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江戸のお寺はエンタメから金融業までしていた!?

最近は、お寺でマルシェやコンサートなど様々なイベントが行われることも、多く見聞きされるようになりました。ですが、依然としてお寺というと、どこも静かで清らかな落ち着いたイメージを持つ方も多いのではないでしょうか?

そんな、イメージが180度変わってしまうようなことが、江戸の寺院では行われていました。今回は、それらについて紹介してみようと思います。



江戸のお寺の状況

江戸(東京)のお寺について主に述べていきます。徳川幕府時代になり、江戸開府となり、当時の江戸は100万人の人々が住む世界最大の都市となりました。
そんな中、徳川家の菩提寺である芝の増上寺や同じく将軍墓所がある寛永寺などをはじめとした寺院が、徳川家の庇護を受けて境内整備や建物を建立し隆盛を極めていきました。他にも、格式ある神社仏閣が徳川家の支援を受けて、隆盛していきましたが、だんだんと厳しくなっていく財政状況の中、すべての寺社を支援することが、困難になってきました。すると、幕府は寺社においては、お堂の建て替え・修繕等の資金は原則的に勧進(寄付集め)によって自分たちでまかなうようにという御触れを出すに至りました(例外的寺院あり)。
そのような状況で、寺院の側も様々な手を尽くして、自らを維持しようと企画・営業努力をして行ったのでした。


富興行(とみこうぎょう)

富興行と聞いてもピンとこないと思いますが、これは現在の私たちの身近でも行われているものです。そう「宝くじ」です。
富札と呼ばれる抽選券を購入し、抽選日には主催の寺社において、箱の中に入れた木製の富札を大きな錐(きり)で突いて、抽選がされます。抽選の前には、本堂で法要が営まれ、一応会場を宗教的空間とする配慮はされていたようです。

さて、肝心の当選額ですが、一等の金額は1000両〜100両の間で設定され、2等・3等、1等前後賞、組違い賞など、現在の宝くじとそれほど相違無い形で当たりの設定がされていたそうです。

富興行は幕府の許可制で、興行を行えるのは寺社に限りました。最初は、ごく限られた寺社でのみ行われていましたが、幕府の財政が厳しくなると、規制が緩和され、支援しきれない有縁の寺社にも興行の許可がおりるようになりました。それによって、富興行の嘆願多い時には2日に1度ほどのペースで行われるようになってきたそうです。そのような状況になると、次第に富札が売れ残る興行が多くなってきます。富興行のコモディティ化です。各寺社、工夫を凝らして興行を盛り上げようとすれども、同じようなことを行う寺社が多く、売れ残って不振に終わってしまう興行が増えていきました。

そのような状況の中、天保13年(1842)、天保の改革の真っ只中に、富興行は全面禁止となりました。贅沢・奢侈を咎める天保の改革の中にあって、射倖心を煽り、実際に身を滅ぼす者も出ていたらしい富興行が禁止されるのは、当然のことのように思えます。

これによって、寺院への支援・助成事業としてはじまった、富興行の歴史は終わりを迎えました。


金融業(金貸)

江戸時代当時、金融業は幕府の許認可が必要な事業ではなく、驚くことに寺院が金融業を営むのは一般的なことでした。
そして、幕府の財政が厳しくなると、貸付金の回収を幕府としてバックアップすることで、支援しきれない寺院のお堂・境内修復助成事業的に行われていくようになっていきました。

そして、貸付金の回収に幕府の後ろ盾があることに目をつけた、裕福な町人や農民が寺院に資金を出資するようになっていきます。多額の資金で運用できることは、寺院にとっても有利なことなので、安全な運用先として寺院への資金提供は盛んに行われるようになっていきました。しかし、多額の資金を運用するようになると寺院側の手に余るようになったようで、実際の運用を町人が営む専門業者に外注する寺も出てきたようです。また、債権回収を保証してくれるという強みをより活かした形で、幕府が行う金融業に出資するという形もとるようにもなっていきました。

寺院はこうして運用した利益で、お堂や境内の修復事業を行い、その他、御供物代等の経常的な経費にも充て、出資した町人や農民にも利益を分配していたそうです。

しかし、こういったある種の拝金主義にも見える、寺院のやり方に当然批判の声もあったそうです。

この辺りの話を鑑みるに、今も昔も寺院の維持にかかる一番のファクターは「堂宇伽藍の建替・修繕」であることがよく分かります。お寺然とした、整った伽藍は、参拝客を寄せるにあたっても大事な要素であったことは間違いありません。これらのやり方については、正直どうかと思う部分もありますが、どこの寺院も経営に苦労する中で、寺を維持し後世に残さなければと必死でやっていたのでしょう。

イベント興行(芝居・お笑いライブ)

江戸のお寺はエンターテイメントの最前線でもありました。大きなイベントホールのような場所が無かった時代、広く大きなスペースのある寺の境内には、当時の様々なエンタメが集まっていたそうです。


芝居小屋(歌舞伎)

境内には芝居小屋や見世物小屋もありました。特に芝居は当時の江戸随一の人気エンタメで、女性たちが歌舞伎役者に熱を上げて、その髪型や服装を真似したりするほどの圧倒的な人気を集めていたそうです。境内の芝居小屋では宮地芝居(小芝居)という期間限定の芝居小屋が作られ、小屋の規模こそ小さかったですが、大芝居と呼ばれた江戸三座(中村座・市村座・森田座)と遜色ないクオリティの芝居が行われ、多くの民衆を歓喜・熱狂させ歌舞伎ファンの裾野を広げることに一役買いました。

寄席(よせ)

そして、江戸時代の興行のもう一つの目玉といえば「寄席(よせ)」でした。お寺の境内にも寄席の小屋が設置されていました。演目は、合戦記の語りや、生態模写、手品や落語などが行われいたそうです。また、男性の芸人だけではなく女性の芸人も活躍していました。お客さんにも女性の姿が多かったそうで、芝居もそうでしたが、江戸の女性も現代の女性に負けず劣らず「推し活」に活発に励んでいたようです。

その他、芸術品の展示や外国から渡ってきた珍しい動物や、ミニ動物園や大道芸人など、境内を歩きながら、当時のあらゆるエンタメに触れることが言っても過言っではない様子だったようです。

飲食店や生活用品店

こういった人が集まる興行が行われて人が集まってくれば、その大勢の人たちに向けた周辺の商売も当然に盛り上がっていきます。
境内には水茶屋と呼ばれる今でいう喫茶店やカフェのような飲食店から生活用品店を販売するお店などが並んでいたといいます。浅草寺を例に出すと、境内にはおよそ230軒の店があり、寺の門前にも80軒ほどのお店があったという記録があります。

興行とこれらのお店、そして寺院に参拝する人たちが、相乗効果を持ってお寺の境内を盛り上げていき、そこで生計をたてていく人たちが寺院周辺の町に住むようになりエリアが盛り上がっていく様子は、想像に難しくありません。
規模の大小はあったでしょうが、江戸の多くの町はお寺を中心に生活圏が出来上がっていたことでしょう。


会いに行けるアイドル

極め付けはこちらです。
ある時期の江戸時代の町人の人口を見ると、男性の人口が女性人口の1.7〜1.8倍という調査結果があり、しかも独身者が多かったそうです。
そんな状況の中、所帯を持たない男性向けの商売が発展していったそうです。上に挙げた水茶屋も、男性客を多く獲得するために、各店が競うように美少女、いわゆる看板娘による接客スタイルをとっていきました。
可愛い店員がいる水茶屋は、自ずと話題になり多くの男性客が来店するようになっていきました。
そして、それに拍車をかけたのが浮世絵です。
人気浮世絵師に見染められた、茶屋の看板娘は浮世絵に描かれ、そこからさらに火がついて、その看板娘のいる店は大人気店に登り詰めていきました。
まさに、現代の会いに行けるアイドル状態です。

多くの人気看板娘に江戸の独身男性たちが歓喜・熱狂したのでした。


終わりに

と、江戸のお寺で行われていた意外なことというテーマで書いてきました。
驚くようなこともあったかもしれません。

現代でも、江戸時代ほどではないですが、お寺でいろいろなことが行われるようになっています。そういったお寺や僧侶に対して「やりすぎだ」などの苦言をいただくこともありますが、江戸のお寺に比べたらどれも可愛いもんです。もちろん江戸のお寺で行われていたからといって、同じことをやっても問題ないということはありません。読んでもらってわかる通り、ちょっとやり過ぎではと思わされるようなところもあります。

しかし、当時のお寺さんたちも「自分の預かったお寺を未来へ残さなければ」という強い使命感にかられていたのだと思います。その思いは、お寺を残すことは未来に向けて意義のあることである、という思いと共にあったのだと思います。

私自身も、お寺を未来に残すということを日々考えて、敷居を下げるようなことにチャレンジすることが多くあります。その思いの裏には、常に「未来に残すべき寺であり続ける」ということが確固としてないとならないと考えています。

チャラチャラしたことをやっていると見えるお寺さんや僧侶は、意外と真面目に未来を見据えてやっていることもあるということを知っていただけると幸いです。
まあ中には、「目立ちたいだけだろ!」ってヤツもいるのは否定しませんがw


参考文献『大江戸お寺繁昌記』安藤優一郎
今回の記事の内容について詳しく知りたい方は、こちらの本を読んでみてください。


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