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2.5はブロードウェイを超えられるのか? 舞台芸術の歴史とその楽しみ方入門 3/3

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▼1.序▼2.年来楽しみ上々 ▼3.者学上々▼4.問答上々▼5.新技

6.王戯

 物語の種類は主に3つに分けられます。ストーリーを一文で伝えきれないオムニバスタイプか、長い一文で説明できるドラマタイプか、簡潔な一文に纏まる戯曲タイプです。
 舞台の特性との兼ね合いで、舞台の脚本は主にドラマタイプか戯曲タイプです。特に近年は、戯曲を分かりやすくしたドラマタイプの脚本が一般に親しまれています。戯曲は、自発的に読解しなければ、全てを知り尽くせない作りなので、前のめりに物語を読み解く習慣に不慣れな人には分かりにくく思われるのが常です。しかし、戯曲は連なりで作られた物語なので、舞台をまとめ上げるプロットとして優れています。舞台らしさとして挙げられる多くが戯曲らしさで、舞台といえば戯曲、戯曲といえばシェイクスピアと思われて、シェイクスピアは今日まで舞台の神髄と思われるに至っています。今に伝わるシェイクスピアの 37 の戯曲は、6種類の伝達で読み分けると違いをよく知れます。戯曲は、時を跨ぐ継承の伝達か、同時に共感する伝染の伝達の、どちらかで物語を分割しています。また継承/伝染には、喜びを伝える喜楽の継承/伝染と、悲しみを伝える悲哀の継承/伝染があります。さらに喜楽/悲哀│継承/伝染は、完了する場合と不完了に終わる場合で分けられます。
伝達で戯曲を読み分けると、戯曲には、伝達の切り替わりで結末が変わるゲームブックのようなドラマタイプの戯曲と、伝達が留め具になってストーリーが連なっている戯曲タイプの戯曲があります。
 ラブロマンスとして有名な「ロミオとジュリエット」は、負の感情の連鎖が正義の連鎖に切り替わる流れが主軸の物語で、結末に関わる途中の物語を省いて概要を伝えられないドラマタイプの戯曲です。
 代表的な戯曲の「ハムレット」は、タラレバに揺るがない結末までの過程の無意味さやカオスを深堀する戯曲タイプの戯曲です。父親が幽霊になって表れなければハムレットは死なずにすんだか?母親の再婚相手が違えばハムレットは葛藤せずにすんだか?オフィーリアが生きてハムレットを支えることができていたら、ハムレットは幸せな結婚をして平凡に死ねたのか?ハムレットの身に降りかかる運命が別の運命だったとしても、思い悩む質のハムレットは結局はどんな人生でも似たように生きて似たように死ぬ男です。そんなハムレットからは人生や生と死について考えさせられるので、ハムレットの物語は一言のテーマに纏まります。運命に翻弄される「マクベス」や、茫然とした伝達に狂う「オセロー」といった戯曲も、人智が及ばない出来事を伝える物語で、究極を言えばストーリーの展開には意味がない戯曲的な戯曲です。
 また戯曲に限らず伝達を気にして物語を区分すると、ドラマタイプか、戯曲タイプか、どちらでもないオムニバスタイプか、に分けることができます。
 「千夜一夜物語」や「徒然草」や「枕草子」はドラマタイプでも戯曲タイプでもないオムニバスタイプです。
 ギリシャ時代にホメロスが書いた「イーリアス」は、怒りや悲しみや喜びといった、人を突き動かす感情が、ビリヤードの玉のように人から人に伝わって、終わらない争いが大戦争に発展するドラマタイプの大作です。世界で一番長い叙事詩と言われるインドの「マハーバーラタ」も、継承や情報の伝達の成功と失敗に翻弄される人の命運が、原因と結果で書き分けられているドラマタイプの物語です。
 同じ戦争をテーマに扱った古典でも、「将門記」や「平家物語」など日本の軍記物語は、採算が合わない世の中の流れが浮き彫りになっている戯曲タイプの物語です。「曾我物語」は、亡き父の不の遺恨を兄弟が継承する話ですが、親子を結ぶ悲哀の伝達と兄弟を結びつける喜楽の伝達が表裏一体の物語で、避けられない結末に向かう悲劇に垣間見える美しさが人気の戯曲タイプの物語です。
 戯曲タイプに仕上げようとして失敗したドラマタイプの物語や、ドラマタイプに失敗したオムニバスタイプの物語などもありますが、オムニバスタイプとドラマタイプの中間の物語の「アベンジャーズ」や、ドラマタイプと戯曲タイプの中間の「スターウォーズ」など、調和がとれた物語もあります。
また世界的な名著と言われる「源氏物語」や「旧約聖書」や「ドン・キホーテ」や「収容所群島」などは、オムニバスタイプとドラマタイプと戯曲タイプの物語を完全に書き分けつつ全編を結合させています。
 物語の良し悪しは、完全に人の好みによりますが、執筆の難解度で言えば、オムニバスタイプ<ドラマタイプ<戯曲タイプで難しく、また読者が自由に物語を読み進める小説や漫画よりも、鑑賞速度を予め決めなければならない映像や舞台の脚本の方が考慮しなければならないので、ひな型に頼りがちになります。表現を追求した脚本や、内容に実のある脚本であっても、観客の鑑賞速度と噛み合わないと、映画や舞台は失敗しまうので、小説のように独創性だけでは書けません。
 筋書きは、特に重要な部分が詳細で、そうでない部分は本筋と関係ありつつも、詳細すぎてはいけませんし、物語の全てを本筋に繋げずに、物語の本筋と脇筋を書き分けなければなりません。また台詞は、近年の文章よりも、古い時代の慮る文章に寄せて作らなければなりません。この部分の機微を表現する言葉はこれだ!と直訳できる言葉にすると、拘りが表現された台詞になって、中身は薄まっています。日本語訳された海外の台詞もそうですが、海外の戯曲を日本語訳で学んだ近代の劇作家の台詞は、輸入元の台詞よりも強張った日本語にしています。言葉に敏感な人だけが感じる違和感ではなくて、戯曲を読み慣れていない人が気づく違和感です。案外小説を読む人の中に戯曲を苦手とする人が多くいるように、舞台上での言葉の応酬は一般的な言語表現ではありません。脚本の台詞は、言語に対して寛容な感性を持ち合わせた人か、或いは戯曲を書きなれた人にしか書けないので、劇作家らしさが濃く出た台詞は、舞台上に書き記したサインのように舞台の印象に残ります。作家性の強い脚本家には、あえて独自性のある台詞を脚本に入れ込む人もいますし、日常離れした言語感覚はエンターテイメントに思われて人気です。反対に既存の言葉に埋もれてしまう台詞は印象に残りにくいので、観客の集中を途切らせます。探究精神の高い劇作家だけが、普遍的な言葉で綴った戯曲に挑戦しましたが、彼らの作品は洗練され過ぎていて、観客にも難しく思われています。内容云々よりも、台詞の真実味や、役者同志の掛け合いで観客を飽きさせることができない、役者の技量試しの演目として有名です。内容を伝えようと、役者が張り切って台詞と演技を濃くすると、戯曲の意図を観客が垣間観られずに、戯曲の効果は不発して舞台の試みを失敗させます。戯曲を成功させられるのは、台詞や演技を透かせて戯曲を届けることができる役者です。さらに台詞や演技を薄く加減しながらも、舞台上で気配を漂わせて存在感を示せる役者であれば、カリスマが発揮されてスターの貫禄がでます。
 一皮も二皮も剥ける戯曲は、読み物としても脚本としても個性があります。しかし、優れた戯曲を書くことは容易ではありません。世界で一番有名な脚本家といったら、アンデルセンでしょうか。童謡作家として世界中で知られている著者も、子供向けの物語を書く前は、劇作家として失敗していました。アンデルセンは子供むけの童謡を素晴らしく上手く書きましたが、舞台の脚本を書くことに関しては向いていなかったようです。人によって向き不向きがある役割には、才能がいります。世界中の舞台で引っ張りだこの演出家は少数ですがいつの時代でもいました。しかし、世界中の言語で読まれた劇作家はシェイクスピアただ一人です。言語翻訳された戯曲の数を考えると、素晴らしい戯曲を生むには傑出した才能が必要なのでしょう。人材を募って才能を輩出するべき職種であるのなら、劇作家はもっと注目されるべきです。映画監督や分執家に比べて脚本家は、特に劇作家という職業は適正のある人材が選出される職種にしてはマイナーすぎています。

7.花集

 総合芸術と称される舞台ですが、総合が指す芸術は「空間芸術」と「時間芸術」に分けられます。
 「空間芸術」は、空間に置いて鑑賞できる芸術です。壁画、絵画、建築、彫像、オートクチュールといったアート作品や、デジタル空間におけるメタバース建築、NFT アート、デジタルファッションなどが分類されます。空間において鑑賞できない芸術は、時間の流れに沿って鑑賞する「時間芸術」に分類されます。香水や料理といった実態を留め置けない芸術や、音楽、舞台、映画、文学などが分類されます。また、視覚で観賞する「空間芸術」と「時間芸術」を合わせて「視覚芸術」に分けたりもします。
 他にも、芸術には「純粋芸術」と「応用芸術」という考えがあります。「言語芸術」で例えると、文字を使って芸術表現を追求する純文学のような、芸術性を追求するための芸術は「純粋芸術」と考えられています。芸術性を追求しない、ありのままの体験を書き綴った私小説や、娯楽性に富んだ大衆小説のような、芸術の長所が活かされている作品を「応用芸術」と考えています。
 「純粋芸術」と「応用芸術」の区分は、近年は「ハイカルチャー」と「ポップカルチャー」に変わられています。芸術を学んだ特権階級に尊ばれていた古典芸術の「ハイカルチャー」と、大衆の生活環境で生まれるアート作品の「ポップカルチャー」は、反面性を強調し合う用語です。メインカルチャーやサブカルチャーの概念が無かった一世紀前までは、芸術と言われる物は全てハイカルチャーでした。階級制度の見直しが進むにつれて、大衆の生活に根付いた「ポップカルチャー」の評価は右肩上がりに成長します。同じ時期に「ハイカルチャー」は、特権階級の失速でパトロンを失って援助が打ち切られてしまいました。もともと優勢だった「ハイカルチャー」は大衆に支援してもらえる芸術を目指して教育に絡めた布教に力を入れるようになりますが、人気では「ポップカルチャー」に負けてしまっています。しかし、関心の開きがある「ハイカルチャー」と「ポップカルチャー」にさほど違いが無いことはあまり知られていません。街が美術館と呼ばれる西洋の主要都市と並び称せるほどに、公共芸術や、商品販売のポップアップや、ストリートアートに溢れる近年の都心部は街がインスタレーションアートになっています。いわゆる体験型アートと呼ばれるインスタレーションは、アートを学び始めるのに最適と考えられている設置芸術です。そもそもアートを学ぶという発想はハイカルチャーの発想でした。体験者をアートで取り囲んで作品の世界観を知ってもらう発想も、「楽劇」が生んだ「総合芸術」の発想を応用しています。また、生活美を讃える日本のグッドデザイン賞のような、生活デザイン賞の審査基準は、人生に心地良さを求めたハイカルチャーの価値観と重なります。ポップカルチャーに新しい発見があれば、ハイカルチャーの特徴であったり、掘り返されたハイカルチャーの芸術観が、ポップカルチャーの一面と重なったり、ポップカルチャーとハイカルチャーは一般に知られるよりも似通っています。それでも、ポップカルチャー系統のインスタレーションアートには気軽さと親しみやすさを感じる一方で、ハイカルチャー系統の舞台芸術は敷居が高く思われるのは、それぞれの出処ゆえでしょうか。
パブリックなイメージでは、精神性の高い「ハイカルチャー」と比べて、「ポップカルチャー」はありのままの真実を浮き上がらせるアートと思われています。「ポップカルチャー」が内包する問題定義や時事メッセージなどが注目されるようになって、アカデミックな現場で社会を写す鏡として重宝されるようになってからは、社会の話題を代弁して芸術の看板を背負っています。時代の変化で「ハイカルチャー」を追い抜いた「ポップカルチャー」でしたが、新しい芸術観を呑み込んだ包容力の高さに注目が集まっています。
 複合的な芸術分野の懐の広さは、そのまま芸術観の高さと考えられています。芸術の英語表記 Art の語源はラテン語の Ars で、技術や知識といった意味があったり、漢語由来の「藝術」も技芸と学問を意味していたりと、芸術は学問と同じように観察されたり分析されたりしてきました。
 中国には「詩書画三絶」という有名な芸術の基準があります。詩、書、画の3つが融合した理想の芸術を極めた人は、「詩書画三絶」に達した文人(ぶんじん)と呼ばれていたそうです。文人は、詩の才能のある読書家で、文章作成能力の高い能筆な書道家です。昔の中国では、名文を書き写しながら文字や文章の書き方を覚えていたので、筆で文字を書く能力と文章を作成する能力は同義に考えられていました。文人は、高位な家柄に生まれたた指導的立場に立てる人で、「詩書画三絶」を極めた人文的教養に優れた人でした。彼らは、蘭亭曲水で知られるような、酒杯が川を流れる間に即興で詩を作る宴を催して、自然と戯れながら仲間内で集まって芸術性を磨いていました。シリコンバレーに集まった数学者達が、プログラミング仲間と職場のリフレッシュタイムに早打ちチェスに興じて演算能力を磨くのと同じでしょうか。遊びと本位が混ざった芸術からは抑揚な文化と個人の余裕が感じられますが、そうした人達の芸術観も、ワーグナーが世界中に知らしめた「総合芸術」の衝撃で揺れました。
 世界中の異文化の間に「総合芸術」が与えた衝撃は2つです。1つは、「総合芸術」が芸術分野をほぼ網羅していた衝撃です。マイクや小道具や衣装といった役者が身に着ける物は空間芸術ですし、舞や殺陣といった舞台の見所は時間芸術です。照明や大道具といった舞台機構は視覚芸術で、台詞は表現を追求する純粋芸術で、音楽は演出効果を狙う応用芸術です。能楽は代表的な日本のハイカルチャーですが、歌舞伎や戯曲やミュージカルの脚本はポップカルチャーです。舞台製作に携わるのは、セットや衣装を作る職人に、照明や音響の技術者と、脚本家や演出家や役者が合わさって、芸術を生むアーティストも網羅しています。2つめは、純正の芸術を作った衝撃です。お菓子で出来たお菓子の家のように、芸術で作られた芸術はそれ自体も芸術な純正の芸術でした。黄金で作られた街や、全てが氷で作られた宮殿のような、伝説染みた発想を形にしたワーグナーの偉業を讃える‘ワグネリアン’と呼ばれた人達の熱気を誰もが理解できました。
 ワーグナーがしたことは、優れた芸術観が組み合わさった芸術作品を押し退けて、全ての芸術を合わせて作った自分の作品こそが芸術の No,1 であると宣言することでした。芸術が何を意味するのか、甲の芸術観と乙の芸術観はどちらが優れているのか、といった芸術を巡る意見は古今東西ありましたが、ワーグナーのように理屈的に認めざるを得ない根拠を並べて No,1 を主張する人はいませんでした。ワーグナーが目指した舞台には、芸術の大家と呼ばれた芸術家の思想を超えて、間違いなく最高のレベルの芸術と提言できる裏付けがあります。日本の「2.5 次元舞台」は、そうしたワーグナーと同様の提言を 21 世紀の時代で目指せる恰好の舞台ではないでしょうか。
 ワーグナーが考えていたように、鑑賞されない芸術は良い評判になりません。舞台には観客に集中して観てもらうための工夫がいります。「楽劇」の後継のブロードウェイの演出や戯曲の効果といった舞台の様々な工夫は、観客に舞台に集中してもらうための工夫でした。「2.5 次元舞台」は、既存の舞台とは異なった観劇観で、ワーグナーが解き方の指示を残さなかった難問を既に解決させています。「2.5 次元舞台」の観客の殆どは原作の2次元世界に親しんでいるので、必要最低限の誘導と無駄を省いた表現だけで、舞台上の全てを原作と比較して理解します。「2.5 次元舞台」の火付け役「ミュージカル『テニスの王子様』」は、日本の漫画の線やコマ割りが組み合わさった表現と、客席からの見え方に合わせて表現を組み合わせる舞台の作られ方が非常に似ている発見でした。作者の個性的なワードセンスが光る漫画のキャラクターの台詞も、文章寄りの台詞よりも言葉の効果を狙った台詞の方が聞こえがよくなる舞台の台詞の傾向と合っていました。
 世界中でゲームやアニメが楽しまれる 21 世紀では、2 次元のキャラクターがポップカルチャーのアイコンです。「2.5 次元舞台」は、最新のアートをいち早く取り入れた 21 世紀生まれの舞台で、現実世界に根付かない2次元の表現を3次元で追求する新しい「総合芸術」です。非現実な2次元と、舞台の何でも飾れる特性を融合させれば、芸術分野を矛盾なく網羅した舞台を作れます。2次元原作の設定を活かして、現実では相容れない異文化を組み合わせることができますし、舞台の懐をさらに広げて新しいスタンダードを生む目星も光っています。
 沢山の芸術を収容すると、色々な方面から興味を持った人が集まって、飛び交う意見も複雑になります。そうなっても「2.5 次元舞台」は舞台の特性を活かして、多種多様な全ての観客層に満足してもらえる舞台を目指せます。異なる意見の全てを満たした舞台を作ることは不可能でも、全ての意見の長所で、それぞれの主張の短所を隠すことができれば評判は右肩上がりになります。というのも、意見には長所と短所の両方があって、両面合わせのコインの表と裏を同時に見ることができないように、どちらか片方は隠すことができるからです。終の無い意見は完璧を求める人たちが考えた不足点なので、全ての意見をキッチリ片づけると完璧を目指せます。そのためには、意見書の要求の高さと要求者の不協和に呆れて現実を見通すことも必要です。
 「2.5 次元舞台」は、2次元と3次元を行き来する未来人の感覚を先取りしています。「2.5 次元舞台」の「2.5」という数値は、3 次元の役者と 2 次元のキャラクターが共生する舞台の形式を表しています。また、3 次元の役者と 2 次元のキャラクターが合わさって生まれる 5 の奇跡を、役者とキャラクターで等しく分け合う関係性も表されています。異なる次元に生存する両者の中間地点に新しい世界を開拓する精神は、2次元と3次元が対等になる新しい時代の社会観です。
 人の価値観が変わる時代の分岐点では、時代にピタリと条件の合う芸術が短期間に研磨されて、成熟した後に更に次の時代の芸術の基盤になります。17 世紀のイギリスでは、シェイクスピアの演劇が時代を代表していました。20 世紀のアメリカでは、ブロードウェイミュージカルが時代の流れの象徴でした。21 世紀のインターネット社会では、「2.5 次元舞台」が時代の流れに合っています。

8.口伝

 舞台の歴史を古く紐解くと、確認できるもので古代ギリシャの野外演劇場、パリのオペラ座、ウィーンのコンサートホール、日本の芝居小屋、イギリスの演劇場、アメリカのブロードウェイ区、フランスのエデンシアターといった劇場が名前を残しています。どの劇場も、当時もっとも進歩的な舞台を上演していたと記されていて、今に残るエンターテイメントの原型が試されていたそうです。
 書物文献で記録を調べると、子供たちを楽しませていた影絵、五穀豊穣を願う神技のための台座、台本通りにスピーチしていた人気者の英雄、宮殿を訪れた賓客を驚かした動く星空の天井、アントニウスの五感を満たしたクレオパトラのもてなし、神の国へ近づくための音楽部隊、などに舞台の起源がほのめかされています。エンターテイメントがデジタルに移行して、舞台は最も歴史の長いデジタルエンターテイメントになりました。舞台が古典的で重厚な娯楽と思われるのは、長い舞台の歴史でも初めてのことです。
 舞台がいつ頃に人類史に登場したのか明確には分かっていませんが、舞台を上演する劇場の起源は歴史の調査資料に記されています。歴史調査によれば、固定型の劇場と移動式の劇場が古代の人々の生活跡に残されていて、どちらの起源がより古いかは分かりませんが、どちらも現状遡れる最も古い時代には既に存在していたことが判明しています。
 固定型の劇場は、大人数をいつでも収容することができますが、劇場付近の観客しか呼び込めないのが弱点です。その点、移動式の劇場は、場所を転々として沢山の観客を呼び込めますが、移動式の簡素な道具では、固定型の劇場の大規模なセットを使う公演はできません。
 旅行が人の生活に組み込まれてからは、固定型の劇場の舞台の評判が土地を超えて伝わるようになって、遠くにいる人も評判次第で劇場に呼び込めるようになりました。逆に移動式の劇場は、人の移動が盛んになると人気を落ち込ませました。旅芸人は色々な土地を移動する傍らで、行く先々で知り得た時事ニュースを他の土地に広めて回る情報屋でもあったので、小規模の村であれ大規模の都市であれ、世間の情報を得たい町人に持て囃される人気者の集団でした。旅芸人達は土地柄ごとの人の違いを熟知していたので、訪ねた土地に合わせて上演内容を上書きして公演を成功させていました。それが、人の移動が活発になると、どの土地の観客も地元民から観光客まで混ざるようになって、土地に合わせた公演で評判を得るのに苦戦します。また、大勢の人が他国を行き来するようになって、町の人は旅芸人に他国の情報を頼らなくなりました。旅芸人の不人気に伴って、移動式の劇場は作られなくなり、それまで移動式の劇場しか知らなかった人も、大都市の固定型の劇場に足を運ぶようになっていました。
 世界中の歴史資料に登場する劇場の痕跡を辿ると、劇場の商業的有用性が常に意識されていたことが分かります。歴史には赤字経営の劇場も登場しますが、強力なスポンサーが資金援助をして事無きを得ていた稀なケースです。劇場の座席チケットの売れ行きが悪ければ、存続できないのが舞台です。2000 年以上に渡って人類が舞台のチケットを買い続けて、今日も劇場は営業できています。2000 年の歴史で生まれたヒット作品も、今日の舞台を影から支えてくれています。
 古代ギリシャ時代では、3つの戯曲ジャンルが生まれて、悲劇と喜劇が今も残っています。中世のヨーロッパでは、キリスト教会の趣向に合う演目しか上演が許されませんでしたが、現代まで上演され続けている宗教劇は、クリスマスに協会が催す典礼劇くらいでしょうか。歴史資料に神話劇や宗教劇の記録が多く残っているのは、娯楽の追求に消極的な時代で知られた話と登場人物が舞台化しやすかったからでしょう。誰もが知る話しは連携にためらう間柄の人達の間でも製作の口火が良くて、検閲を逃れて上演できる数少ない題材でした。16 世紀にイタリアで生まれたコメディアンの語源である、コメディア・デラルラという仮面をつけた役者が上演する風刺劇は、社会に意見するエンターテイメントの始まりでした。少し遅れてイギリスでは、貴族も一般市民も通える大規模劇場が開場したことを切掛けに、演劇台本を執筆する劇作家が鎬を削った時代で、身分の垣根を超えて誰でも楽しめる戯曲を書くと評判だったシェイクスピアの演劇が、人の心に残る普遍の演劇として現代まで評価されています。19 世紀にルミエール兄弟が映写機を発明してからは、劇場の巨大スクリーンに映し出された映像に合わせて生演奏をする楽団のいる劇場に人が集まったりと、舞台を取り巻く環境に変化が起きました。映画を上演する映画館が、舞台を上演する劇場の同業他社として躍進したのです。それでも、プロフェッショナルな人間を劇場で観ようと、大勢の人が花の都と呼ばれていたパリに押し掛けました。世界大戦が落ち着いた 20 世紀後半には、イギリスのウェストエンドシアター、ウィーンのミュージカル、特に NY のブロードウェイには舞台を見に世界中から人が訪れました。繰り返しになりますが、劇場の座席チケットが売れなければ舞台は存続できません。舞台は見に訪れる観客の傾向によって色付けされますが、それは劇場が呼び込む観客を絞るためではなく、舞台を存続させる商売のためでした。日本の歌舞伎も、その時々の時代の雰囲気や世の中の流れに合わせて、観に来てくれる人の心に残る舞台を目指してその都度演目を仕立て直して上演しています。400 年の歴史がある歌舞伎ですが、初演の舞台がそのまま引き継がれている演目は数える程しかありません。多くの演目は、時代の流行り廃りで見られなくなり、現代も上演されている古典歌舞伎は数多く存在した演目のほんの一握りです。
 舞台を取り巻く評判は、時代の波によって変容します。取りこぼされる演目や、取り壊された劇場もあります。舞台は歴史がある分、何か不変不動の良さがありそうですが、観客の興味や関心の変化に耐えられなかった多くの舞台もある事から察するに、舞台そのものの良さというのは普遍では無いのかもしれません。それでも、今日まで舞台は存続しているわけですから、舞台の良さは舞台に観客を呼び込む苦労に屈しなかった舞台関係者が途切れなかったことかもしれません。舞台が多くの人に愛されているから、と理由付けする人もいるでしょうが、現存する舞台だけが舞台を愛する人に認められていたと考えるには、人が舞台に向けた 2000 年分の関心を薄すく考えすぎでしょう。舞台は自然世界から人に持ち帰えられたものではなく、人間の営みの中で生まれた人工的なものですから、より優れた方が残るという自然競争的な流れに乗っているのではなく、生かすも殺すも人次第といった待遇に合っていると思われます。
 どの時代の人の心にも響く舞台は、いつの時代でも人に大事にされて、環境の変化の波を乗り越えられます。普遍の価値を秘めた舞台は、現代を生きる我々が過剰に手を掛けて守る必要も、世話を焼いて過剰に守る必要もありません。時代を選ばずに大切にされる価値観は、過去の荒波を超えてきた実績だけではなく、未来に訪れる波も乗りこなせます。正しく良さが引き出される環境にあれば、自然と気づかれる良さが普遍的な価値です。
 舞台は長い歴史の間に石段の上から木の板の上に移動して、舞台にとって最適な劇場を整えてきました。それも今現在では、全ての舞台が人々の生活の変化に伴って存続が危ぶまれている危機的な状況です。今後、ウェストエンドシアターに、ウィーンのミュージカルに、ブロードウェイ区に脚を運ぶ観客がいなくなることは、ほぼ確定しています。ブロードウェイで「シカゴ」がヒットしたのは、「シカゴ」がブロードウェイの生活をテーマにした舞台だからです。劇場の環境と演目の結びつきが強い舞台は、レジャー性の高さが好まれて、日常から離れる娯楽施設として人気でした。ですが、これから先の未来で劇場の重要顧客となるはずの若者は、インターネット世界をレジャー先と捉えて、ゲームやアバターにお金を使っています。インターネットを生活圏にしている若い世代に舞台のチケットを買ってもらえなければ、歴史ある劇場であっても封鎖の余儀はなく、力のある劇団も仕事が無ければ解散する他ありません。
 日本も深刻に舞台の観客の高齢化に悩んでいましたが、ここ 20 年ほどは、日本の「2.5 次元舞台」が、世界のどの国のどの舞台よりも多くの若い世代に劇場の座席チケットを買ってもらえています。初日や千秋楽の舞台をインターネット上で観劇できる‘配信チケット’も人気です。舞台の映像の視聴料金は、チケット代金の半額です。劇場で舞台を観る習慣に馴染んでいる高年層からすれば高額ですが、月に数万円をインターネットで決済する若い世代にとっては、 ‘配信チケット’の数千円を特別に高額だと感じません。
 「2.5 次元舞台」は、インターネットと地続な関係を築けています。漫画やアニメといった、2次元の世界を忠実に3次元に再現する「2.5 次元舞台」は、舞台観劇に馴染のない若い人にとっては舞台機構を用いた2次元のエンターテイメントで、一般の舞台とは別物と考えられています。漫画やアニメをインターネットで楽しまれる世代には、「2.5 次元舞台」は舞台仕立てとはいえ、インターネットの派生コンテンツなのです。特にゲーム原作の「2.5 次元舞台」は、原作の媒体がインターネットなだけに、劇場で観るよりもインターネットで観る方が風情なほどで、インターネットとの親和性の高さが注目されて、ネット社会が加速するこれからの成長が期待されています。
 「シカゴ」が流行った半世紀前と現代では、人々の人生観や、お金の使い道、社会との関わり方が全く違います。「シカゴ」の物語には、現代の生活の必需品である IT の機器は登場しません。ここ数十年で、人の生き方や、生活の仕方、社会のあり様は大きく変わりました。昨今は、科学技術が嘗て無い速さで進化していて、10年前の物ですら最新の物と思われない時代です。全てが新しくなければ、新しいと思われないので、新製品は改良する必要のない部分も前のモデルから一新されているのが普通です。ですから、舞台はシーラカンスのような歴史資料として観賞されても、その歴史的な部分が伝統で、舞台の重要な要素なのだと思われていても仕様がありません。特に、新興のメタバースは、人が日常で感じる異世界への興味と没入願望を満たすコンテンツです。エンターテイメントの真骨頂を極め仮想空間の参入を、既存のエンターテイメントは深刻にとらえる必要があります。
 これからエンターテイメントの主流になる仮想空間は、身体の安全が守られながら楽しむエンターテイメントになるでしょうから、反動で高い緊張感を味わえる舞台の需要は保たれると考えられます。コロナ渦を切掛けに急速に普及したインターネット配信する舞台は、劇場の客席数を上回る視聴者を得て、一度の舞台の観客数を上昇させています。今後、仮想空間に劇場が建設されれば、この世のどこにも無い劇場が物理法則を無視して無限に客席を増やします。世界中から集まった観客を無限に収容する仮想劇場が主流になって、現実世界から劇場が姿を消せば、キャパという概念も忘れられます。もしも、仮想空間に劇場が作られず、舞台がインターネット上で上演されなければ、シーラカンスが完全な化石になって、社会の変化で消えた幻の娯楽として忘れ去られるのは舞台かもしれません。3000 年の歴史がある舞台には、この先の 3000 年の将来を見通す成功が必要です。社会の変化に合わせて劇場をより進歩的な環境に移設することが出来れば、舞台は全く別次元の価値に生まれ変われます。
 インターネットに所在を移す劇場の変化は、舞台の歴史に新章を付け足すだけでなく、劇場が抱える課題をほぼ解決します。舞台を見たい人が世界のどこにいようと、インターネットはその人に劇場の様子を届けることが可能ですし、開演時間に劇場に居られない人にも舞台を届けることができます。また評判に関しても、観てもらえる人に見てもらえずに、得られるはずの評判を掴み損ねる不運が無くなります。全ての舞台が平等に雛壇に並べられれば、有耶無耶にもできた舞台の評判をハッキリさせてしまい、人気作と評判に伸び悩む作品の格差が露骨になるかもしれません。それも含めて、高品質の舞台を望む観衆と、より高い次元を目指す作り手にとっては悪い環境ではありません。芸術が商業性に敗れて粉々に砕け散ることも珍しくありません。しかし、これからは商業的なエンターテイメントは AI が担います。AI が個人に合ったエンターテイメントのオーダーメイドを始めることは確定しています。算術と無限のデータを駆使して、個人が好むディテールを確率論で繋ぎ合わせて1人1人の趣向に合ったエンターテイメントが適正価格で売りだされれば、舞台の存続は娯楽性ではなく芸術観に問われます。ハイブランドの LVMH グループの代表とテック企業の CEO が長者番付を争っているように、テクノロジーが広まる程に、テクノロジーが補えない分野の価値は高騰します。将来的に一部の舞台の記録やデータの価値が上昇することは確実です。
 クラシック音楽を例にすると、世界中で知られているモーツァルトやベートーヴェンといった大作曲家が生きていた時代は、彼らの演奏は貴族のお茶会の BGM でした。音楽教室に肖像画が飾られている彼らの音楽も、最初から由緒あるコンサートホールで演奏されるために作られた曲ではありません。芸術的な側面を備えた作品が人類の宝と評されるようになるのは、たくさんの有名な芸術家が活躍した後です。今後の数年で AI 産のエンターテイメンが大量に流布すれば、商業目的以外の価値を備えた作品が見直されます。たくさんあるエンターテイメントの中でも、「総合芸術」で一時代を築いた舞台は、多方面から価値を感じ取ってもらえます。
 AI が猛威を振るう時代に舞台は、今の現代アートのような資産価値を得るかもしれないのです。そうなった際に、舞台の記録が NFT 化されて、NFT アートとして世に出回っていたらどうでしょうか。舞台の役者や裏方は、一度の舞台を高精度に成功させるだけでも手一杯です。しかし現状では、一度の舞台の成功で十分な生活資金を得られることはなく、舞台製作に打ち込む人の生活を圧迫しています。作り上げた舞台の価値に見合った金銭を得られる仕組みは、舞台に携わる多くの人にとって望まれる環境です。一作品を大きく当てる生活設計は、短期目標が得意な若者を引き入れて、若手スターの輩出に一役買うかもしれませんし、もしも舞台が NFT 化されて、例えば1枚の絵が円で取引されるジェフ・クーンズのようになれば、レートの度に取引額の数%を提供元が得られて、役者や作り手の生活を長期的に担保できるかもしれません。というのも、仮想空間の普及が、現実世界で楽しむ娯楽の敷居を上げ、今まで以上に劇場に足を運んで見る舞台が貴族趣味として遠巻きにされることが予想されるからです。贅沢な娯楽として劇場の座席チケットの価格を引き上げるのも一案ですが、例えば特別な公演日の劇場の様子は配信せずにデジタル資産として売り込むのも一案です。どうなるにしろ、AI 産エンターテイメントに圧迫させられる舞台の経済市場を別口の方法で上向かせられなければ、生活困難を理由に人が舞台から離れて行きます。3000 年の舞台の歴史は、AI の到来によって真価が見失われて終末する可能性もあるのです。
 インターネットは現実の場所や外的要因から利用者を解き放ちます。多くの人は社会生活に役立てるために話題の映画を観に行きますが、サブスクリプションを利用しているときは素直に自分の関心に従って視聴する作品を選びます。韓国の大手ドラマ制作会社のスタジオドラゴンは、視聴者が快適に刺激を楽しめる作品で世界的ヒットを連続させて、成功するドラマの法則を一新させました。動画配信のサブスクリプションで人気の韓国ドラマは、10 年前であれば韓国国内で楽しまれて終わりでしたが、インターネットの配信環境が整うと国民数を上回る視聴者を得て、世界的な大ヒットを記録しました。インターネットは人に素直な関心を思い出させますし、サブスクリプションは個人の都合に合わせたサービスが売りですから、両者の好相性はビジネスを成功させます。映像のサブスクリプションは、ドラマやドキュメンタリーといった、テレビ放送されていた番組だけでなく、映画やスポーツ中継が加わって、ショーやライブや舞台といった生のエンターテイメントも増えています。
 今後も様々なコンテンツが映像のサブスクリプションに加わることが予想されますが、ディズニーランドのナイトショーがサブスクリプションに加わったら、多くの家庭で子供たちに楽しまれて喜ばれそうです。日本の舞浜に行けなくても、近い未来に自宅で毎日生放送の「ビリーブ!~シー・オブ・ドリーム~」を鑑賞できるようになるかもしれません。インターネットを介して、世界規模で舞台を成功させられるのは、「2.5 次元舞台」に限らず、新たな路線を模索している世界中の舞台も同じです。同じ市場で競う競合相手が本領を発揮したとき、日本の「2.5 次元舞台」は競争に勝てるのでしょうか?世界中からアクセスできるインターネットの劇場は、ロンドンや、ウィーンや、NY で人気だった舞台を再ヒットさせるのでしょうか。もちろん、作品に思い入れのある人は、他の舞台よりも贔屓してインターネットでも観劇しようと思うでしょう。ですが、それはどの作品にも言えます。イギリスで「舞台版となりのトトロ」の上演が試されたように、若者から支持される2次元原作の舞台は、世界中の舞台関係者に参考にされています。世界中の舞台関係者は、これからの未来でヒットする舞台を考えてアイデアを練っています。世界の演劇シーンの先頭に躍り出た「2.5 次元舞台」ですら、課題と向き合いながら成長戦略を手探りで掴もうと奮闘しています。今は、世界中の演劇関係者が失敗を消化しながら、将来の成功の糧を得ている時期です。
 もしも今後、インドが本気で製作した「舞台アラジン」の評判が世界で共有されて、日本の「2.5 次元舞台」の配信と日時が被ったとしたら、日本の舞台はインドの舞台と観客数を競えるのでしょうか。
 もしも、マーベル・スタジオが「キャプテンアメリカ」や「スパイダーマン」や「アイアンマン」をブロードウェイで舞台化することに合意したらどうでしょうか。世界中のファンのリアクションを分析して練られた舞台であれば、とても話題になりそうです。潤沢な予算でプロジェクションマッピングされたNYの街並みを背景に、ヒーローが客席の上空を飛ぶ舞台であれば、映像越しではなく、実際に劇場に足を運んで生の舞台を観たいと思われることでしょう。幅広い世代に名前が知られているマーベルコミックスの舞台化であれば、コアなファンでない一般の人々も知名度に連れられて、一度は情報をチェックするでしょうし、子供に付き添う保護者や、カップル、誰とでも話題にできるからと、子供からお年寄りまで多くの人に観劇されそうです。世代を超えて愛されているマーベル・シネマティック・ユニバースと、世界配信される舞台は成功間違いなしのコラボレーションになるはずです。各シリーズの主役を集めて「アベンジャーズ」を上演すれば、プレミアチケットの争奪戦が大きな話題となって、社会ムーブメントになるかもしれません。
 潤沢な予算と十分な準備期間があれば、映像世界を丸々舞台上に再現することは不可能ではありません。アメリカの映像作品は、カット構成がシンプルなアクションシーンが見所です。ワンカットで撮られたバトルシーンなどは、盆やセリといった舞台の仕掛けを駆使して、舞台らしい見所に作り変えることができます。ワーナーブラザーズが所持する「マトリックス」や「ジョン・ウィック」といった作品も、バトルシーンが見所の大人向けの舞台になって流行るかもしれません。
 また、名門のオーケストラが集まるドイツで、世界的な大ヒットドラマの「ゲームオブスローンズ」がミュージカル化されたら、どうでしょう。明快なオーケストラの音楽が舞台の芸術性をリードするドイツのミュージカルは、重厚な雰囲気が国境を跨いで評判です。史実に基づいた演目が評判になるドイツのミュージカルですが、もしも、今後、世界をターゲットに新しく舞台を作るとなったら、世界規模の注目が集まる演目で、ドイツの強みを活かせる題材を選ぶはずです。世界の名門オーケストラの評判を二分するウィーンフィルオーケストラとベルリンフィルオーケストラは、団員同士の音楽に関するディスカッションの濃さがどちらも有名です。ドイツの名門のオーケストラの団員たちは、団員全員が納得する結論に至るまで音楽に関する議論を毎日重ねています。ドイツのオーケストラが奏でる音楽は、他国のどのオーケストラよりも説得力に富んでいますし、演奏観念が共有されている楽団の奏でる音にはメッセージ性があります。「ゲームオブスローンズ」は重厚なテーマ音楽が印象深く、力強い音を奏でる楽団とのコラボレーションは理想的です。ドイツのクラシック音楽の蓄積が、壮大なウェスタロスの世界を音楽にするのに役立つことは想像に難くありません。世界的に大ヒットすれば、ドイツ中心の舞台芸術時代が再来して、ドイツ発信の芸術観が再び世界を飲み込む時代が来るかもしれません。ヨーロッパをモチーフにした長編大作をドイツがミュージカル化することは、日本の人気漫画の「デスノート」が、韓国で初めてミュージカル化された前例からも十分あり得ます。ヨーロッパの文化が基になっている「ゲームオブスローンズ」や「ロード・オブ・ザ・リング」といった人気作品の舞台化を皮切りに、ドイツが世界の芸術分野で大成することは難しくないでしょう。
 もしかしたらそうした舞台は、10 年後には生身の人間を抜きに製作されているかもしれませ。世界配信されている舞台の多くは、AI が脚本と演出を考えてアバターが役を演じる舞台で、ローレンス・オリヴィエ賞やトニー賞の受賞者は生身の人間ではないかもしれません。もはやそれは舞台なのか。AI が考えたクリエイティブな発想をデジタル媒体を利用して楽しむ未来は目前まで迫っています。人が想像力で AI に負けを認めざるを得なくなるのは時間の問題です。人の能力を技術革新が追い越すことは、今までも何度もありましたが、数学が得意なコンピューターがイマジネーションを始めるのは、もっとずっと先のこと、SF 小説ほど遠い所から始まるはずでした。それが AI は予告もなく突如インターネットに出没して、昼も夜もなく学習を始めました。またその学習スピードが、スマートフォンを伝って人の頭の中に分け入って、24 時間世界中の人間の脳内にアクセスして、人の発想力を奪っているようなので、特にクリエイターは震撼させられました。AI にはない発想力を人が磨けるのも今だけで、人と AI が能力を競える時間は残り僅かです。技術革新を警鐘して AI に何らかの規制を求めていられるのも、AI が明らかに人を追い越せば世間の風向きも変わります。AI は古今東西のさまざまな記録を学習して、エンターテイメントを進化させます。増々デジタル媒体に人が夢中になる未来が予想されますが、そうした世界で「2.5 次元舞台」は、今以上に劇場公演を成功させて、エンターテイメントとして輝きを増せます。
 「2.5 次元舞台」は2次元と3次元の間に立って、2次元世界への憧れや感傷を四散させるしかなかった気持ちに共感して、手が届く二次元を実現させました。「2.5 次元舞台」が2次元のファンから支持を得ているのは、3次元から2次元を届ける心の粋に感動させられるからです。昔から2次元のコンテンツを好む人の心には、2次元の世界に行ってみたい、2次元の世界と関わり合いたい、という願望がありました。そういった2次元への憧れは、非現実的な夢として冷笑されたり、馬鹿にされたりしたものです。漫画の登場人物と話したい。テレビ画面を挟まずに直接キャラクターに合ってみたい。PC の中にいるアバターともっと仲良くなりたい。スマホから見守ってくれる推しと横並びに歩いてみたい。長い間人の心に巣くっていた2次元世界への没入願望は、仮想空間の出没によって近い将来普遍的に叶うようになります。
 インターネットに出没した仮想空間は、現実世界の経済効果を上回ると予言されています。日常の生活の拠点となる学校や職場といった公的機関や娯楽機関は、仮想空間に所在を移行する前準備を始めています。バーチャル世界での生活を望まなければ、時代の変化に疎い社会責任を果たせなそうな人、と思われてしまう位に、バーチャル世界への移住は直近の未来での一大行事です。望もうと望むまいと、任天堂や集英社の2次元のキャラクターと同じバーチャル世界の住人になれば、バーチャル中心の日常生活を送る人と2次元のキャラクターは同じ世界に住む隣人です。そうなった未来で「2.5 次元舞台」は、2次元世界を3次元の世界のように楽しむエンターテイメントのパイオニアとして知られるだけでなく、3次元でも2次元世界を楽しめるエンターテイメントとして、増々尊ばれるのではないでしょうか。
 バーチャルの世界と慣れ親しむ人の中には、現実世界と乖離してしまい、3次元と繋がりを感じられない人もいるはずです。バーチャルの世界が快適であればある程に、3次元の生活とポジティブに向き合うことは困難になるでしょう。仮想空間に生活の拠点を移せても、現実の肉体を脱ぎ捨てられるようになるわけではありません。肉体の不調は気にしなければなりませんし、バーチャルの世界に夢中になって食事を忘れれば死んでしまいます。バーチャルの世界に馴染んだ人にも、現実世界で憩いが必要です。バーチャルの世界しか受け付けない人が現実世界で楽しみを感じる切掛けは、何も現実的な物である必要はありません。現実世界に価値を感じる人であれば、容易にバーチャルの世界を抜け出せます。そうではない、現実世界をポジティブに受け入れられずに困っている人には、現実世界で慣れ親しんだバーチャルの世界と接してもらうことが効果的です。「2.5 次元舞台」は、バーチャルの世界に馴染む人が現実世界で親しみと安全を感じられる心理的拠点の最有力候補ではないでしょうか。非現実と現実を繋ぐ依り代として、インターネットの世界でも現実世界でも人気なエンターテイメントになれます。
 重ね重ねになりますが、舞台は商業的に成功しなければ存続できません。多くのエンターテイメントがメタバースや AI の到来に揺れていますが、「2.5 次元舞台」はインターネットの新天地に根を降ろすことも、現実世界の劇場で公演を成功させることもできます。既存の他の芸術と比べると、人がアーティストとして活動を続けられる貴重な芸術ジャンルです。様々な観点から考えて、現実世界と仮想世界を行き来する未来人の間で商業的に成功するのは、2次元と3次元を繋ぐ媒体です。雨降って地固まる様に、将来の評価を頼りにして、2次元と3次元の繋がりは舞台でも追求され続けるべきです。「2.5 次元舞台」は、まだ世界で誰も経験したことのない新しい世代の局面でも、「2.5 次元」らしくあることが重要です。
 
「2.5はブロードウェイを超えられるのか? 舞台芸術の歴史とその楽しみ方入門」完

©2023 陣野薫

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