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なんでもない夜を超えるためには努力が必要だった

特に夏の日の夜。妙にうつうつとする。

暑さや息苦しさに悶えていると、それまで気にならなかったこと── たとえば、秒針の刻む音や口の中に溜まる酸っぱい唾液の味──によって、さらに頭は覚醒していく。

でも、休まないと明日は来てしまうから……目だけは閉じた。不幸の殻から出ることのできない自分を哀れんだり呪ったりしながら、必死に眠りにつこうとした。

「それは、努力するものではないんだけどね」と、先生は私に言った。先生の目の中に映る歪な顔の歪な唇が揺れる。「じゃ、どうすればいいの」
すると先生は、努力の代わりに魔法をくれた。

それを口に含む。水を取りに行くのが面倒だったから、奥歯で噛んだ。舌に密着する苦味ごと、舌を噛んで出した唾液で流し込む。目を瞑る。すると、するする糸を引くみたいに、ありがたい眠気に誘われた。体が空気よりすこし重い気体になって溶けていく。

名前がほしい。とっておきの、綺麗な名前がほしい。簡単に私のこと、孤独だとか、一人ぼっちだとか言わないでほしい。

「わがまま」

君はプカプカと、私の脳みその中を浮き輪で浮いている。

「君は、孤独で一人ぼっち。さみしいさみしい一人ぼっち。きっと、一生、抜け出せないよ。取り巻くさまざまなものたちが逃がさないよ。」

まるで海だね。たどり着ける大陸の見当たらない大海原。私の船は路頭に迷って、床は浸水し始めている。「今日で終わりにしよう。もう随分耐えたよ。」

船はいつまでも沈まない。沈みそうで沈まない。沈ませてくれない。いっそのこと沈めてくれたほうが楽になれるのに。私の息の根はとまり、胸の鼓動がやみ、身は溶けて骨だけになってひとりきり、海底に堕ちる。素敵じゃない?もう孤独に苦しまなくて済むし。

「望んで孤独になったくせにね」

そうだよ。私が望んだんだ。私はいま、手に入れたかった暮らしや未来のなかにいる。

ただ期待しすぎていたのだ。少なからず、私はその暮らしや未来で、無条件に幸せになれると思っていた。さまざまなしがらみから解放され、のびのびと根を生やして太陽の方向に伸びていけるのだと、眩しさを鬱陶しむくらいに世界に愛されることができるのだと、そう思っていた。(だから、なんとか自分のかたちを忘れずにいることができた。)

でも、神さまは冷たい。苦しいひとはずっと苦しいまま。幸せなひとはずっと幸せなまま。神さまは見て見ぬ振りをする。人間とおんなじ。
ごめんね、神さまを悪くいってるわけじゃないよ。当たり前の話なの。社会とうまくやっていくためには、心得なければいけないことなの。

どんどん、どんどんと、忘れたい記憶が、背中のあたりをくすぐってくる。弄ぶような手つきで、左心房と右心房あいだの、柔らかいところをつついてくる。

きっと、未来のいつか、私は振り返ってしまうだろう。自分の生きてきた航路を省みて、その青さや塩辛さをなんどでも思い出すんだ。そのとき、未来に希望はもてるだろうか。自分に期待できるだろうか。



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