伊勢物語を語るとは、男を語ることだ
昔、男ありけり。
『伊勢物語』の代名詞とも言える冒頭の一行。ある時、この一文を目にした俺は感動に打ち震え、泣いた。昔もこんな「男」がいたのか、と。こんな「男」が存在してもいいのか、と。
「ゆらのとをわたる舟人かぢをたえ行方も知らぬ恋の道かな」(百人一首)よろしく、恋の盲目にたゆたっていた俺は、この「男」に生涯の伴侶を見いだしたのである。「伴侶」というよりも千年来、いやもっともっと遠い昔から続く「男」の業(ごう)といった方がいいようなものを、俺の中に発見したのである。三島由紀夫は「真の詩人だけが秘(かく)されたる神の一行を書き得る」と『伊勢物語』の評で述べたが、もし『伊勢物語』の中から神の一行を選び抜くならば「昔、男ありけり」こそがふさわしい。
『伊勢物語』の主人公は、「在原業平とおぼしき男」と紹介されるのが常である。しかし、そんなことは忘れていい情報だ。作者が「男」という一般名詞を選んだ意味を熟考するがいい。主人公は「男」である。それ以上でもそれ以下でもない。俺はこの文章を書きながら、「この男は俺だ」と叫びたい欲求を噛み殺している。
伊勢物語のテーマは「恋」
『伊勢物語』のテーマは、そのものずばり「恋」である。
恋とは何か。
その答えを知りたければ、『伊勢物語』をひもとくがよい。『伊勢物語』に書かれていることを「恋」という。
古来、恋とはしのぶ恋であった。武士道のバイブル「葉隠」に言う、「恋の至極は忍恋と見立て候。逢ひてからは恋のたけが低し、一生忍んで思ひ死にする事こそ恋の本意なれ」。
要するに、しのぶ恋とは片想いのことである。そして本質的に、恋とは片想いである。万葉の歌人が、「こい(恋)」の旧仮名遣いである「こひ」に「孤悲」の字を充てたように、恋とは独り悲しむものである。恋は、道長の詠んだごとき欠けたる所のない円満なる月ではなく、満ちることを知らない半分の月である。
世の中に、恋ほどありふれたものはない。しかし、『伊勢物語』ほど、あからさまな、しかし秘められた、「たけの高い」恋はない。『伊勢物語』の恋は、ただの片想いではない。それは生き様である。恋に破れようとも、季節が恋人を忘れ去ろうとも、世間や常識がそそのかそうとも、「男」が恋人を忘れることはない。跡形もなく洗い流すことが自然の条理ではあり得ても、「男」の自然には反する。恋は自然消滅しない。この自然への反逆は、恋人を懐かしむ意志によってかろうじて支えられている。その支点のあやうさにもかかわらずポキッと折れてしまわないさまは、まるで運命の女神が「男」の意志を支えているかのようだ。
永遠の片想い。それは悲惨だろうか。しかし、「男」には、このような生き方しかできないのだ。「男」は一般名詞でありながら実存としての私の名でもある。もう自分の欲求を噛み殺すのはやめだ。「男」の正体は、俺だ。
俺の一番好きな話
前置きが長くなってしまった。実際に中身を読んでみよう。古典は難しくない。読めばわかる。今は俺が最も愛する話を紹介するだけで十分だ。
(古文が難しくて読めない人は以下の引用はすっ飛ばして、その下の「かいつまんでいうと・・・」から読んでほしい。)
第四段
むかし、東の五条に、大后の宮おはしましける、西の対に、住む人ありけり。それを、本意にはあらで、心ざし深かりける人、行きとぶらひけるを、睦月の十日ばかりのほどに、ほかにかくれにけり。あり所は聞けど、人の行き通ふべき所にもあらざりければ、なほ憂しと思ひつつなむありける。またの年の睦月に、梅の花ざかりに、去年を恋ひて行きて、立ちて見、ゐて見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひいでてよめる、
月やあらぬ春や昔の春ならぬ
わが身一つはもとの身にして
とよみて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣く帰りにけり。
かいつまんでいうと・・・
好きだった人が、どこかへ行ってしまった。居場所はわかっている。だが追いかけていくのも野暮である。さりとて忘れることもできない。といっている間に一年が経ち、あの人に出会った場所に来てみたものの、もはや去年の面影はない。ただ、去年のことを思い出しながらそこに佇んでいる。涙が頬をつたう。季節は移り変わってしまったのに、私だけが取り残されたように、今も君を恋しのんでいる――。
どうだろうか。「男」は、去年好きだった人のことを慕って、思い出の場所を訪れているのである。無論、一人で。だだっ広い景色のなかに、私だけがぽつんと取り残されている。あたりを見回すと、君と一緒に座ったベンチを見つける。ここに腰掛けてお喋りをしたな。会話は少なかったが、それだけに何を話したかよく憶えている。
時に、あなたは今、どこで何をしていますか。
伊勢物語を読む意味
今を生きよ、と人はいう。過去にとらわれるな、とも言われる。しかし、『伊勢物語』は過去とともに生きることを薦める。「昔」を思い出し懐かしむことを教える。いや、勧めたり教えたりなどはしない。何一つ教訓めいたことは言わない。ただ、『伊勢物語』に登場する「男」の背中がそのように語りかけてくるのだ。
それにしても、令和の世にこの短い生を授かった私共が、千年も昔に書かれたものをあえて読む意味がどこにあろうか?
俺には、ある。『伊勢物語』でなければならない理由がある。
千年の時を超えて「男」に出会えるからだ。こんなにも大きな過去を背負っていることが分かるからだ。『伊勢物語』を仰ぐことで、読者は、前へ前へと突進していくドン・キホーテではなく、後ろ向きに回顧する「男」となる。
「男」は今も生きている。
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