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春は一時間


「髪、色綺麗だね」
「ほんと?ありがとう」
はしゃいだ声に同じような声で返し、高野涼香は彼女から目をそらす。春のこんなやり取りは、正直面倒くさい。
大学に入学してすぐは、どの授業でもオリエンテーションのようなものが行われた。90分よりも早く済んでしまうことが多く、この教室でも30分の空き時間を持て余した一年生が固まりつつ散らばっていた。

「昼、みんなで食べよ!」
誰かの声にうんざりとする。もう、今日は一人になりたい。でも、この場を抜け出すとなると何か理由が必要だ。
「ねえ、名前何だっけ」
高い位置からの声に振り返ると、派手な印象の男が涼香を見つめていた。いかにも輪の中心にいるようなタイプに、涼香は警戒する。しかし、よく見ると、服装も髪型も決して派手なわけではない。
「高野、涼香」
「可愛い響き。涼香ちゃんも行ける?」
堂々としているのだ。涼香に話しかける様子も慣れて見える。
「そうだね」
ここで断って、帰ろうか。
「まず名前、聞いていい?」
時間稼ぎでそう尋ねると、彼のこちらを見つめる目が一瞬鋭くなり、すぐに笑みの形に変わった。
「翔吾。紺堂翔吾です」
「翔吾君ね」
「行きたくないな?」
「あー」
翔吾がにっと笑った。
「いいね。そんなことないよ、とか言われたらがっかりしたわ」
「手厳しいんだね」
「あ。よし、あっち行こ」
翔吾に促され、涼香も自然に集団から離れる。翔吾の視線の先には、賢そうな雰囲気の学生が一人で座っていた。

「よう」
「お疲れ」
「中々疲れないけどな」
「合格発表から会わなかったね」
「俺、人気者だから」
その言葉にふっと笑った彼は、翔吾の知り合いというには意外な印象の人物だった。親しげなやり取りからして、ここ最近の関係ではないのだろう。
肌の色が白い彼は、自然な仕草で涼香と目を合わせて微笑んだ。
「はじめまして、だね。西山涼です」
「西山涼君。高野涼香です。字は涼しいなんだけど、」
「同じだ。俺は涼しいの一文字」
似合う、と思った。爽やかというよりは、落ち着いた涼しい印象。
「ここは知り合い?」
さっきまでの会話と違い、本当に興味があった。
「うん。小学校が一緒で、会うのはそれ以来」
「お前あんまり変わってないな」
変わらないんだろうな。何となくそう思った。
「それはひどくない?」
「褒めてる褒めてる。俺とか、あんなことこんなことやっちゃって」
笑うと、涼の白い頬にえくぼが浮かび上がった。

「飯、行く?」
翔吾の誘いに、涼が首を振る。
「行かない。この後、用事がある」
「ふうん。俺も涼香ちゃんもあっちと戯れるのが嫌になってさ、少人数でどうよと思ったけど」
意外に思い、涼香は不思議な気持ちになる。てっきり、翔吾は大人数の中心で楽しんでいたいのだと思っていた。
「ああ、それなら。じゃあ、まだ時間あるし」
「涼を向こうに誘うほど無神経じゃないだろ、俺」
よかった。言葉を交わして数分だが、心地の良い二人だった。
「今行けば、学食混んでないな」
立ち上がった涼と3人で歩き出すと、涼香たちが先程までいた集団の中から声がかかる。
「翔吾ー、行くー?」
「ああ、今日」
「仕切ってー!」
何人かが翔吾を呼ぶ。この雰囲気は、一番厄介だ。彼らには、本当に悪意がない。
「ごめん、俺向こういってくる」
「うん、分かった」
「人気者も苦労が多いね」
からかうように労った涼を、翔吾が軽く小突いた。
「今更。涼香ちゃん、こいつ面倒な奴じゃないから、せっかくだし二人で飯行ってやって」
一人みたいだし、と笑う。
「そうする。いってらっしゃい」
翔吾が去っていくと、涼が歩き出した。
「さっきのは褒めたのかな」
「さっきの?」
「面倒じゃないって」
「褒めてるよー。お墨付きって感じ」
建物の外に出ると日差しが暑いくらいだったが、風が吹くとまだ寒かった。


予想通り、学食の人気は少なく、涼香たちは向かい合って話しやすい席に座った。涼香は生姜焼きのA定食、涼は焼き魚のB定食を選んだ。
「私、外でわざわざ魚を選ぶことないな。好きなんだけどね」
「おいしいよ」
小さく笑った涼が、魚に箸を入れる。嫌味に聞こえなかっただろうか。
「確かに、B定食って言うほど人気はなさそうだね」
涼は大人なのだろう。よく話すわけでもないが、先程から会話に困ることはなかったし、恐らく頭の回転が速く柔軟だ。涼香も所謂「頭がいい」側だという自覚はあるが、涼のような優しさは持っていなかった。
「翔吾と話したのはさっきが初めて?」
「うん、それまでも目立っていて認識はしてたけどね。そうしたら話しかけるのもちょっとね」
「どう、彼」
同級生に対して「彼」と呼んで違和感がないのは、涼の才能だ。どう、というのも深い意味は感じられなかった。
「思ったよりも、頭良さそう」
「ふふ、頭良さそうか」
「ちゃらちゃらしてそうでしていなくて、よく気が付く」
「うん。だからああやって慕われやすい」
「小学生のときもそうだった?」
「うん、変わってない」
何かを思い出したのか、涼がククっと笑い、箸を置いて水の入ったコップを手に取った。
「外で遊ぶときの場所取りを率先してするタイプ」
「ああー、イメージできる」
その頃から同級生を気にして動いていたのだとしたら、翔吾は相当面倒見がいい。
「かっこよかったな」
「涼君は翔吾君と一緒に遊んだりした?」
んー、と呟いた涼が、コップをテーブルに置いた。緩く結んだ手がテーブルに残った。
「俺はね、そういう翔吾を遠くから見てたタイプ」
どっちともつかない言い方だ。憧れか、嫉妬か。
「どんな子と仲が良かったの」
涼香の質問も曖昧になる。
「どうだろ、翔吾かな」

今になって初めて、二人の間に沈黙が訪れる。だけど、気まずいことはなかった。ただ、何と言えばいいのか分からなかった。
「ああ、ごめんね涼香ちゃん」
声を明るくした涼がにっこりと笑う。
「変な意味も事情もないよ。言い方が悪かった」
「うん」
「俺ね、ずっと身体が弱くて、よく学校休んでたからみんなと薄く仲が良かったの。翔吾は、あれ、そんなに話していたわけじゃなかったか」
「そうなの?」
「一回、いい昼休みがあって、その印象が強いのかも」
「気が合うんじゃない?」
「そう思う」
いい昼休みの話はもっと聞いていいのだろうか。迷う涼香の顔をちらっと見た涼が、苦笑して味噌汁を口に運んだ。
「翔吾は頼りになるよ」
「頼りに、しておく」
翔吾に群がる一人にはなれそうにもないが、二人や何人かで話すのなら、翔吾はきっと頼りになるのだろうし、涼香も彼を頼りにする気がした。
ふと周囲に気を向けると、食堂が騒がしくなりつつあった。午前中の授業が終わったのだ。

「その髪、綺麗だね」
澄んだ視線が涼香の顔のあたりに向けられていた。教室で誰かに褒められたのと何も変わらないのに、全く違う言葉に感じられた。
「色?」
「うん、いい色。よく分からないんだけど。似合ってるし」
「本当?すっごい時間をかけて選んだからね。うん、ありがとう」
そう言う涼の髪の毛は、染めた様子のない色をしていた。光が当たると茶色く見えるようで、色素の薄いイメージにカラーをした女の子よりも、涼の方が柔らかい印象に見える。
壁の時計に目を向けた涼が、ごちそうさま、と手を合わせた。
「そろそろ出ないと」
涼香はいつでも立ち上がる準備ができていた。普段からよく食べる涼香は、涼が完食する何分も前に生姜焼き定食を食べ終えていた。


バスに乗るという涼に付き合い、涼香もバス停まで歩いた。
「どっち方面?」
「あっち、病院」
ああ、とか何とか返しながら、涼香は涼の言葉を思い出す。ずっと身体が弱かった。
「その、あんまり聞かない方がいい?私は正直、知りたい」
涼が軽く目を見開いた。
「そんなに気持ちよく言われたら、全然平気」
「うん、遠慮が苦手で」
「いい個性」「心臓だよ」
心臓?線が細くて色が白いが、そこまで身体が悪いようには見えない。しかし、心臓と聞くと不安な気持ちになる。
「ずっと悪いの?」
「うん、特別何かあったことはないけどね。今日も定期的に診てもらうだけ。ずっと大学病院だから、今までよりも近くなった」
「そっか」

バス停で一、二分待つと大学病院行きのバスが停まった。
「ありがとうね。じゃあ、気を付けて」
「またね。そちらこそ、気を付けてね」
互いに笑って手を振ると、涼はリュックから定期券を出しながらバスに乗り込んだ。
バスが去るのを見送ると、涼香は自宅の方向を向いて歩きだした。

涼香ちゃん、と呼ばれた気がする。立ち止まって振り返ってみるが、知った顔はどこにもない。
「涼香ちゃん、待って!」
先程より近くなった声は、大学を出たあたりの歩道にあった。
「翔吾君、どうして」
「あいつら、あのままどっか行くって言うから抜けてきた」
「じゃなくて」
「涼は?」
何だ、涼か。
「あんな大きい声で名前呼ばないでよ」
「ごめんごめん」
「涼君、病院に行くってバスに乗ったよ」
え、と翔吾の顔が固まる。涼のことを知っている翔吾にはそれだけで分かると思っていたが、言ってはいけなかったのか。涼香は密かに動揺した。
「何、具合悪いの」
「いや。定期検診って言ってた」
あれ?
「涼君が身体良くないの、知ってたよね?」
「ああ、チビのときもそうだった。そうか、通ってんのか」
詳しいことは聞けそうにないが、翔吾は軽くショックを受けているように見えた。優しいんだろうな、と思ったし、可愛いな、と思ったりもした。
「お昼ちゃんと食べてたし、大丈夫。多分」
「飯食えねえレベルなら駆けつけるわ」
ほら、優しい。翔吾のことも、涼のことも羨ましくなった。涼香は人に冷たいところがある。
「サンキュ、じゃあな」
「うん、じゃあね」
身体の向きを変えて、今度こそ家に向かう。

まだ女の子の友だちができていないな、とぼんやりと思った。友だちの基準は分からないし、相手は涼香を友だちだと思っていることもあるだろうが、今のところ友だちだと思える顔が浮かんでこない。
女の子の友だちは面倒なところがあるが、男の子はいいな、と思う。特に、翔吾や涼のような人は、距離感が丁度いい。彼らは、長く付き合う人になれるだろうか。

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