「イーゴリ公の日蝕」
12世紀、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)
「韃靼人の踊り」という曲でも有名な、オペラ「イーゴリ公」の主人公、
イーゴリ・スヴャトスラヴィチ。
イーゴリ公の騎馬民族への遠征を記した「イーゴリ公軍記」には、
戦いの最中、日食に遭遇したと記されており、
オペラになるほど有名な人物にとって
その日の日食チャートには何が現れ、一体どんな意味を持ったのか?
そんな好奇心からホロスコープチャートを読んでみるべく、
2022年6月13日に心理占星家の雨森亜子さんと共に
twitter spaceにて行った放送のまとめです。
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イーゴリ公は1151年4月3日、
現・ウクライナ北部のノヴゴロド=シヴェルスキー生まれ。
チャートは時間が分かっている内側が日食図、
時刻不明の外側がイーゴリのネイタルです。
亜子さんのチャート読みによると、
そんな人物と読んでいただきました!
イーゴリ公の生まれた1151年ごろ、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)はキエフ大公を中心とした諸公国の連合のような国で、
現代のウクライナ・ベラルーシ・ロシアのヨーロッパ側・ポーランド東部などにまたがり、ウクライナ南部には東から来た「ポロヴェツ人」という遊牧騎馬民族が住んでいました。
ポロヴェツ人はカザフスタンからウクライナにかけての広大な草原に住んでおり、部族ごとにまとまってはいるものの統一された国家という感じではありませんでした。
彼らは度々ルーシの領域内にも略奪に訪れ、しばしば追い払われていましたが、ルーシはルーシで、首都であり全ルーシの長である「キエフ大公位」、バルト海の交易で栄えていたエストニアやフィンランドに近いロシアの街の長「ノヴゴロド公位」、ヴォルガ川の交易で栄えたモスクワ地方の長「ウラジミル公位」など、有力な公国の統治権を巡り内紛を繰り返していました。
ルーシの諸侯たちは、援軍としてポロヴェツ人の各部族を呼ぶこともよくあり、昨日の敵は今日の友、逆もまた然りが日常茶飯事でした。
さて、イーゴリは3兄弟の次男で、13歳の時にルーシ諸侯の一人であった父が死去。18歳でウラジミル公に従軍し、キエフ大公との争いに参加。
そしてウクライナ西部リヴィウ地方を治めるガーリチ公の娘と結婚し、長男誕生。のち4人の子供をもうけます。
20歳の時に、オペラにも出てくるポロヴェツのハン「コンチャックハン」がルーシを襲い、イーゴリはこれを撃退し凱旋。
キエフ大公に勝利者として迎え入れられました。
20代はキエフ大公位をめぐる戦いや、ウラジミル公家の内紛に参加。
30歳ではキエフ大公一門とノヴゴロド公一門の大規模な内戦に参加。
この戦いで、イーゴリはポロヴェツのコンチャックハンからも援軍を得て進軍し、キエフ大公はキエフを捨てて退却。
ノヴゴロド公はポロヴェツ軍を前線に配置しようとしたが、イーゴリの軍才を買っていたポロヴェツは、イーゴリ軍と共に戦うことを望んだ。
この戦いでイーゴリたちは最終的にはキエフ大公に敗れ、コンチャックハンは兄弟を失い、2人の息子を捕虜に取られる大敗北であったたが、イーゴリとコンチャックハンは同じ船に乗ってドニエプル川を下って逃げた。
この頃の同盟により、イーゴリの長男とコンチャックハンの娘の結婚が取り決められたとされる。(オペラではもっと後)
1184年春、33歳のイーゴリはキエフ大公の組織するポロヴェツへの遠征軍の大将として参戦し、勝利。
夏にはルーシ諸侯は別のポロヴェツ部族への遠征を組織し、多くの捕虜を得たが、イーゴリは領地が戦場から遠すぎるという理由で参加せず、代わりに領地付近を遊牧していた部族を単独で攻撃し、多くの戦利品を得た。
(単独行動は牡羊座っぽいですね!)
さて、運命の1185年。3月にコンチャックハンがルーシを攻撃したが、南ルーシ諸侯に撃退された。
4月にはキエフ大公の軍がポロヴェツに対して小規模な勝利を得たが、イーゴリには召集令状が届いたのが遅く、かつ悪天候のため大公の連合軍に合流できなかった。
そこでイーゴリは弟や甥を含む家臣全てからなる5部隊を引き連れて、4月23日聖グレゴリウスの祝日に単独で出撃した。(また単独で・・w)
1185年5月1日、イーゴリ軍はウクライナ東部のドネツ川を渡河するにあたり、日食を目撃することとなった。
イーゴリは家臣に向かい「汝らは、あの印が何であるかわかるか?!」と
呼びかけた。
家臣らは、「公よ!あのしるしは良きことの前触れではない!」と語った。
するとイーゴリは「神の秘密は誰も知らない。神が我らに何をなすか、見ようではないか!」と語り、遠征を続行した。
ということで、これがその日食図です。
内側がイーゴリが日食を見たとされるウクライナのドネツク地方で、
皆既日食ちょうどぴったりの時間のチャートです。
この時は完全な皆既日食で、午後3時53分。
5月のウクライナの日の入りは夜8時近いので、この日食は誰の目にも明らかに真っ暗になったと考えられます。
亜子さんには、
と読んでいただきました!
さてイーゴリ御一行は、2日間弟を待ち、合流するとポロヴェツを目指した。
斥候によるとポロヴェツはすでに戦いの準備を整えているとのこと。
斥候は、1, 進撃の速度を速めてさっさと進軍する、2, 諦めて帰る、かを選ぶよう提案。
イーゴリは「戦わずして帰るのは恥!」と、夜に入っても行軍を続けるよう命じる。
5/10 朝にイーゴリ軍は河畔でポロヴェツ軍と遭遇。
ポロヴェツは川越しに矢を射かけると退却し、ルーシ軍が川を渡り追撃すると総崩れとなった。
イーゴリの甥と長男は逃げ遅れたポロヴェツ人を追い、大いに打ち破り、
捕虜と多くの戦利品を獲得した!
その日、ポロヴェツからの反撃はなかったが、イーゴリは敵が大軍であることを認め、作戦会議を開くと退却を主張した。
「今日出会った全てが、彼らの集めた全軍だろうか?今夜じゅう夜を徹してルーシへ帰還すべきだ。でなければ明日の朝追いつかれてしまうであろう。」
しかし、イーゴリの甥は部隊を消耗させており、撤退論に反対した。
「我が軍の馬は力が尽きている。もし今出発したならば私は途中で脱落するであろう。」
弟も、甥の意見を支持した。
イーゴリはそれ以上自らの意見に固執することなく、部隊はそのまま野営に入った。
そして、
翌朝5/11、目が覚めるとルーシ軍は
ポロヴェツの軍勢によって完全に包囲されていたのだった。。。
ポロヴェツ軍は夜のうちに大規模な増援を受けていた。
イーゴリは「我らはポロヴェツ全土を相手にすることになってしまった!」と叫んだ。
ここでイーゴリ軍と対峙したのは20年前にイーゴリの兄によって家族を捕虜にされたグザーハン、そしてコンチャックハンであった。
イーゴリが軍を起こした当初、コンチャックハンは南ルーシ諸侯との争いに手を焼いており、イーゴリの遠征には不介入であろうと目論んでいた。
しかし、グザーハンやドネツ川沿いのポロヴェツ部族はコンチャックハンと同盟を結んでいたのだった。
戦いは一昼夜続き、12日の昼、
なんとイーゴリもポロヴェツの捕虜となってしまったのだ!
ルーシの部隊も包囲を突破できず、たった15人の将兵が逃げられただけで、残りは全て戦死または捕虜となった。
イーゴリの弟や息子や甥も捕虜となったが、コンチャックハンは娘婿の父、すなわちイーゴリが負傷していたため、自らの庇護下の宿営に連れて帰った。
ということで、この捕虜になった日に、イーゴリの太陽にオポジションの位置に食の後の月が巡ってきます。火星もこの12日間でノードを通過します。
グザーハンは守備力の低下したイーゴリの領地の攻撃を計画したが、コンチャックハンはそれを望まず、グザーハンにキエフを攻撃するよう提案。
しかしルーシ側の反撃によって占領することはできず、住民を捕虜にしただけで草原へ帰っていった。
その間イーゴリはコンチャックハンの宿営地で名誉ある捕虜というべき生活を送っており、ポロヴェツ人に敬意を払われて数人の見張りをつけるだけで自由に鷹狩りなどを行なっていた。
ある日ポロヴェツ人だがキリスト教徒の見張りが、イーゴリに脱走を進め、手助けを申し出た。
しばらくためらった後にイーゴリはこの提案を受け入れる。
ある晩、他の見張りたちが馬乳酒で酒盛りをしてたところを、密かに脱走し、用意してもらった馬で川を渡ると、2人で草原を逃走した。
2人は馬を乗り潰してしまい、最後は徒歩であったが、11日後にルーシの街ドネツクへたどり着いた。
(この提案されるとしばらくためらうところが水星魚っぽい!息子も甥も置いて単独脱走するところが牡羊っぽいと盛り上がりました。)
イーゴリは自らの領地に帰還すると、キエフ大公の元を訪れ、予測されるポロヴェツ人の再襲撃への援軍の約束を取り付けた。
ポロヴェツ陣営に捕虜として残っていた息子は、妻であるコンチャックハンの娘と赤子を伴い3年後にルーシへ帰還。
ちょうどこの頃中世ロシア文学の最高傑作と言われる「イーゴリ公軍記」が誰かの手で記される。
1191年、イーゴリはポロヴェツに再遠征し、多数の馬と家畜を捕らえて帰った。その年の二度目の遠征では6部隊を率いて行ったが、ポロヴェツは事前に察知し、大軍を集めて布陣していた。
イーゴリは今度こそ、夜のうちに撤退する決断を下した。(日食の時の失敗から6年後ですね)
1198年イーゴリは一族の年長者としてウクライナ北東部のチェルニゴフ公となり、4年後の1204年に51歳で亡くなった。
イーゴリは軍才のある指揮官、勇敢な戦士であった。
個人的な野心に駆られた行動も見られたが、ルーシの年長制を遵守し、
自分が所有権を持たない公国を侵そうとはしなかった。
これは一族の中で争っていた当時としては稀有な美徳である。
イーゴリ公の物語は同時代の人にも、日食と脱走によって宇宙的なカタストロフの象徴として、また捕虜生活からの帰還を復活と救済のシンボルとして神話的なインパクトを与えた。
これはキリスト教的に見ても神からのメッセージである日食を無視した罪に対する罰(捕虜)そして赦し(解放)という物語構造でもある。
「イーゴリ公軍記」は世紀を超えて愛読され、1880年代ボロディンによってオペラに仕立てられた。
このオペラは今日もなお、世界各地で上演されている。
参考文献「中世ロシアの政治と心性」A.A.ゴルスキー著/宮野裕訳(刀水書房)
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イーゴリ公は土の時代の最後の方の人物ですが、風の時代の人物のチャートも読んでみたいと思う方はぜひ、読み会へのご参加、またはオンデマンド配信をご覧ください!noteにて販売しております。
(第7回の、ルーシの風の時代の人物の公開はしばらくお待ちください)
亜子さんは個人セッションもやっておりますので、例えば日食が自分の天体に絡んでるタイミングなども、ぜひ聞いてみてください。
それでは、お聞きいただいた皆様、お読みくださった皆様、ありがとうございました!
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