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恋愛や性愛という症状

例えばペドフィリアは病だという。
しかし、そもそも病ではない恋愛や性愛なんてあるのだろうか。
人は病んでいるからこそ恋愛や性愛を求めるのではないだろうか。
ヘテロ、ホモ、バイなどの恋愛指向や性的指向。接尾辞としてのフィリアやフェチなどの性的嗜好(便宜上この言葉を使いますが、僕は性的指向と性的嗜好の区別には懐疑的です。政治的理由などからの区別だと思っています)。また、関係性の指向として、モノガミーやポリアモリー。みんなそれぞれ違う病をもっているだけだと思う。いや、病ではなく症状と言った方が正しいだろう。あるいはパルマコン、もしくは運命でもある。


症状=欲望

「恋人が欲しい」というのは、満たされていたら出てこない言葉だろう。
何か満たされていないものがある。だから恋人を求める。
それは「恋人が欲しい」というのは表面的な欲で、その下には「恋人が欲しい」という欲を生成している別の欲があるということだ。そして欲を深く掘っていくと、それらの欲を生み出している病がある。定義付けや診断のできないような病があるのだと僕は思う。
心の底に病があり、それが諸々の症状を生み出している。その症状こそが欲望で、それは表面の層では言葉となる。

パルマコン

症状=欲望は毒にも薬にもなる。それは毒か薬かという対立ではない。毒でも薬でもあり、グラデーションということ。毒でも薬でもあるパルマコンということだ。

インフルエンザの発熱という症状について考えてみよう。発熱という症状は、インフルエンザウイルスを退治するためのものだ。つまり薬である。しかし、発熱があることは体力の消耗や頭痛などをもたらす。つまり毒でもある。インフルエンザの高熱という症状は、心の底にある病と症状=欲望の関係に似ている。症状=欲望は病を癒そうとするためのもの。しかし、それは毒にも薬にもなるパルマコンだ。

症状=欲望というパルマコンは毒と薬のグラデーション。グラデーションということは、毒の割合が高い状態もある。
それはどういう状態か。色々と考えられるが、一つに依存が考えられるだろう。例えばパートナーに精神的に依存すること。パートナーに依存することは、病を癒やそうとする症状=欲望である。確かに依存という症状=欲望は病を癒やそうとする。しかし、依存は毒の割合の方が高いのではないか。依存でもたらされるのは苦しみだろう。これは薬よりもほぼ毒となっている。

余談だが、お酒好きの友達がこう言っていた。
「私はお酒が好きだからこそ、依存症にはなりたくない」
お酒を楽しむということも、病からくるものだろう。ストレスからとかではなく、純粋にお酒を楽しんでいるとしても、それはお酒によって病を癒しているということ。全てが満たされているのであれば、お酒を楽しむ必要もない。
お酒を楽しむことは毒と薬のグラデーションのバランスが取れているのだろう。しかし、お酒に依存することは、毒の割合の方が高いのだろう。

パルマコンの毒と薬のバランスを適切に保つことは、自分の症状=欲望とうまく付き合うということになるだろう。

意識される症状=欲望は当てにならない。

症状=欲望についてより深く考えるために、「意識される症状=欲望は当てにならない」ということについても考える必要がある。

「意識される症状=欲望は当てにならない」ということは、期待外れ、がっかり、何か違うと感じることがあるからだ。

「恋人が欲しい」と思って恋人をもち、しかし何か違うとがっかりし、別れることがある。しかし、それでも「恋人が欲しい」という症状=欲望が再び生成され、また恋人をもつ。しかし、またがっかりし…… と、「恋人が欲しい」と何か違うということを繰り返してしまうという場合がある。
これはなぜ恋人が欲しいのか?という症状=欲望の原因が分かっていないからと考えられないだろうか。なぜ恋人が欲しいのか?恋人によって自分は何を癒やそうとしているのか?恋人が欲しいという症状=欲望の下には、どんな症状=欲望があるのか?それは、本当に恋人でしか癒せないのか?

もう一つ、重い話となるが自殺幇助について考えよう。自殺幇助の賛成意見として、自分が死にたいという意志、権利も尊重されるべきだという意見がある。しかし、それで分かりましたと自殺幇助することを決めていいのだろうか?死にたいという症状=欲望は、本当は辛い何かから逃げたいという症状=欲望ではないだろうか?だから僕は自殺幇助は、徹底的にその人の症状=欲望を掘り下げ、本当に死以外の選択肢はないのかを探るべきだと思う。

性的行為は必ずしも性欲が原因なのか?

性にまつわる症状=欲望を深く考えるということは、当然性欲だけでは語れないだろう。それと同じで、性的行為も性欲だけでは語れないと僕は思う。

例えば性的に支配するとは、性欲なのか支配欲なのか。支配欲を満たすための道具としての性、ということも考えられないだろうか。他にも寂しさを埋めるための手段や、触れ合うことが目的といったことも考えらる。

また、僕は子作りのためのセックスは性欲的だとは思えない。性欲というのは、子孫を残すための本能ではないかという反論があるだろう。しかし、僕は「子供が欲しい」という症状=欲望は、人間特有の症状=欲望だと思っている。生殖に子孫繁栄や遺伝子を残すといった目的があるということも疑っている。子孫繁栄や遺伝子を残すといったことは、あまりにも人間的な価値観ではないだろうか。人は生殖の結果、子供ができるということを知識として知っている。子孫繁栄や遺伝子を残すといったことは、人間が原因と結果を結びつけて作った物語ではないかと思う。
人間以外の生物は、生殖の結果子供ができるということを知っているのだろうか。動物はただ身体が衝動的に反応し生殖をするのであって、その先のことは知らないのではないか。動物には「子供が欲しい」という症状=欲望はなく、そのことを全く知らないというラディカルな意味で「できちゃった」ではないかと思う。

他にも思い込みを疑い、複雑に考えてみる。異性愛行為をしている人がいたとして、それだけでその人が異性愛者かどうかは本当は判断できない。異性を性的に欲望したというよりは、性的フラストレーションの発散かもしれない。単純に快楽が得られるからだけかもしれない。先も例に出した寂しさが埋まるからや、触れ合うことで満たされるということも考えられるだろう。

運命

『症状=欲望』の章で心の底に病があると言ったが、これは後天的な病ということになるだろう。病は経験によって形成される。冒頭の一節と繋げれば、恋愛指向、性的指向、性的嗜好、関係性の指向は、経験によって後天的に決まるということになる。
指向や嗜好が先天的に決まるのか、後天的に決まるのかは正直分からない。色々な見解があり、答えは出ていないであろう。

しかし、先天と後天には共通することがある。それは運命ということだ。
先天は理解するのが容易いだろう。生まれたときにそうなっていたのだから、それは運命としか言いようがない。しかし、後天、つまり経験だって同じだ。私たちは様々な偶然が重なって、たまたま今の指向、嗜好に至っている。もし、自分の指向や嗜好を選んだというのであれば、考えて欲しい。どうしてそれを選んだのかを。環境や経験の影響があるはずだ。それは、偶然であり、運命である。

指向や嗜好が先天か後天かは分からない。しかし、先天か後天かという対立を超えて、運命として考えるのはどうだろうか。それはどの指向や嗜好にも共通することだからだ。そして、その運命をどう引き受けていくのかを考えるべきだはないだろうか?

それは、自分の症状=欲望とどう付き合うかを考えることでもある。また、症状=欲望というパルマコンにおいて、毒に支配されないようにすることでもある。
逆にすれば、自分の症状=欲望とどう向き合うかを考えることは、運命を引き受けることを考えることになる。症状=欲望というパルマコンにおいて、毒に支配されないようにすることは、運命に翻弄されないようにすることである。

運命を共に引き受ける他者

運命を引き受けるにはどうしたらいいのか?運命に翻弄されないためにはどうしたらいいのか?
それには、先に話した自分の症状=欲望を深く考え、向き合うことが必要だろう。
しかし、それは一人で可能なのだろうか?自分の症状=欲望を深く考えることもそうだが、仮にそれを考えられたとして、一人でその運命を引き受けることは可能だろうか?依存のような場合は特に、一人でその運命を引き受けることは不可能ではないか。
運命を引き受けるには、運命に翻弄されないためには、他者が必要なのではないだろうか。

最近『大いなる自由』という映画を観た。
この映画はかつてドイツにあった、男性同性愛を禁じた刑法175条で投獄されたハンスという人物の映画だ。僕はこの映画を観て、運命を引き受けるということを思い、考えた。

ヴィクトールという人物がハンスに「自制」という言葉を投げかけるシーンがある。ハンスは20年間で3回、刑法175条違反として捕まっている。そして、獄中で密かに親密な関係になっていた人が自殺してしまうという経験もしている。それを受けての発言だ。
しかし、ハンスは自制できていなかったとは思えない。同性に恋愛愛情を抱いたり、性的に欲望するという自分の運命を引き受けていたのだ。
運命を引き受けて向き合うことは、運命に翻弄されないための、運命に対する抵抗になると考える。そして法に対する抵抗にもなるだろう。自分の運命を引き受け、法を逸脱し続けることは、法への一番の抵抗ではないだろうか。

一方「自制」という言葉を発したヴィクトール本人は、全く自制ができていない。彼はドラッグ依存者だ。釈放を判断する面談の前に、緊張感からドラッグを使用してしまうほどに。ヴィクトールはハンスとは違い、自分の運命を引き受けられなかった。ドラッグ依存という運命を引き受けられていたら、ドラッグを断ち、釈放は叶っていたかもしれない。しかし、ヴィクトールは運命を引き受けることができず、運命に翻弄されていた。運命に蹂躙されていたと言ってもいいだろう。

では、なぜハンスは運命を引き受けられたのか?なぜヴィクトールは運命を引き受けられなかったのか?もちろんドラッグは依存性が高い。ドラッグのもつ物質的な作用も確実にある。しかし、もしも運命を共にする他者がいたら、ほんの少しでも運命を引き受ける可能性があったのではないだろうか。

ハンスには運命を共にする他者がいた。ハンスには同じく同性を愛したり、性的に欲望する他者がいた。つまり運命を共にする他者がいた。だからこそハンスは運命を引き受けることができたのではないだろうか。それに比べてヴィクトールは孤立してはいないだろうか。ヴィクトールには運命を共にする他者がいない。そもそもドラッグ依存というのは孤立しているものだ。後に詳しく述べるが、ドラッグ依存という運命は一人で引き受けるしかないだろう。この運命は一人でしか引き受けられないといった意味で、運命を共にする他者はいない。

運命を共にする他者がいない。これは、例えばペドフィリアにも言えることだ。他にも、失恋や非モテにも言えるだろう。

ペドフィリア。失恋。非モテ。

ペドフィリアには運命を共にする他者がいない。これは難しいことではない。子供と性的な関わりをもつことはできないからだ。

しかし考えてみれば、運命を共にする他者がいないのはペドフィリアだけではない。それは当たり前とされていることにもある。ある特定の誰かを恋愛的、性愛的に欲するということだ。これは相手が引き受けてくれることもある。つまり相思相愛になるということ。だから可能性がない訳ではない。しかし、もし相手から拒絶されてしまった場合、その運命は一人で引き受けなければいけない。つまり失恋という運命だ。相手に強要することは当然できない。ただし失恋は時が経てば痛みが少なくなり、一人で受けられるようになる(もちろんそうじゃない場合もある)。

また、恋愛や性愛に対する欲があるが、その運命を共にする他者に中々出会えない人がいる。その人のことを俗に言うならば、非モテとなるだろう。

なるほど、運命には一人で引き受けるしかない運命があるのだろう。
それはヴィクトールのような依存も同じだ。依存という運命は他者と共にすることはできない(人とドラックのような物質ではなく、人と人だったら依存し合うということは可能か?これはお互いの運命を共にしているのか?しかし、これは運命を共にしているというよりかは、お互いに運命に翻弄されているように思われる)。

では、そういった他者と共にできない運命を引き受けるにはどうすればいいのか?それは、やはり一人で引き受けるしかない。ただし、一人で引き受けられるようになるために、他者の力を借りることは可能である。

それは精神分析家のような専門家かもしれない。オープンダイアローグのような相談の場かもしれない。身近な人かもしれない。
もしくは、他者の運命を自分の運命として引き受けようとしてくれる他者が現れるかもしれない。もう一度『大いなる自由』について語る。

他者の運命を自分の運命のように引き受けてくれる他者

ヴィクトールはドラッグへの依存という運命を引き受けられなかった。しかし物語の後半では、その運命をハンスが引き受けた。他者の運命を自分の運命として引き受けたのだ。

ヴィクトールがドラッグの症状で嘔吐を繰り返すなど、最悪の体調になっているところを親身に介抱し、ヴィクトールが隠していたドラッグをこっそりと使おうとしたときには、そのドラッグを奪い、トイレに流し捨てた。そして刑法が改正され、ハンスは釈放されたが、窃盗という罪をわざと犯し、再び刑務所に戻ることを選択した。これはヴィクトールの運命を自分の運命として引き受ける選択をしたのだと僕は考える。

もちろん、このことによって依存という運命を引き受けられるよになるかは分からない。しかし、自分の運命として引き受けてくれる他者の存在は、ときに運命を引き受ける力になるのではないだろうか。

ハンス自身、ヴィクトールに運命を引き受けてもらう場面があった。それは、ハンスがヴィクトールの運命を引き受ける前の出来事である。
ヴィクトールはハンスのことを、最初は同性愛者であることから嫌悪していたが、ハンスの腕にナチスの強制収容所で掘られた刺青を見つけ、強制収容所から引き継いだ刑期を終えるために刑務所に送られてきたことを知る。その事実はヴィクトールに心境の変化をもたらした。そしてヴィクトールはリスクを犯して、ハンスの強制収容所で彫られた刺青の上に、別の刺青を彫った。これも一つ、他者の運命を自分の運命として引き受けることだ。

そしてハンスが2回目の投獄のとき、想いを寄せ、お互いに親密だった人(刑務所に入る前から親密だった)が刑務所内で自殺してしまっときのことだ。ハンスはその運命を引き受けることができず、深い悲しみにおちた。その運命をヴィクトールは自分の運命のように引き受けた。ヴィクトールはハンスを抱きしめた。看守から妨害され、殴打されても抱きしめ続けた。懲罰房に入れられることになろうと抱きしめ続けた。

一人で引き受けるしかないが、一人で引き受けることが難しい運命を、他者が自分の運命として引き受けようとしてくれたなら、それはときに運命を引き受ける力になるかもしれない。
他者の力を借りて、自分の運命を引き受けられるようになることは可能ではないかと考える。例え毒の割合が多く、苦しくてもなんとかやっていくことができるかもしれない。また、誰かに加害を加えずに過ごせるかもしれない。

矯正ではなく、うまくやっていくこと。

うまくやっていくことは、症状=欲望の変更を伴うことがあるだろう。例えば「恋人が欲しい」という症状=欲望を発生されている症状=欲望を知り、言語化できたとき、「恋人が欲しい」という症状=欲望は他の症状=欲望に変わるかもしれない。

これは世の中で危険とされている欲望に対して、「それは危険な欲望だ。矯正するべきだ」という考えを伴うかもしれない。しかし、矯正というのはすごく排他的で、差別的だと僕は批判する。矯正ではなく、うまくやっていくことである。

例えばペドフィリアの人が、誰にも加害を加えず、運命に翻弄されるような苦しさを感じなければそれでいい。ただ、誰かに加害を加えそうになったり、運命に翻弄され苦しくなるようであれば、その人がうまくやっていけるように考えるべきだと思う。

その結果として、症状=欲望が変更になることがあるだろう。
先ほど、異性愛行為をしているからと言って、異性愛者とは限らないという話をした。ならば、チャイルドマレスターだからと言って、ペドフィリアだとは限らないということもある。性欲が他の欲望の道具になるという話と繋げて考えれば、子供を性的に欲望しているのではなく、支配欲を満たすために、子供を弱者の象徴とし、支配欲を満たすということも考えられる。自分のコンプレックスの捌け口になっている可能性もある。もちろん、その場合はなぜ支配欲という症状=欲望があるのか?ということを探ることもできる。

うまくやっていくことは確かに変更という結果になることもある。症状=欲望から別の症状=欲望へ。パルマコンから別のパルマコンへ。運命から別の運命へ。しかし、それはうまくやっていく方法を考えた結果としてである。うまくやっていく方法は人それぞれで異なり、普遍ではないだろう。

心の底にある病

一人で引き受けるしかない運命があるという話をしたが、症状=欲望という運命ではなく、自分の心の底にある病という運命は誰かと共にすることはできるのだろうか?
それも、一人でしか引き受けられないのだと思う。そしてこの病は完全に治すことは不可能だ。むしろ病をなくし、全てが満たされてしまったら、人には何が残るのだろうか。人の身体は、人それぞれ違ったおうとつや皺などがあって個別性がある。つまりそれらをなくすということは、個別性がなくなるということだ。

もちろん、病も一人で引き受けるしかないが、それは不可能である。そもそも病は他者を求めているのではないだろうか。やはり一人で引き受けられるようになるには、他者が必要なのだろう。

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