自覚的でありたい。


宮田さんちょっと離席に伴い休憩


本藤
YOUTUBEの視聴体験がもたらした映像の需要のし方っていうのも、すごく気にはしてて。
印刷の発明以降、ラジオだテレビだインターネットだって、常に、その、情報が氾濫されてる社会になったね みたいな議論は、ずっとメディア論の中でされてきたんですけど、とはいえ、今が一番情報量ヤベーだろうとは思ってて、そういう、映像の需要環境にいるのにもかかわらず、なぜそんな映像を作るのか、なぜ映像作品を作るのかってことをずっと考えてますけど、なんかその辺思ってることあります?

宮田
そこまで考えて撮ってたかというと、本能が赴くままにカメラをむけていました。

本藤
収益とかバズを目的としないことが強みなのかな。つまり自由さ?

宮田
実験映画だからね。目的が実験ですからね。


後半


本藤
何か映像を作るときに参考にしてる作家とか作品とかあれば教えてください。

宮田
僕はとくにないです。今の状態って誰からもインスパイアされていない状態なので、その状態で撮れるうちに撮っておきたい。
今みたいな作品は今しか作れないので、イノセンスな状態を保っておきたいですね。
或いは塚本晋也さんとか後は学生の頃に観た「追悼のざわめき」という作品が好きです。影響を受けているという意味であればこの辺りだと思います。

本藤
塚本晋也さんの「野火」は大好きで、今でも聖典としています。あの身も蓋もない映像がたまらなく好きです。


宮田
らせんの映像祭で見た作品群からの刺激はとても大きかったですね。

本藤
わかる

宮田
例えば高田冬彦さんは自分で抱えているものを自分で処理している感じが本当にすごいと思う。

本藤
学生の時に高田冬彦さんの作品を初めて見て、ある意味失われていた「憧れる」という感情を再インストールされた記憶があります。
高田作品といえばすごく優れてると思うのが、その、やってる事とか装置とか自体は自分でも出来そう!って思えちゃう所なんですよね。
自分でも出来そう!って思わせるっていう、そんな作品がある事によって、その、ムーブメントって起きると思うんです。例えばグランジ、NIRVANAなんか聞いた時に俺でも弾けそうってみんな思うじゃないですか。


宮田
たしかに

本藤
実際にやってみよう!と皆に思わせるみたいな、そういう、何だろう、文化圏のいつも核にいるのは、そういう作品とかそういう人だと思います。


じゃあ自分のリファレンス
まず1人目は、フランスの写真家「ジャン=ウジェーヌ・アジェ」さんです。

この人は20世紀のパリを、こんなでっかいカメラを使って記録して歩いていた人なんだけど、その、写真家としては全然活動してなくて、画家のための資料として写真を撮って売ってたんですよ。本当は演劇やりたかったんだけど。
で、死後、偉大な写真家として再発見された人なんですけど、これ(ショーウィンドウの写真)とか、時代的にも大きなガラスが初めて工業製品として作られた時期で、そういう歴史的な記録がされているっていうのも、もちろん価値が高いんですけど、このマネキンの光の当たり方とか、何重にも映り込んだパリの景色とか、こういうなんだろう、さっき言った映像の持つ写っちゃってる性っていうのがすごくあると思っていて好きですね。
何の変哲もなかったであろう、誰もが見過ごしていた景色や風景や見えるものっていうのを、緻密に記録することによって、時が経てば経つほど切れ味を増すんですよね。
こういう作家の手を離れた強い映像というものに惹かれます。学生の頃に、そこにはまって今に至るって感じですね。


2人目がウィリアムエグルストンさんです。
この人はこれとか、見たことあります?

宮田
あ!あります!

本藤
写真はモノクロじゃないと作品じゃないって言われていた時代に、バッチくそかっこいい、こういうカラーの写真を撮って認められたニューカラーっていう文脈の一番有名な人ですよね。
この人からも強い影響を受けてます。オシャレおじさんです 笑


で、次また、ウィリアムでウィリアムクラインさんです

多分宮田さんモノクロ好きみたいなんで多分見たらハマると思うんですけども、あ、舞踏の人たちも撮ってますね。
壁に貼ってる言葉とか写真を複写するようになったのは、この人を知ってからですね。格好良い…!

そしてお次はヴィヴィアンマイヤーさんです。

この方は職業写真家じゃないんだけども、家政婦か何かの仕事をしながら、趣味でひたすら写真を撮っていた人です。
死後、それこそさっきのアジェと同じように、発掘され評価された人です。ストリートの中でのセルフポートレートが多いのが特徴ですよね。
この人を知った以降、自己言及として自写像やカメラを写真とか映像の中に入れるっていうことはしています。

そして日本代表、中平卓馬さんです。

この人は森山大道の親友なんですけど、実は2人とも逗子に住んでたんですよ。そしてこの人はバチバチの理論家です。映像論とか写真論の本を沢山書いてる人で、現代の日本写真に莫大な影響を与えた人ですよね。
この人は最初、こんな感じのモノクロでハイコントラストのいわゆるエモい写真を撮ってたんですけど、このエモさがエフェクトとして広告の業界とかですぐに使われるようになって、これは写真の写真らしさではないなってことに気づき、「なぜ、植物図鑑か」っていう本を書きます。
これが何かというと、その、写真にとって写真は記録でしかない。綺麗なものとか、その感情とか記憶とかそういうもの(作り手の情緒)を伝えるメディアではなく、あくまでも映像の記録であると書いた人で、それ以降、こういう写真になりました。
感情とか感覚とか詩性とか記憶っていうものを排除して、いかに精密にカラー(モノクロと違って手仕事の痕跡がなくなる)で記録するかってことをしていた人です。多分見たらピンと来ると思うんですけど、私は彼からバチバチに影響を受けてます

こういう流れがあって、ここに至る感じですね。

そして、最新の影響を受けた人は映像作家の仲本拡史さんですね。


もう何か、中平卓馬に憑依というか、影響され尽くしてた時に、実験映画っていう新しい地平を見せてくれた人であり、自身の作品もクレイジーかつスマートでとても強い刺激を受けています。

まとめ

本藤
我々に共通するのが、互いに今までやってきたこと、血肉にしてきたものを実験映画/映像作品という新しい地平を使ってアップデートというか、次の段階に進める/進めたと思えるような作品が作れたらいいですよねって所ですよね。

宮田
そうですね。そう思います。10月に向けて引き続き手を動かしていきましょう。

本藤
頑張りましょー


本藤太郎/Taro Motofuji a.k.a Yes.I feel sad.

逗子生まれ。日本大学藝術学部写真学科卒。カメラマンとして撮影現場を奔走する傍ら2016年より美術活動を開始。写真作品を中心に舞台やインスタレーション、楽曲や映像等を制作し国内外のアートフェアや地域アート等で発表している。 ZAFには2013年の「逗子メディアアートフェスティバル」の頃から雑用として関わっており、2017年には作家として参加。基本寝不足。https://www.yesifeelsad.com/ https://www.instagram.com/taromotofuji/?hl=ja


宮田涼介 / Ryosuke Miyata

神奈川県在住の音楽家。ピアノ楽曲や電子音響作品を中心に、国内外でアルバムを発売。2021年5月に新アルバム「slow waves」を配信リリース。また、カフェやWebコンテンツでのBGM制作、シンガーへの楽曲提供・編曲を行う。http://ryosuke-miyata.com/https://www.facebook.com/ryosuke.miyata.music/


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