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自分が“女子”じゃないことに気づいた時 〜今までで最も刺激が強かった「思い込みが変わったこと」〜

「ああだったらどうしよう、いやこうかもしれないどうしよう」と考えすぎて行動できなくなる性格の自分には、思い込むことなどあっただろうかと首をかしげた。
日常の小さなことでならいくらでもある気がするが、あからさまに思い込みが変わった体験というのは……

……あった。

自分の性自認(自分が思う自分の性別=心の性)に気づいた時のこと。

あれは自分の中で衝撃であり、もはやアハ体験的な爽快感すら感じた思い込みの変化だった。
既にnoteに書いたことがあったかなかったか忘れたのでこの機会に書いていくことにしよう。

性自認の話の前に性的指向(好きになる性)の話をする。

高1の時、自分の性的指向がレズビアンかバイセクシュアル(両性愛者)じゃないかと思い始めた。同級生の女の子や女性の先生に胸のドキドキを感じて仕方がないことが続いたからだ。
そしてちょうどこの時は、テレビでコント番組「ピカルの定理」のBLコントやその他のバイセクシュアルの人を取り上げる番組を見て、自分の中の“恋愛対象=異性”という思い込みが変わった頃だった。
だからこそ自分の性的指向を「あれ?」と疑うことが出来たし、だからこそそんな自分をあっさり受け入れた。(自分がいた高校の同級生達が、個性溢れる人間を素晴らしいほどあっさりと受容してしまう人達だったという環境のおかげもある。たぶん。)

これも充分に“思い込みが変わったこと”ではあるのだが、後にもっと大きな経験をすることになる。

高2の終わり頃、それまで大きく深い関わりを持ってはいなかった同じ部活の同級生が、なぜだか私を選んでメールで「性同一性障害かもしれない」とカミングアウトしてくれた。(スマホ持ちでLINEをやっている同級生がクラスに半数くらいいる時代だったけど、自分がまだガラケーだったからメールだった。)
この頃の世間にはまだLGBTなんてことばは知れ渡っておらず、病名としての「性同一性障害」ということばは多少知っている人がいる程度。私は偶然にも以前「世界仰天ニュース」で取り上げられていたのを観た記憶があって、どこか遠い世界にそういうものがあるらしいという程度の認知はしていた。

だからここでまず一発、思い込みが変わる。
【体の性と心の性が一致しない人は身近にもいるのか!】
LGBTということばが流行のように世間を駆け巡った現在となっては当たり前の認識(になっていてほしい!)だが、当時の自分には他人事のような、テレビの向こう側にある別世界の話のような気がしていた。

ああそうか、そりゃそうだよな。
と気づきを得た直後、それを踏まえてなんともう一発、その比にならないレベルで思い込みが変わった。

私はこの時なぜか、自然と考えてしまったのである。「体の性と心の性とが一致しない人がこんなに身近にいるんだ、ということは自分がそうである可能性もあるのか」と。
自分がそうである可能性、つまり女子な自分であれば実は男子かもしれないということだ。………………あれ???

思い当たる節が多すぎた。
高校生も折り返し地点な頃、友人に「最近ようやく“高校生”になった自覚は出てきたけど“女子高生”になった自覚が全くないんだ」と笑いながら話して「何いってんの」と一蹴されたこと。
小中学生の頃、同級生男子から「天パ・キモイ・死ね」の三拍子の悪口を言われ続けたくせに、当時の自分はいじめを受けている自覚などなく「うん、その通り」と肯定すらしていたこと。これだけなら自己肯定感が著しく低いだけだと思っていたが、家の近所のおばあちゃん達など大人達から「かわいいねぇ」と言われると内心「何言ってんだこの人達、眼科行った方がいいよ」と本気で嫌悪を抱いてしまい、まるで嬉しく思えなかったことと併せるとどうだろう。
そういえば幼い頃はかわいいよりかっこいいポーズを決めて写真を撮られたがっていたことを、親が作ってくれていた自分のアルバム写真を思い出して気づく。新幹線や電車、ベイブレードとかレゴブロックとか、“男の子の遊び”に強く憧れながら、やりたいと言ってはいけないと幼いながらにどこかで思っていたこともある。あの頃から既にジェンダーで自分を縛り、女の子の枠に収まろうとしていたのか?
高校生になって遠足や文化祭など私服登校の日があるようになり、服のセンスが壊滅的で種類も持っていなかった自分はその度に親に付き添ってもらって服を選んでいたが、何を試着しても似合わないと思えて仕方がないこと。親に「じゃあお前は裸で出掛けるんか?」と言われるなどして、文字通り泣く泣く服を選ぶことを繰り返していた。自分が着るのはレディース服だと思い込んでそこしか見てこなかったなあ。
そもそも自分はレズビアンかバイセクシュアルかだと思ってきたが、対象となった相手のことを“女子目線”で見てこなかった気がすることも。特定の女の人を好きになったときの目線はどう考えても“男子目線”だった。

等々、いろいろな過去を思い出した。

そしてこの時初めて、これらの“謎の現象”に、自分が男子だったからだという結論を仮定してみた。そしたらとてもスッキリと納得がいってしまった。

【もしかして自分、女子じゃなかったのか!】
最高に強烈に、自分の中にあった“私は女子”の思い込みが変わってしまった。

自分の中の常識が頭の中で文字通り“ガラガラと音を立てて崩れた”瞬間だった。

今思えばそれらの気づきの多くが“女子ジェンダーに染まれなかった自分”への気づきでしかなかったことは申し添えておくが、この気づきをキッカケに性自認そのものを見つめ直すことができ、性自認への違和に気づくことができた。

大抵の人は性自認の違和に気づくと、自分の身体や理解のない世間などとのギャップに苦しむことになるようだ。私もご多分にもれず経験をすることになる。
しかし自分はここで、心から清々しくスッキリとした気持ちになった。今までモヤモヤしているとも気づかずにモヤモヤしてきた自分自身への疑問の数々が、一挙に解決してしまったのだから。
「なーんだ、もともと女子のレールに乗れない人間だったんだ。だったらこれからは今までみたいに無理にレールに乗ろうとすることないよね」と、すこぶる肩の荷が降りた気持ちになった。

カミングアウトしてくれた友人への返事は「話してくれてありがとう。もしかしたら自分もそうかもしれない」という、まさかの突然の逆カミングアウトと化した。(果たしてこんな返事で良かったんだろうか?)

“身体と心の性とが一致するのは当然”の思い込みを外されトランスジェンダー男子になった自分は、翌朝からこの立場の人間がいかに生活しづらいものかを身をもって知ることとなった。
いつも迷わず入っていたトイレに行こうとすると入口で一旦足が止まったり、男女で作業内容が変わる活動に違和感を覚えたり。これはこういうものだと思い込んで何の疑問も持たず受け入れてきた物事に、急に疑問を感じまくる生活。大変で悩みも尽きないが、一方で新たな視点を得られる感覚は嫌いではなかった。(同級生達の受容力はやっぱり高くて、カミングアウトした相手にもしていない相手にも「こういう子」と受容してもらえて生活できたのは最高にありがたかった。)

そのうちに性のあり方についていろいろと調べ倒し、“性別は男か女かの両極端”という思い込みも崩され、男でも女でもない性のあり方がたくさん存在することを知った。
すると“女ではないと分かったから男だと思ってきたけど、完全に性別移行して男になりたいとも思えない自分”に気づくことが出来た。

今となっては自分の性別について、“セクシュアリティを細かく見ていったら世の中に全く同じ性別の人なんてほぼ1人も居ないだろう。だったら人のセクシュアリティは全員マイノリティじゃない? 自分もその中の一人にすぎない”という感覚の上で「自分は自分」と名乗っている。

ここまで刺激の強い思い込みの変化を体験したおかげか、思い込みには気をつけねばという思いはおそらく人一倍強い。特に他人のパーソナリティや考え方については、決めてかからないように、その人の発する言動を慎重に検討するよう努めている。
そして、自分も含めて人は絶対に何らかの思い込みをするものだという前提に立っている。この自覚がないと、思い込みに気づくことすらできず、無論それを変えることも出来ない。

思い込みを変えるのは難しく、ときに葛藤も必要な作業になる。しかし、思い込みが外れて見える世界が広がることが、自分にとってはなかなかに楽しい。

#思い込みが変わったこと


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