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「他人の安全が守られるなら自分が悪者扱いされてもいい」という謎の思考の源を探る

相棒に言われてハッとした。
「あなたは良い人だよね。他人のためを思って注意できちゃうんだから」と。

仕事中の話。
バス運転士の俺は、走行中に立ち上がり手放しで車内を歩く人などを見ると「危ないですから動かないでください!掴まってください!」と言ってしまう。それで「運転士に怒鳴られた」などと苦情をもらい、言っていることは正しいけれどと上司に怒られる。
そんな事案を繰り返しているうちに見て見ぬふりをするようになれば穏便に済むのに、俺はそうはならなかった。むしろ「こっちが悪者になって安全が守られるなら悪者になってやる」「安全のために協力してくれない人から悪者扱いされるのはもはや仕方がない、その人が安全にバスを降りてくれるならそれでいい」というマインドが加速していった。
結果、今までの記事に書いたような理不尽な展開があり、休職に至るわけだが。

実際、バスの車内で走行中に動くのは危ない。いくら運転士の運転が穏やかで手放しで歩けるくらいに滑らかに走行しているとしても、外でバスの前に何かが飛び出してきたり前車が急停車などしたりしたらバスは急ブレーキをかける。
自分も一度だけすんでの急ブレーキで事故を回避したことがあるが、慌てて車内ミラーを見ると、座っていたはずの車内のお客さんがみんなドリフみたいにずっこけた体勢になっていた。この時は幸い車内のお客さんは無事だったようで大きな問題にならなかったが、もし手放しで立っているお客さんがいたら、一番後ろからでも運転席の横に飛んでくるくらいのブレーキだった。その距離は約10m。前方に立っていたらフロントガラスを突き破り外に投げ出され轢かれる可能性もある。
これでも咄嗟の判断でギリギリのコントロールをしながら踏んだブレーキだった。本当にフルでブレーキをかけたらどうなることだろう。想像もしたくない。

もし車内で走行中にコケるお客さんがいたら、仮にお客さんのせいだったとしてもバスは運行中断になる。交通事故だからだ。
交通事故の中でも「車内事故」と呼ばれる人身事故。人身事故だから、運転士に過失があるとみなされれば運転免許の点数が引かれる。
免許の話はお客さんにとっては知ったこっちゃないだろうが、少なくとも運行を中断して警察の到着を待つなり別便のバスに乗り換えてもらうなりすると結構な時間がかかる。安全への協力をしてくれているお客さんを一部のそうでない人のために巻き込むのも嫌である。

そんな山のような大量の思考が、仕事中は毎日何度でも頭の中を駆け巡る。じゃあ自分の身を守るため、真っ当なお客さんを守るために注意しているんですか?と己に問うてみると、不思議とそればかりでもない。
言うことを聞かないお客さんをも守ろうとしている。自分の免許に傷がつく!という思いより先に、痛い思いをしてほしくないんだって!と反射的に思いながら注意している自分がいる。いい子ぶっているかのようで会社では誰にも言えない変な話だが、お客さんに注意している時の自分の思考を注視していると実際そうだったのである。

正義感の塊?
偽善者ぶっている?
自己犠牲の精神が強い?

思考の根底を探ってみようとするものの、どれも当てはまるようでしっくり来ない。
自分の行いは正義でもなんでもないエゴに基づくものだと自覚していて、そもそも正義なんて存在しないという思考すらしている。
だから偽善も何も、良いことをしているとは思っていない。本当に良いのは運転士が声を荒らげるなんてご法度の、誰もが穏やかに乗っていられるバスだと思うし。
そして、自分が悪者になるのは厭わないが、心身の危機を感じたらむしろ真っ先に逃げるタイプだ。自分の命をかけて他者を守るなんて美談とは程遠い。というか自己犠牲が美談とは必ずしも思っていない。

ならば、悪者になってでも注意ができる精神は一体どこからやってきているのか。

思いを巡らせてみて、ふと遠い記憶が蘇った。
小学生の時、何についてだったかは忘れたが、学校でルールか何かを守っていない同級生に注意したい衝動に駆られた。たぶん4年生くらいだと思う。実行には移さなかったはずだが、その時に「自分が悪者になってでもコイツらの今後のために言いたい」という思いが自然と湧いて、直後に「いや、何で自分は先生でもないのにあんなヤツらのために自分を犠牲にしようとしてるんだ?」と我に返った。

自分の変な思考に気づいた場面としてずっと記憶に残っていたエピソードだが、今の自分もこれと同じ思考をしているということか。

また、悪者になることに慣れてしまっている節もありそうだ。
小中学生の頃、家では母がいつも妹達に「お姉ちゃんのようになっちゃダメだよ」と言い聞かせていた。俺は俺でそんな家庭環境もあり、学校では悪口を言われるのが日常だったのもあり、自己肯定感ゼロだったから「その通り」と思っていた。妹達には「俺の屍を越えてゆけ」くらいの気持ちでいた。自分が悪者になって妹達が良い思いをできるならそれでいいじゃん、逆に妹達が超えられないような出来の良い姉じゃなくて良かったと。

いつか、Twitterで偶然こんな呟きを見た。

「どんなに良い人間でも、きちんとがんばっていれば、だれかの物語では悪役になる。」

そう、自分はまさにこの思いを抱えて仕事をしてきたのだよ!と内心で叫んだ。
安全を守るために頑張って、そのために注意をせざるを得ない相手からは悪者に思われる。でも自分が責任をもって運ぶべき誰かの命を失う結果になる可能性を考えたら、誰かにとって悪者になるくらいは万々歳だ。

……最終的にまさか会社からも悪者扱いされる日が来ようとは思ってなかったけれども。
だとしても、おかげで今のところ誰一人として事故での怪我などさせていない。一番大切だと信じているそこを守り抜けた3年半は、いくら会社から反省を促されても悪い内容ではなかったとしか考えられない。
こう考えてしまうあたり、やっぱり良くない思考なのかな。付き合い方を考えたい思考ではあるけれど……。

あれこれと振り返ったら見えてきたので、まとめてみよう。
悪者になってでも注意ができる謎の精神は、悪者になることに慣らされた子ども時代をベースに、その場における一番大切な物事を守る気持ちを貫こうとするがために起こるもの、といえるのではないか。

こうまとめてしまうと至極カッコイイ感じに見えてしまいかねないが、自分の命が大切と判断した場面ならどんなに悪者になろうとも真っ先に危機から逃げるということでもある。

残念ながら俺は、正義の味方でも偽善者でも自己犠牲的な人間でもない。
しかし、会社などで他人に打ち明けたところで到底理解してもらえない思考に違いないので、今後も正義感が強いなどと評されたら「そうなんですかねー?」とテキトーに流すしかないだろう。

こんな思考に、相棒はよく気づいてくれたものだ。

現状、自分の生き様や思考を晒しているだけなので全記事無料です。生き様や思考に自ら価値はつけないという意志の表れ。 でも、もし記事に価値を感じていただけたなら、スキかサポートをいただけるとモチベーションがめちゃくちゃアップします。体か心か頭の栄養にしますヾ(*´∀`*)ノ