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原稿用紙5枚の掌編小説「赤いセーター」

「還暦のお祝いに」と、妻から贈られたのは赤いセーターだった。

「ちゃんちゃんこより実用的でしょう」

 そう言って妻はセーターの袖をつまんで広げ、私の胸に当てた。

「ちょっと小さいな」と私が呟くと妻は、「メタボのお腹を引っ込めることを前提にサイズは選んだの。似合うかどうかはあなたの努力次第よ。若返りのいいチャンスかもね」と言って笑った。

 自分だって間もなく還暦になるくせに、まだまだ自分だけは若いつもりでいるらしい。

 私たち夫婦にとって赤いセーターは深い縁がある。それは遠い記憶の古ぼけた一ページではあるが、私にとって忘れられない思い出だ。きっと妻にとっても――。


 夜中に目を覚ました私は、天井板の木目をぼんやりと眺めていた。豆電球のうす暗い灯りが照らし出すその模様の一つひとつが、お化けやら怪物の顔に見えてきて思わず身震いした。隣の部屋の灯りが、閉じられた襖の隙間から漏れている。きっと母が編み物をしているのだろう。ラジオから流れる音楽のメロディーが小さく聴こえる。柱時計は十一時を過ぎていた。私は母の温もりが恋しくなり、布団を抜け出すと襖を静かに開けた。炬燵に入った母は私の顔を見て訊ねた。

「どうしたん、オシッコかい」
「眠れなくなっちゃった」と素直に私は答えた。すると母は、「そういう時は無理に眠らなくていいんだよ。ここにおいで」と言って、私を手招きした。私は母に添うように座り、両足を炬燵に入れた。間もなく母の温もりが身体に伝わってきた。

 母の手元を見ると、母は二本の長い編み棒を小刻みに動かして赤い毛糸を操っていた。編みあがりつつあるその物がセーターであることは、子供の私にも分かった。

「誰のセーター?」と私が訊くと、「おまえのセーターだよ。お父さんの分は来年まで後回し」と言って母は笑った。そして炬燵のテーブルの上にあるビニール袋からスルメイカの足を摘み出し、小さく千切って私の口に入れてくれた。父がいつも酒の肴にしているスルメイカだった。母は父に内緒で食べていたようだ。父は今晩は夜勤で家にはいない。この時間は母にとって好きな編み物に没頭できる至福の時間なのだ。

 大人には旨いらしいスルメイカだが、子供の私には硬くて噛み切れず、まるで木の根を噛んでいるようだった。すると母は自分の口で二三度噛んだものを摘み出すと、先程のように私の口に入れてくれた。私は親鳥から餌を与えられる雛のような気分だった。イカの味と相まって、母の温もりが私の口の中にも伝わってきた。

 そのあとの記憶はない。きっと私は炬燵と母の温もりに抱かれて、いつの間にか眠ってしまったのだろう。まさに至福の眠りの中に――。

「男のくせに赤いセーターなんか着てらぁ」
 
 教室に入るなり、一人のクラスメイトが私を指さして言った。その声を合図に、その場に居合わせた連中が一斉にげらげらと笑い出した。私が赤いセーターを着て登校するようになって以来、毎日こんなことが続いていた。

「赤は女の色だぞ」
「やあい、オトコオンナ」

 嘲笑がさらに沸き立った時、私の我慢は限界に達していた。私は私を笑うクラスメイトたちになりふり構わず掴みかかって行った。

 その後、なにがどうなったのか分からない。気がつくと、私は誰もいない講堂の片隅で、膝を抱えて泣いていた。体のあちこちが痛かった。私が怒りを抑えきれなかったのは、私自身が笑われたからではなく、母を侮辱されたように思えたからだ。そしてあの晩の母とのひと時を汚されたように思えてならなかった。そんな私の気持ちを分かってくれる仲間はいない。そう思うと、悔しさとともに悲しさが私の胸を溢れさせた。

 そのとき、タッタッタッと足音が近づいて来るのに気づいた。顔を上げると、目の前にクラスメイトの少女が立っていた。私の隣の席の子だった。息を切らして少女は言った。

「ここにいたんだね。早く行こうよ、授業始まるよ」

 泣き顔を見られたくなくてそっぽを向いた私に、少女は重ねて言った。

「そのセーター私は素敵だと思うよ。すごく似合ってる。お母さん編むの上手だね」

 見上げると、そこには満面の笑顔を浮かべた少女の顔があった。



 あの時の頬っぺたの赤い少女は、十数年後に私の妻となった。妻から贈られたセーターに袖を通しながら、私は無性に母に会いたくなった。今度の休みには母に会いに行こう。もちろん、この赤いセーターを着て。


                   ――完―― 

 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。少年の日のささやかな思い出をたぐり寄せながら、こんな物語を書いてみました。
 思い出とは過ぎ去ったものではなく、消え去ることのないもの・・そんな気がします。

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