④母を思い出す【最後の3ヶ月】

 闘病生活は5年近くに及んだ。
少し良くなってはまた体調が悪くなったり、体調が悪い為抗がん剤治療を休んだり…
それでも僕の前では一切辛そうな表情を見せなかった。
しかし、それは突然にきた。

 2017年1月初旬、トイレから母の助け声がした。
駆けつけると母は便座に座ったまま頭を壁につけ寄りかかっていた。
突然、平衡感覚を失ってしまったようだった。
とりあえず一回ベットに戻し、そのまま救急車を呼んだ。

 かかりつけの大学病院に運ばれるとそのまま検査入院になった。
心配ではあったが、その時はまだ大丈夫だろうと考えていた。
一夜明けて僕はまた母の病室を訪ねた。
昨日とは打って変わり母親はいつも通りケロっとした表情だ。
母と談笑をしていると担当医がやってきた。
これから少し体調が戻り元気が出るまで入院してくださいねと告げられると帰り際に医者に「少し話す時間ありますか?」と言われ、隣の空いている病室で医者と看護師と僕の3人で話することになった。

 椅子に座るとそこで初めて現状況を知らされた。
「お母様の余命は後約3ヶ月です。」
がんは全身に回っているらしく、もう手の施しようがないらしい。
遂にきたか。
悲しくなる前に3ヶ月の短さに焦りを感じたのを覚えている。
「このまま入院しますか?それとも自宅に帰りますか?」と医者が言った。
僕は咄嗟に「家に帰ります。」と言った。

 言ってみたもののどうして良いかわからない。
これからの残された時間の世話などどうして良いかも分からない。
すると、医者の隣にいた看護師が口を開いた。
「介護やデイサービス等はこちらでも紹介できますのでなんでも言ってください。」
介護?デイサービス?僕はパニックになった。
何にも考えていなかったし、どういうものなのかも分かっていなかったからだ。
そこから1時間半くらい介護、デイサービスの話を詳しく聞いた。
自宅での介護ベットのリースや家庭で使う介護用のオムツなど全て何が必要か聞いた。
そして数日かけて全て用意し、介護サービスも手配し準備万端のつもりで手配した。
しばらくして母の退院日も決まった。

 退院してから母は日に日に衰えていった。
ご飯も食欲がないと段々と食べなくなってきて、たまに痰が喉に詰まって
息苦しくなる。とてもじゃないが僕にはどうする事もできなくなっていった。
2ヶ月と短い期間で母は病院に戻る事となった。

 病院に戻ってからは毎日見舞いに言った。
ある日、見舞いに行くと母が何やら足を動かしていた。
「何やってんの?痛いの?」僕は言った。
「ううん、また家戻ったら歩けるように運動してたの。」
弱々しい声で母が言った。

その会話が母との最後の会話になった。

次の日、見舞いに行くと母は呼吸がしにくくなり酸素吸入をしていた。
医者から「数日が山場だと思いますが病室に泊まって行きますか?」
僕は、何も持ってきていなかったので
「いえ、今日は帰って明日荷物を持ってきます。」と言った。

 家に帰ってしばらくすると電話がなった。
病院からだ。
母の容態が急変したからすぐ来て欲しいとの事だった。
急いで病院に父と向かう。

 病院に着くとすぐに病室へと案内されそこには母がいた。
心電図の機械が隣にあり、医者数名が周りにいた。
ゆっくりと心電図の数字が小さくなっていく。
しかし母の表情は苦しそうではなかった。

2017年3月22日21時23分 母は他界した(享年68歳)

 今だからこの出来事を書けるし、記録に残すためにも思い出しながらnoteに
書き綴ろうと思ったのだが、正直母の死後の記憶は葬式が終わるまで曖昧である。
また、大学病院の医師、看護師、職員の方々、そして介護サービスの方々には本当に感謝している。

お母さん、ありがとう。大変だったけどゆっくり休んでください。 

 

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