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自殺とは他殺である

「自殺」。

自らを殺す。

この文字を見ると、どうにも違和感を覚えて仕方がない。

生物というのは生きているのだから、なにもなく無意味に自分を殺すなんてことはないのだ。

ではなぜ自殺するのかというと、それはその状況に追い込まれたからだという他ない。

それは人間でいえば結局のところ、パワハラ、いじめ、裏切り、圧力、戦争の自決、社会への絶望、虐待、犯罪被害者など、精神的身体的に追い詰められたものがたどり着く先が自殺なのである。

これは果たして「自殺」なのだろうか。と、私は思うのだ。

「殺人」だけが他殺ではない。

特に分かりやすいのが、いじめや過度なパワハラである。

直接的に殺人として手を下さなくとも、それが原因で自殺したとすればそれは「自殺」ではなく「他殺」になるのではないか。いや、「他殺」になるべきなのではないか。

「逃げればいい」「生きているならいくらでもやりようがある」というのはそれを経験していないものが言う言葉だろう。

今私はいじめやパワハラとは違うが、少し自殺で解決しようという思考に移ってきている。

それというのは、最終手段なのだ。

今まで手を尽くし、可能な限り行動をしてきた。しかしもうどうにもできない。現状変わらない。それをどうにかしよう、最後に一矢報いてやろう、その最終手段が自殺なのである。

つまりそれは他からの攻撃や圧力を脱するための最後の希望なのだ。

結局その「他からの圧力や攻撃」がなければ死ななかったのである。

ん?他責思考?

なんか変な声が聞こえてきたな。

では少し考えてみよう。

いじめで自殺者が出たとして、加害者がこんなことを言っている。
「俺は殺してない。あいつは自殺で死んだんだ。自殺したのはあいつなのだから、死んだのは自業自得だ。」

これは自殺者への自責思考を説いていることになる。

しかし同時に、いじめ加害者の他責思考を示している。

つまり、何が言いたいかというと、自殺した人間が「他責になるな」というのであれば、自殺に追い込んだ加害者にとって非常に都合の良い構図となるわけだ。

これは、自殺被害者を自業自得と自責を説く者は、加害者の都合の良いことを語っている。加害者の味方である。ということになる。

おかしいな。「他責になるな」と説いている人はもしかして加害者経験あり?

ありえないよね。普通に考えて。自殺に追い込んだやつが悪いに決まっているのだから。しかし残念ながら、今の日本社会では後者のようだ。

自殺しても、直接手を下していなければそこまで罪は重くならない。被害者の無念は晴れることはない。

もう一度言う。

自殺とは他殺である。

皆何らかの攻撃や圧力によって死んでいるのだ。

これは自ら進んで死んでいるのではなく、もう残る道はこれしかないという最後の手段として死んでいるのだ。

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