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宝塚歌劇は非リアに優し。

私には彼氏が居ない。
彼氏どころか好きな人も居ない。
居たらいいとは思うのだが、出会いがない。
そもそも、友達から恋人関係に発展させていく方法が分からない。知らない。
どうすれば血も繋がっていない赤の他人が、自分のことをひたすら大事にしてくれ、愛してくれるのか、さっぱり分からない。
友情なら理解出来るのだが、血の繋がらない全くの赤の他人に、恋愛的な愛情を抱かせることなんてあまりにも難しいと思う。
もちろん人によって違いはあるだろうとは思うが、少なくとも私には超絶難しい。
そもそも、いくら努力したとて叶うものでは無いのだ。
彼氏無しの女が偉そうに何を言う?と言われたらそこまでだが、恋愛が両方の矢印として成立するのは(つまり両思いになるのは)、努力に加えて縁と運が全て綺麗に重なり合った時だと思っている。
私の場合、宝塚歌劇に莫大な労力を費やしているがために努力する金もなく時間もなく、努力しなくても人が寄るほどの外見的・内面的魅力もなく、縁や運は全て宝塚歌劇のチケットや人脈作りに使い果たしたので、恋人が出来るのはかなり難しい…。(と思っている)

別にいい…別にいいのだ…。
そりゃ居たらいいとは思うけど、私は宝塚があればどこまでも幸せになれるのだから……。

…とは思ってみるものの、やはり色々と問題が生じる。
私の中での今の1番の問題は、恋愛映画やドラマが最後まで観れないことである。
特に同年代の、大学生カップルを描いた映画やドラマなんて絶対最後まで観れない。
先日アマプラで「花束みたいな恋をした」という映画を見たのだが、開始後すぐに号泣してしまった。
作品に感動したからとか、菅田将暉がイケメンすぎて泣けてくるとか、そういう理由ではない。
リア充(ここではリア充を両思いの恋人がいる人々、非リアをそんな人がいない人々と定義する。)への嫉妬と羨望というあまりにも醜い感情が、あまりにも自分の心の渦巻くので、そんな自分が情けなさすぎて泣いてしまったのである。

「なんでこいつらは縁や運に恵まれて、こんなに幸せそうなんだよ……」

その妙な怒りの感情はそれを思ううちに嫉妬や羨望になって心を駆け巡り、やがては泥のように汚い涙になって私の頬を流れ落ちる。

いたたまれなくなって観れなくなり、最後の結末を知ることはなかった。
後ほど知り合いから盛大なネタバレをくらい、最後に2人は別れてしまうというラストを知ったが、別れりゃいいってもんじゃない。
恋人として幸せそうにする2人のシーンがあれば、その時点で嫉妬と羨望である。
恋愛映画や恋愛ドラマなのに、恋人同士の2人が幸せそうにしているシーンが無いものなんてない。
大抵の映画やドラマは幸せそうな2人がいて、もしくは普通の関係から幸せそうな2人になって、別れたり、もっとくっついたりする。
何がともあれ、今の私では恋愛映画やドラマを最後まで観ることは不可能である。
嫉妬と羨望の果てで、自分が情けなくなって観れなくなるだけだから。

しかし、ここでひとつ矛盾が生じる。
私が宝塚歌劇のヲタクである点である。
宝塚歌劇が110年間描いてきたもの…、それはほとんどが、男役が扮した男と娘役が扮した女の強烈な恋愛物語であるはずである。
挙句の果てには各組に常に主演を務めて恋人同士を演じる、トップコンビと呼ばれる男役1名と娘役1名を置き始める。
先程も書いたが、私は恋愛映画やドラマを最後まで観ることは出来ない。
もっと言うなら、嫌いの領域へも達しているのかもしれない。
それなのに、恋愛映画やドラマは観れないくせに、男女の恋愛ばかり描いている宝塚歌劇はとにかく大好きなのだ。
これは私の中のあまりにも大きな矛盾である。
なぜこんな大きな矛盾が生まれてしまったのだろうか…。なぜ私は、恋愛映画やドラマが観れないくせに宝塚歌劇はひたすら観ることができるのだろうか…。
色々思いを巡らせたが、答えはただひとつだった。
普通の恋愛映画やドラマの男女は現実にも存在しうる男女であるが、宝塚歌劇の男女は現実には絶対存在できない男女であるから…である。
答えは案外簡単で、前々から私がこのnoteの宝塚記事で書いていたことだった。

普通の恋愛映画やドラマに出てくる男女は、その映画やドラマの外でも、役としてでは無いものの、俳優と女優という男女として存在することが出来る。
だからこそ、その映画のドラマの男女は自分たちの生きる現実世界とそれなりにひと続きな、(作品によって、どれほど現実とひと続きかは変わってくるが…)リアリティを帯びた人たちとして存在することができる。
そのリアルさが好きな人も勿論いるが(というかそういう人が殆どだろうが)、私のような者にとってそのリアルさは、非リアからリア充への単なる嫉妬と羨望の的となる。
だから私は、程度の差はあれど男女がリアリティを帯びまくる普通の恋愛映画やドラマを、最後まで観ることはできない。

ところが宝塚歌劇はどうだろう。
先程も書いた通り、宝塚歌劇に出てくる男女は、現実では絶対存在できない男女である。
宝塚歌劇の舞台という中でしか男と女として存在出来ず、ひとたび舞台を降りれば女と女として存在する。
だからこそ宝塚歌劇に出てくる男女は、普通の恋愛映画やドラマに出てくる男女とは異なり、現実世界とまずひと続きではなく、全くリアリティを帯びない人々として存在することができる。

つまり、普通の恋愛映画やドラマを見て嫉妬や羨望に走ってしまう私にとっては、宝塚歌劇のリアリティの無さが心地よいのだ。
現実に絶対存在できないと分かった上で観るから、嫉妬や羨望なんて湧いて来ない。
自分たちの生きている世界ではない、天空の上の別世界に存在する男女に、嫉妬や羨望なんて湧くことは無い。
いくら努力しても、運が良くても、縁があっても、そもそも世界が違うのだから、あんな男女のような恋愛をすることはまず不可能なのであると分かっているから、嫉妬や羨望を抱くことはないという訳だ。

だから私は、宝塚歌劇における男女の存在や彼らが描く恋愛模様をただ単に「美しい」「尊い」ものとして受け入れることが出来る。
嫉妬や羨望などの醜い感情を一切入れず、穏やかで幸せな感情だけで観ることが出来るから、私は宝塚歌劇にハマっている。
映画やドラマはもちろんのこと、他にも沢山の男女の恋愛を描いたものはあるけれど、宝塚歌劇ほど清らかな気持ちで観れる恋愛劇は存在しない。
男役と娘役という女と女の絆が魅せる男女の幻想に、心地よく身を任せてありのままの気持ちで感動するのは楽しい。 

世界のどこにも他には存在しない幻想を通して、私のような惨めな非リアにも優しい時間を届けてくれる宝塚歌劇…。 

「宝塚歌劇は非リアに優し。」

私の完全な個人的意見にはなるが、そう思っている。

ただ、最近の宝塚歌劇を今までと同じような、穏やかで幸せな気持ちで観ることは中々難しいと思っている。
何かが起こって男役と娘役が現実の存在に見えるようになったとか、そういう訳ではない。
昨年の11月頃から宝塚歌劇がニュースに取り上げられ始めて、難しさを感じるようになってしまった。
私は宝塚歌劇の「ファン」だから、全ての真実を知ることなんて絶対できない。
ただ、ひとつ願うことはある。
多少の誇張はあったとしても、ニュースや雑誌で報じられているようなことがあった、あるのなら…。
(何度も書くが私は「ファン」なので真実を知ることなど絶対できない。だからもし報じられているようなことが、メディアの誇張によって程度の差はあったとしても存在している、いた、場合のことを言っている。)
歌劇団には、とにかく団員のことを考えた取り組みをして欲しいと思っている。
こんな非リアにも優しいのだから、団員へ対しても思いやりのある取り組みを絶対にして欲しいのである。

宝塚歌劇の大好きな音楽をイヤホンで聴きながら、今日も私は街ゆく幸せそうなカップルとすれ違っていく。

「宝塚歌劇は非リアに優し。」

そう感じながら、真実が何であったとしても歌劇団の明るい未来を切に祈るばかりである。














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