見出し画像

幼稚園から感じた女子のモヤモヤ

”ジェンダー学”。”フェミニズム”。
この言葉を知ったのは、恥ずかしながら高校生の時だった。
しかし、高校生の当時は学校での大学受験のための勉強に追われ、特に深くジェンダー学やフェミニズムを知ろうと思うことはなかった。
強いて言うなら、高校2年の時に探究レポートで上野千鶴子さんが2019年に東大の入学式で行った式辞について触れたとき、少し調べたくらいだった。
ただ、今になって思うのは、高校生の時にもっとジェンダー学やフェミニズムについて学んでおくべきだった、ということである。
理由は簡単だ。
ジェンダー学やフェミニズムを学ぶことによって、私が幼少期から高校時代に至るまで頻繁に感じていた”よくわからないけど大きなモヤモヤ”が、きちんと言語化されて、そのモヤモヤが何なのかを知ることができたからだ。
今回は、私が幼少期から高校時代に至るまで、頻繁に感じていたモヤモヤについて書き出してみようと思う。
時系列で、幼稚園、小学校、中学校、高校の順に書いていこうと思う。

幼稚園時代(2008年~2010年)

幼稚園時代に感じたモヤモヤはまだ幼過ぎたこともあってか、主にひとつだけだ。
しかし、幼過ぎたのにも関わらずそんなモヤモヤを感じていたということは、当時の自分にとって、かなりの違和感であったのだろうということが考えられる。
そのモヤモヤは、年末年始に父親方の祖父母の家に帰省した時に巻き起こった。10歳以上も年が離れた従兄弟と、私の父親と、私、3人で話していた時のことである。
かなり昔の話なので、なぜそのような会話の流れになったかは詳しく覚えていないが…、当時人気だった女性アイドルの話をしていたと記憶している。
人気のアイドルの話(年代的におそらくAKB48)をしていたら、従兄弟がボソッとこんなことを呟いたのだ。
「女の子は外見が良いと得だよ」
最初は何も思わなかったが、次第に頭の中に「?」が思い浮かぶようになった。
確かに今、私の従兄弟は、「女の子は外見が良いと得だよ」と言った。
もう一度私はその言葉を心の中で繰り返した。
「女の子”は”外見が良いと得だよ」
女の子”は”?いったいどういうことだろう。
男の子は外見が良くても、得をしないんだろうか。
女の子”は”外見が良かったら得をする、という、対象が女の子限定のその言葉に私はモヤモヤした。
もちろん、幼い私は従兄弟に対して「え?男の子は?外見で得をしないの?外見が良いと得をするのは女の子だけなの?」と言うこともなく、とにかく「女の子は外見が良いと得」という言葉を、モヤモヤしつつも取り込んだ。

小学校時代(2011年~2016年)

小学校時代のモヤモヤは、主に3つだ。
またもや親戚との話、父親の知り合いとの話、そして自分の初潮をきっかけとした生理の話だ。3つなので番号を振って、まとめながら書いていく。

①あぐらをかいていたら注意された話
先ほどの幼稚園時代のモヤモヤと同じく、父方の親戚との話である。
私の父方の祖父母が結婚50周年を迎えて、それを祝うために親戚みんなが集まり、美味しい料理店の座敷で食事をしていた時のことだ。
座布団にずっと座っていて疲れてしまった私は、あぐらをかいていた。
そんなあぐらをかく私を、叔母が優しく諭した。
「ちえりちゃん、足を直そうね」
あぐらをかいていることを注意されたのだと判断した私は、とっさに足を組みなおして別の座り方をした。
私が座り方を変えたのを見た叔母は優しく微笑んで、会話の輪に戻っていった。
しかし、周囲を見渡した私は強烈なモヤモヤを覚えた。
男性たちはだいたいみんな、あぐらをかいているのだ。
まずはそのモヤモヤを無くすため、私がまだ子どもだからマナーを覚えさせようと思って諭したのだと理解した。
しかし、子どもであるはずの同じ年齢くらいの従兄弟もあぐらをかいているのだ。
その後何時間しても叔母は従兄弟を注意することは無かった。
見えていないのか?とも思ったが、叔母の視界に絶対入るところに従兄弟は座っていたので、それは考え難かった。
幼稚園時代以来ひさびさの、モヤモヤを感じた出来事だった。

②”女の子なのに可哀そうなくらい”父親にそっくり、と言われた話
これは、私の父親の知り合いと初めて会った時の話である。
私の父親はジャズのイベントを主催するボランティア活動に参加していて、たまに私も顔を出していた。
大人ばかりのボランティア活動に子どもの私が顔を出すと、色々と大人たちがしゃべりかけてきてくれるのが嬉しかった。
この出来事が起こった日は、そのボランティアが地元のショッピングモールでのイベントに参加し、私がそこに顔を出した日だった。
父親と手を繋いでいた私は、父親からボランティアでの知り合いを紹介された。初めて会う大人だったので、少し緊張しながらも「こんにちは」、と挨拶をした。
その人は私のことを見るなり、隣の父親と私を見比べて、こんなことを私に言った。
「うわあ!女の子なのに可哀そうなくらい父親にそっくり!」
可哀そう?
初めて出会った大人に、いきなり可哀そうと言われて私は大混乱した。
隣で「あはは、そうなんですよー」と笑う父親に合わせて私も笑ったが、心の中では大混乱していた。
まず、初対面の大人にいきなり可哀そう、と言われたこと。
当時の私は特に自分が可哀そう、なんて思ったことはなかった。
今も大好きな宝塚歌劇に夢中になり始めたころだったから、むしろ毎日幸せでいっぱいだった。
それなのにこの大人は、私を可哀そうだと言うのだ。
毎日幸せでいっぱいだったのに、私はこの大人のなかで”可哀そうな人”にされてしまった。
次に、女の子なのに、と言われたこと。
これが私の1番のモヤモヤの原因だった。幼稚園時代に感じたモヤモヤと似ていて、女の子、という対象に絞られていることにモヤモヤした。
私が男の子だったら、可哀そうにはならなかったのだろうか。
自分が女の子であるがゆえに、この大人の中で自分が”可哀そうな人”にされてしまったような気がして、悲しくて悲しくて堪らなくなった。
優しい両親、優しい友達、毎日通う楽しい小学校、楽しい習い事、やっと巡り合えて夢中になり始めた、大好きな宝塚歌劇。
私はとにかく幸せでいっぱいなはずなのに、この大人の中では、私は女の子なのに父親に似てしまった”可哀そうな人”だった。

③こんなに生理が辛いとは知らなかった話
これは、私が小学校6年生の夏に初潮(初めての生理)を迎えた時の話である。
小4くらいの保健体育の時間にある程度は生理に関する知識を入れていたので、初潮が訪れても別に「病気だ!」と騒ぐこともなかった。
が、初めて生理になってみると、その辛さと負担に愕然とした。
学校の保健体育で教えてもらった生理に関する知識としては、「血が出る」「1週間くらい続く」というようなものだった。
しかし、実際は「血が出る」「1週間くらい続く」という単純なものではなかった。
とにかく起き上がれないと思うほど腰が痛くてお腹が痛くて、その上、貧血になりそうなくらい大出血をするのだ。
学校で教わったものと全然違って、私はとにかく愕然としていた。
私だけおかしいのかも・・・・と思って、周りの女性たちに聞いてみたが、みんなそんなもので、痛みが酷いなら鎮痛剤を飲むという。
私も鎮痛剤を飲めば痛みは多少マシになったが、とにかく大出血するのには変わりがなかった。
しかも、生理はどんなに大事なイベントがあっても必ずやってくるため、不便を感じることが数えきれないくらいあった。
とにかく私はモヤモヤした。
私だけじゃなくて、周りの女性もみんなこんなに大変なのに、なんで学校ではきちんと教えてくれないんだ!と。
その上、こんなに大変な女性の生理を無いもののように扱い、時にはからかいの対象として扱う風潮にも、とにかくモヤモヤした。
この件に関しては、モヤモヤと言うよりもイライラに近いかもしれない。
このイライラは、よく誰かが言う「生理だからってイライラしてるの?」のイライラではない。
明らかにおかしいと感じて生まれたモヤモヤが膨れ上がって大爆発した、イライラであった。

中学校時代(2017年~2019年)

中学校時代に感じたモヤモヤは、主に1つだ。
幼稚園時代や小学校時代に感じたモヤモヤと原因が同じものもあるかもしれないが、書いていこうと思う。
中学時代の人間関係の話である。
私の居た中学校では、しょっちゅう女子どうしの揉め事が起こっていた。
部活、クラス、所かまわず様々なところで噴煙が上がっていた。
私がその揉め事に巻き込まれることもあれば、主催者となってバトルを繰り広げることもあり、自分は関係していないけど友達の相談に乗ることもあった。そのたびに、人間関係って難しいよなあと感じていた。
そんな時、こんな言葉を発見した。
「女の敵は女」
「女の世界は怖い」
「女の友情はハムより薄い」

最初は納得した。
実際、女子どうしで揉め事が頻発していたし、大変だったのだから。
しかし、ここでも対象を女子だけに絞っていることにモヤモヤした。
じゃあ、女の反対である男では、こんな言葉があるのだろうか。
「男の敵は男」
「男の世界は怖い」
「男の友情はハムより薄い」
先ほどの言葉を全て、女の部分を男に入れ替えてみたが、女の時とは対照的に、聞き馴染みのない言葉に感じられた。
つまり、女性どうしの友情を否定するような言葉は聞き馴染みがあって一般的なのに、男性どうしの友情を否定する言葉は聞き慣れなくて一般的ではないのだ。
では、だからと言って男性どうしの友情や繋がりは完全無欠、絶対に崩れることのない、完璧なものなのだろうか。
当時の私の身の回りには、男性どうしの人間関係で悩む男性は何人もいた。
私の父親は男性上司からパワハラを受けていたし、別の学校の私の男友達は男子部活動でイジメられて退部しようかと迷っていたし、とある男子グループのノリに付いていけなさ過ぎて困り果てている男子もいた。
実際に男性どうしの人間関係で悩む男性はもっと居たかもしれない。
そう考えると、女性どうしの友情や繋がりを否定する言葉があまりにも多く、一般的なことにとにかくモヤモヤした。
女子どうしで揉め事が頻発していたとは言っても、仲の良い女子は沢山いたし、揉め事を起こした後にきちんと仲直りすることもあった。
それなのに、ここまで女性どうしの友情や繋がりを否定する言葉があることに、とにかくモヤモヤした。
そのうえ、こんなに女性どうしの友情や繋がりを否定するような言葉があまりにも多いと見逃されがちだが、男性だって人間関係で悩んでいる。
弱みを見せるなと抑圧されがちなうえ、女性の方が人間関係が大変なのだということを示すような言葉によって、社会は男性どうしの人間関係の難しさにはあまり目を向けない。
それにもとにかくモヤモヤしていた。

高校時代(2020年~2022年)

高校時代に感じたモヤモヤは、主に2つだ。
こちらも原因を辿れば幼稚園、小学校、中学校時代と同じものもあるかもしれないが、番号を振って書いていこうと思う。
友達から痴漢に遭ったと聞いた話、私の高校にいた、とある男子たちの話である。

①友達から痴漢に遭ったと聞いた話
私の友達は電車通学をしながら学校に通っている人だった。
そんな彼女からある日、電車で痴漢に遭ったと話された。彼女はかなりショックを受けていて、私の方も今まで身近に痴漢被害に遭った人は見たことが無かったので、かなりの衝撃を受けた。
それと同時に、自分がそれまで痴漢被害者に対して持っていた認識があまりにも気持ち悪く、歪んだ構造にそのまま漬け込まれたものだと気付いて、身の毛がよだつほどにゾッとした。
私はそれまで、「痴漢は被害者にも落ち度がある」と何の疑いもなしに信じていたのである。
「ミニスカートを履いているから悪い」
「そんな露出した格好をするから悪い」
そんなことを、何の疑いもなく私は信じていた。
しかし、それはあまりにもおかしくはないだろうか?
被害者側には着たい服を着る自由がある。それなのに、気持ち悪くて非常識な痴漢野郎のせいで、着たい服を着るという自由が制限されてしまう。
それって、あまりにもおかしすぎないだろうか?
こんなことを言うと、「性欲は本能だから仕方無いじゃん」と反論してくる人が居る。
確かに、性欲が食欲と睡眠欲に並ぶ、人間の3大欲求であることには間違いない。しかし、食欲が本能だからと言って、スーパーで会計もしていないお弁当やお菓子を食い散らすのは許されるだろうか?
睡眠欲が本能だからと言って、大事な会議の途中であろうがなんであろうが、所かまわず寝落ちすることが許されるだろうか?
食欲と睡眠欲の話になれば、所かまわず自分の欲求のままに行動するのは許されることではない、と直ぐに分かる人ばかりなのに、なぜ性欲になると所かまわず自分の欲求のままに行動(痴漢)するのは「仕方ない」という結論を出す人がいがちなのだろうか?
あくまでも私の意見だが、今の日本には残念ながら「あまりにも男性の性欲に寛容で、女性はそれを受け止めるべきという風潮があるから」だと考えている。
他にも「性犯罪に対する罪の軽さ」など様々なことが考えられるが、私の中ではこれが1番の原因なのでは、と考えている。
実際に私も、それまでは「男性の性欲には寛容で、女性はそれを受け止めるべき」ということをうっすらとではあるが、当たり前のように感じていたからだ。
しかし、そんなことがあっていいはずがないのだ。
女性は男性の性欲処理装置ではない。
本来は人間として制御すべき欲求を自分勝手にぶつけてこられる、もしくはその可能性があるからと言って、着たい服を着て、お洒落を楽しむ自由が制限され、時に奪われるようなことなど、絶対にあってはならない。
友達から痴漢に遭ったという話を聞かなければ、ずっと自分の頭の中で「痴漢は被害者にも落ち度がある」という考えが張り付いていたと思うと、本当に恐ろしかった。
それ以上に、私のようなごくごく普通の、自分には差別意識などさらさら無いと考えていたような人間にも、そんな考えを自然と張り付けてしまうこの社会の方が恐ろしかった。

②私の高校にいた、とある男子たちの話
私の高校のとある男子グループの話だ。
その男子グループは、昼休みやその他の休み時間になると、しょちゅうあることをしていた。
それは、同学年の女子生徒の容姿に点数をつけること、だった。
最初見たときは、とにかく怒りが湧いていた。
誰が可愛いだとか綺麗だとか言うのはまだ分かるが、なぜ私たちの容姿をいちいち点数化して序列化するのか!こっちは毎日必死に授業に付いていっているだけなのに、なんであんたらに点数化されなきゃいけねえのかよ!と。
しかし、毎日のように見ていると「怒り」というよりも、「疑問」が湧いてくるようになった。
彼らは女子の容姿を点数化している割には、かなり自分たちの容姿には無頓着だったからだ。ナチュラルに、疑うこともなしに、自分たちの容姿にどれだけ無頓着であろうと、自分たちが女子の容姿を点数化できる立場にあると思い込んでいるのが不思議でたまらなかった。
そもそも、同じ人間をあたかもスーパーの商品のように点数化できる思考を持ち合わせていることが不思議でたまらなかった。
書いておくが、女性だって人間である。
彼らにとっての女性とは、「顔と胸と性器」くらいでしか無いのかもしれないが、残念ながら「顔と胸と性器」とみなされたこちら側は、そちらと変わらず感情も意思もある、複雑な内面を持った人間である。
なにがきっかけで、彼らがいつから女性を「顔と胸と性器」程度に思い始めたのかは知らない。
しかし彼らの集団が、アメリカの文学研究者であるイヴ・セジウィックが提唱した、女性蔑視と同性愛嫌悪を内包するホモソーシャル(性的、恋愛的な意味を持たない、男性どうしの緊密な結びつき)だったのでは?と気付いたのは大学に入ってからのことである。
そして、ホモソーシャル特有のノリ(下ネタの強要や危ない行為の強要、異性をモノのように扱う風潮など)が苦手で気持ち悪く、付いていけなくて悩む男性が少なからず存在していることを知ったのも、その時である。

学問で自分のモヤモヤが可視化されるということ

冒頭に書いた通り、私は高校生の頃からジェンダー学やフェミニズムについて学んでおけばよかった、と後悔している。
ジェンダー学やフェミニズムという学問、そしてそれを勉強するということが、自分が抱えていたモヤモヤがどういうことなのかハッキリさせるなんて大学受験のための勉強ばかりだった日々では到底考えられなかった。
勉強と言えば悩みの種であり、こんな面倒で大変なのに「学問のすすめ」を書いた福沢諭吉は正気なのか?と、いつも思っていた。
しかし、今なら「学問のすすめ」を書いた福沢諭吉の気持ちが分かる。
私が分かろうとしていく間に1万円札はさっさと福沢諭吉から渋沢栄一になったけれど、とにかく福沢諭吉の気持ちが分かる。
他の人は「国語・数学・英語・理科・社会」で諭吉の気持ちを理解するのかもしれないが、私の場合は「ジェンダー学・フェミニズム」だったのだ。
ジェンダー学だけでなくその他の分野も含めて、社会学はかなり人間の心を楽にしてくれる学問だと私は思う。
生きていて理不尽だとか、モヤっと感じたことを、社会学という学問を通して客観的に見つめなおすのが、私にとってはかなり楽になることだ。
以前、他の記事で「私たちが住んでいる世界は、実は誰かの蟻の巣観察なのかもしれない」と書いた。私にとって社会学を知ることは自分が生きている世界を蟻の巣観察キットに見立てて、それを外からじっと見つめるという作業そのものである。
自分のいる社会や世界から少し離れてみて、それを外からじっーと見つめる作業はなかなか興味深くて面白く、時に大きな救いになるのである。





















 






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?