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観るということの徹底とその不確かさ - 『悪は存在しない』について

映画は人を感動させたり、興奮させたり、夢を見せたり、希望を与えたり、メッセージを伝えたりする。しかし、映画にとってプリミティブなことはなんだろうか。それは「観る」ということではないだろうか。

『悪は存在しない』

この映画で私が感じたのは、観るということの徹底と、その不確かさだ。

また、観ることの徹底については感じただけではなく、実際に私が映画にそうさせられていたことでもある。

この映画は常に眼差しのようだった。登場人物の眼差しだけではない。自然があたかも眼差しを持ち、人間を観ているかのようでもあった。そしてカメラの眼差し、『悪は存在しない』という映画にとっての眼差しもあるだろう(それはカメラという眼差しによって撮影された自然など)。それぞれの眼差しは受動的に見ているというよりも、能動的に観ている。

この映画そのものが撮影した自然と、映画の中で出てくるグランピング場の説明動画で撮影した自然には、大きな隔たりがある。この映画を観たほとんどの人が、説明動画には観ることの不徹底を感じただろう。実際にグランピング場を作る側の人間は、地元住民から指摘されるように、あまりにも観ることを徹底していなかった。そして高橋と黛は、観ることを徹底しようとする(あるいは観ることを徹底していなかったのではなく、眼差しの違いであり、眼差しの変化だったのかもしれない)。

しかし、この映画のカメラにおいても、自然の全てを、自然を正しく観ているわけではない。このカメラの映像は、『悪は存在しない』という映画という眼差しで観ている。そう、まるで映画が一人の人物のように、徹底して観ようとする。そしてここにも不確かさは残る。

観ることの不確かさが残るのは、地元住民たちにも言えるだろう。それはこの土地のことはよく知っている巧も含まれる。巧含む地元住民は、住む土地、そこに住む人たちそれぞれについてを全て、あるいは正しく観れていたのだろうか?人は観ることを徹底しても何かを捉え損なう。観ることには不確かさが残る。そして、観ることを徹底することはときに危険すら伴うのだろう。

序盤と同じような繰り返しがなされる後半、その繰り返しの中に私は正しく差異を観れただろうか。
そして最後のシーンでは、観客を含む多くの眼差しの捉えそこないがあり、観ることの不確定さに晒される。観たものを疑い、観てきたことを疑い、何を観てきたのかと分からなくなる。
実際に観ているのは、現実なのか、幻なのか、それすらも分からなくなる。

全ての眼差しが、観ることの徹底の果てに、観ることの不確かさに辿り着く。言い換えれば、観ることを徹底することは、「観えない」という暗闇を見ることだろう。

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