見出し画像

感謝の足りない大馬鹿野郎

オーストラリアでワーホリ中🇦🇺
旅人担当のズーミンです👍

※長い上に面白くないので、それでも構わないという方のみどうぞ。


ある夜の気づき

ある夜、眠れない夜。

ふと思い立ってnoteの「スキのお礼」や「コメントのお礼」などを編集していた。

毎回同じお礼が出てきたら、せっかくアクションしてくれる人だって飽きてくる。

お、新しいやつじゃん!ちゃんと手入れしてるね!と思われたいからだ。

余談だが、僕がたびたび固定記事を変えるのもその辺に理由がある。
あとは単純に、この記事読んでほしい!という思いも多分にあるけど。

話を戻して、そういったお礼には写真がつけられる。
ちょっとしたお礼の言葉を考えて、それに合う写真を探してつける。

その時は炎の写真が欲しかった。

僕はどちらかといえば一般人より炎に縁がある人だと思う。
別に消防士などではないが、キャンプや焚き火が好きだし、お世話になった愛媛のゲストハウスでは、ほぼ毎日五右衛門風呂を沸かしていた。

焚き火のワークショップにも参加したことがあるので、その辺のちょうどいい草木とライターやマッチがあれば火を育てられる。

故に、炎の写真はある程度持っている。

Googleフォトで検索すると、過去に撮った炎の写真がたくさん出てきた。

その中で僕の目に留まった一枚の写真がある。


紛れもなく僕がスマホで撮った写真だ。
場所は秋田県。時期は今年の2月。

「六郷の竹うち」という伝統的なお祭りだ。
ごうごうと燃え盛る炎を囲み、北軍と南軍が豊作を占い竹で叩きあう伝統行事だ。

この写真を見返した時、僕は思った。


「あぁ、なんて僕は恵まれていたんだ」


この写真を撮れたこともそうだが、この伝統行事に観客として参加できたこと。
貴重な経験ができたこと。
その地に詳しい友人がいること。

その事実を思い出し、恵まれていたことに気づいた。


与えられた過去を振り返る

それを契機に、僕は自らの過去を振り返る。

去年、日本各地で色々な人に出会えたこと。
可愛がってもらい、イベントに参加したり名所に連れて行ったりしてもらったこと。

去年だけじゃない。
色々なイベントに参加して貴重な経験をさせてもらった。

社会人として仕事で同じ部署だった人たちも、3社全てほとんど顔と名前を覚えている。

彼らもまた、僕を気にかけてくれた優しい人たちだった。

以前記事にしたOだってそうだ。
彼からは色々なことを学んだ。

その中の一つに、彼の推薦図書として
『世界は「贈与」でできている』というものがある。

当時彼に陶酔していた僕はすぐに読んだ。

が、悲しきかな、内容はほとんど覚えていない。

故に改めて読み始めた。


***


感謝の気持ちを持つことは大切だ。
だがそれを維持し続けるのが難しい。

以前、愛媛のゲストハウスを卒業する際、僕は管理人に訊ねた。

「本当に良くしていただいてありがとうございました。どうやってこの恩を返せばいいですか?」
「次の人に送って行ったらいいと思うよ」

恩送り。なるほどと思った。
以前から名前は知っていた。いい言葉だと思った。

だがしかし、現在振り返ってそれができているか。
否、できていないだろう。

目の前の人に優しくすることができない。

つまり僕は、贈与の価値や恩送りや感謝することを、知識としてしか知らなかったのだ。

知ってはいるが体得できていない。実践できていない。
それはタチの悪いものだ。


***


話は変わるが、アダム・グラントの『GIVE & TAKE』という本を読んだことがある。これもOに勧められた本だ。

曰く、世の中にはギバー・マッチャー・テイカーの3種類の人間がいる。

ギバーは「人に惜しみなく与える人」。
マッチャーは「損得のバランスを考える人」。
テイカーは「真っ先に自分の利益を優先させる人」。

大半の人はマッチャーに属するらしいが、この本を読んだ時、僕は自分を「テイカー寄りのマッチャーだな」と思った。

思い返せば小学生の頃、塾で友達が持ってきたおやつを欲しがるものの、僕がおやつを持って行ったことはない。
つまり典型的な「くれくれ」タイプの人間だった。さもしいやつだ。

3つ子の魂100まで、というが、根本的にはそれは変わっていないのかもしれない。

例えば何かを誰かにしたとして、「ありがとう」と言われるだけでは満足できない時がある。
「え、それだけ?もっとあるでしょ?」と思ったりもするのだ。
そして「コイツに何かするのはもうやめよう」となるのだ。

そしてだからこそ現状に不満があるのかもしれない。
場所を変えてみても「思っていたのと違う」「俺のやったことと釣り合ってない」「働いてるんだから対価は当然だよね」などと思っている。なんと傲慢なやつか。


満たされない理由

一枚の写真からそこまで思い至った時、「ああ、だからなのか。」と思った。

現状に不満があって、SNSで誰かを見て卑屈になって、行動もしなければ人と会ってもマイナスの言葉が出てくる。

自分の理想と開きがあって、変わりたいと思いながらも変えられなくてイライラして、自分と他人を責める。
これは自分から与えず、他人からもらおうとばかりしていたからなんじゃないか。

これじゃあ旅に出たって、苛立ちは変わらない。
旅をどれだけ充実させられるかは、ひとえに自分の心持ちにかかっているのだ。

こんなやつと関わり合いになるのは正直ゴメンだ。

前述の『GIVE & TAKE』でも、いい組織を作りたいならテイカーを排除しろとあった。

そりゃそうだ、テイカーが足を引っ張った結果、マッチャーがテイカーになったらかなわない。

なお、余談だがギバー、マッチャー、テイカーの中で最も成功するのはギバーである。
が、最も失敗するのもギバーである。

詳しくは本書を読んでほしいが、簡単にいえば失敗するギバーは「燃え尽き症候群」に陥る。
成功するギバーは「Win-Win」を作るのがうまい。


故に僕はテイカーを脱しギバーになりたい。
そう思い『GIVE & TAKE』を読んでいたのだが、当時僕の納得できる答えはその本に書いてなかったように思う。

改めて読み返してみたいなあ。
こういう時電子書籍で買っておけば良かったと後悔する。


なのでまず、どうしたらギバーになれるのかを考えてみる。
その上で実践可能な具体的方法を落とし込み、仕組み化するのがいいのだろう。

2023年8月31日





1か月が経って

この下書きを書いてから1ヶ月近くが経つ。
どうしたらギバーになれるのかを考えた時、一つの案が浮かんだ。

それは「目の前の人が喜ぶことを考える」

そしてこれが難しい。

相手のために良かれと思ってやったことも、相手にとってはどちらでもいいことは多いし、悪ければありがた迷惑にもなりうる。

手っ取り早いのは直接聞くことだが、あまりそれをしすぎてもやんわりと断られたり警戒されたりしかねない。

やはり、相手をよく観察して相手の立場に立つことだろう。決して自己満足にならないように、見返りを求めずに。


ギバーを目指した実験結果

また、下書きを書いてから今に至るまで、ギバーになりたくてやってみたことはいくつかある。
これを書いてしまう時点でダサいのだが、これもある種の実験ということで書いてみる。
・知人のクラウドファンディング(クラファン)に寄付する
・シェアハウスの食器を率先して片付ける
・気づいた面倒ごとは引き受ける
・余分に仕事をして同僚の負担を減らす

それぞれについて、やってみた結果や思ったことを書いてみる。

・知人のクラファンに寄付する

ギバーからすればやって当然のことかもしれないが、最初にこれを目にしたとき、僕は寄付する気などさらさらなかった。

そもそも大して親しくないし、見返りも欲しくはないし、本音を言えばむしろ(成功するな)と思っていたくらいだ。

だがしかし、それでは自分が変わることはない。
そう思い一番高い金額を寄付して、見返りの宛先を友人宅にした。
僕のこの寄付で「クラファンをした本人」「見返りの生産者」「友人」の三方良しとなる。

貢献度としてはかなり高いほうだろう。自己満レベルとしても高いはずだ。

しばらくすると「クラファンありがとうございます。」という旨の形式的なメールが来た。どうやら僕のことを覚えていないのか把握していないのか、特別感はない。正直、残念だなという思いが強まった。

見返りを求めているこの時点でやはり僕はギバーではないのだが、そのクラファンが成功したことを知ってもなお、うれしいとは思わなかった。

結果としてはいろいろな人に還元できているものの、どうやらこのギブは僕にとってそこまで気持ちよくないようだ。


・シェアハウスの食器を率先して片づける

「目の前の人が喜ぶことを考え」た結果、まずはシェアメイトにギブしてみようと思い始めた。
別にやる必要はないし、誰かが洗って乾かしてあるものをもとの位置に戻すだけなのだが、これが意外と続いている。

別にものすごく感謝されたわけではない。
代わりに僕の分を片づけてもらっているという感じもあまりない。

シェアメイトとはタスマニア旅行で仲良くなったが、その前も後もみんな忙しく、会う時間はほとんどない。

そして旅行の前も後も、食器の片づけはなぜだか続いている。
心のどこかに、(快適な住空間をありがとう)という気持ちがあるのだろう。

そういえば、これを始めたくらいから、ほかの言動でもシェアメイトを気にかけるようになり、関係が改善されたとは思う。

それにしても、なぜ抵抗がないのか、もう少し分析する必要がありそうだ。


・気づいた面倒ごとは引き受ける

実はこれは、自分がかつて友人にしてもらったことがある。
友人が「この予約面倒だから俺がやっとくよ」とサラッと言ってくれたことが、何年経っても印象に残っているのだ。

僕がこの1か月でやったのは、タスマニア旅行の際のレンタカーの予約や全体の費用の精算など。

別にわざわざ書くまでもない程度のことだが、感謝はしてもらえた。
それだけ?と思ったことは言ってないけど。

また余談だが、僕は友達とドライブに行くとき、運転してもらった場合はガソリン代はすべて僕が出すか、いらないと言われれば飲み物をおごるなどするようにしている。
いくら運転が好きと言われても、運転してもらっていることには変わりないのだ。

ま、自分がやるのはいいけど他人に求めるのはカッコ悪いわな。


・余分に仕事をして同僚の負担を減らす

僕の仕事は市役所の清掃。僕の仕事量は少なくていつも時間が余るので、毎回ほかの同僚の手助けをする。
手助けをしたところで時間は余るのだが、それでもサボることはしない。

別に誰かに見られているわけでもないので、サボろうと思えばいくらでもサボれる。それでも、「何かできることはない?」とよく同僚に聞く。
そのおかげかはわからないが、結構仲がいいとは思う。

一方で、同僚の中には明らかなテイカーも存在している。
そしてやはり、テイカーはテイカーを嫌う。
お互いが自分の利益を真っ先に考えるからだ。

これ以上書くとただの愚痴になるので割愛するが、きっとお天道様は見ている。と信じるしかないのだろう。
幸いにもほかの同僚は感謝してくれるので、よっぽど疲れているとき以外は今後も貢献し続ける。


感謝の足りない大馬鹿野郎

ほかにも、この1か月は感謝にまつわる言動や情報に敏感になっていた。
例えば以前紹介した「墓場のラジオ」でのとあるエピソードで、「ありがとう」の反対の言葉を聞いて考えさせられた。
友人の何気ない行動も真似できる部分があったし、自分自身に感謝することの大切さもあるのでは?と思ったりもした。

が、一方で僕自身のポッドキャストの相方から、「ありがとうって言えばいいと思ってません?行動が足りてないんですよ」と言われた。

感謝を意識しながら行動していたはずなのに、1番身近な存在から言われたのは結構グサッときた。

しかも彼の言わんとすることもとても良く理解できる。なぜなら他者に対して全く同じことを思ったことがあるからだ。

原因はコミュニケーション不足にあると感じた。
彼が求めていることを汲み取れていなかった部分があった。

全くもって、感謝というものは実に奥が深い。
調べてないけどきっと「感謝学」みたいなものもあると思う。

余談だが、上述した『世界は贈与でできている』を読むと、僕が求めていたこととは少し違った文脈の話をしていた。
いわゆるギバーの考えではなく、アンサングヒーローの考えに近い。

確かに立派な考え方なのだが、ちょっと高尚すぎるというか、現実味の感じにくい結論だなと思った。

一方で、僕が感じた問題点を見事に指摘した箇所もあった。

周囲に贈与的な人がおらず、また自分自身が贈与主体でない場合、僕らは簡単に孤立してしまいます。

『世界は贈与でできている』より


いずれにせよ、今後も感謝や贈与について向き合いながら生きていく。

幸いなことに、感謝が足りないという事実に気づく前よりも、気づいた今のほうが、いくらか気持ちに余裕ができているような気がする。

まずは、いつも読んでくださっている皆さんに感謝を。
そしてそれを示すために行動することを肝に銘じたい。


長文・駄文失礼いたしました。
皆さんが良い一日を過ごされることを願っています。



この記事が参加している募集

最近の学び

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?