路上着座論 ーあのベンチの前に座ろう
ベンチがたくさんあることはいいことだ。しかし、ありすぎるとそこが、「座る場所」から「座ってもいい場所」になってしまうのではとも思う。つまり、座ってもいい場所と座ってはいけない場所ができてしまうということだ。
それは「座れる」の意味が「座ってもいい場所」ということになり、「座れる」の判断基準がルールだけになってしまうことである。そこに個人の「座れる」の判断基準が入る余地はない。
もちろんなんでもかんでも個人の判断というわけにはいかない。ただ、なんでもかんでもルールで判断するのもどうなんだろうか。では、「座れる」を個人で判断することはどういうことかを考えてみよう。
「座れる」を個人で判断する場合、大きく分けて基準は二つあると考える。
まず一つ目の基準は不快でないか。あそこは汚れてなさそうとか、湿っていないとか、そういったことである。
二つ目は他者がどう感じるか。ここだったら人があまり来ないから座っても大丈夫かなとか、他者への配慮を考えることである。
ルールで座れるかを判断する場合、考えることは特にない。ルールでそこに座っていいとされているのだからそこに座るだけだ。しかし、個人で判断する場合はどうだろう。そこには自分で考えることが生じる。
例えば二つ目の基準で述べた通り、他者の配慮を自分で考える。確かに自分で考えた配慮が、配慮にならず迷惑になってしまうこともある。しかし、ルールに従っていれば他者に迷惑をかけていないということではなく、他者を配慮しなくてもいいということでもないだろう。むしろルールは普遍的な正当性という性質を帯び、他者の声が聞こえにくくなってしまう。
自分で座れるかを判断し座るということは、反省にも繋がる。ルールに従って座ることは、正しさが保証されていると思ってしまい、結果や影響を反省することはない。そして、自分に責任があるとは思わないだろう。座れる場所を自分で判断することは、結果や影響を反省することに繋がり、自分の責任を引き受けることである(これは自己責任論の話ではない。個人が自分の行為の責任を引き受けようとすることを述べており、行為を誰に、どこに帰責させるかの話ではない)。
上記引用のように、もしかしたら怒られることもあるかもしれない。もちろん怒られたら不快な気持ちになるし、理不尽な怒りだったら腹も立つ。しかし、不快ではあるが、そこにはコミュニケーションが生まれる。
もし怒られとしたら、すいませんと言って別の場所を探せばいい。これはお互いがうまくやっていく為のコミュニケーションとも言えないだろうか。お互いに正当性を争うようなものではなく、緩いコミュニケーションだろう。むしろルールできっちりと決まっているほど、こちらは間違っていないという思いが強くなり、怒りは強くなるのではないだろうか。
また、先程「むしろルールは、普遍的な正統性という性質を帯び、他者の声が聞こえにくくなってしまう」と述べた。確かに理不尽なことで怒られるのは、どうしても腹が立つ。しかし、正当な理由がないと怒れないというのも恐ろしいことだろう。
また、座っている人へのまなざしも変わるだろう。例えばベンチの前に座っている人がいたとしよう。そこが座ってもいい場所かそうではないかという視点ではこう考えるはずだ。
「この人はなんで目の前に座っていい場所があるのに路上に座っているんだ。なんてやつだ!」
では、座れる場所を自分で判断する人はどうだろうか。
「この人は目の前にベンチがあるのになんで路上に座っているんだろう?何か拘りがあるのか?なんか通りがかる犬を目で追っているな。犬と目を合わせたいのか?」
前者は座ってはいけない場所に座っているから、なんてやつだ!という判断があるだけだが、後者はなぜこの人はそこに座っているかということを考えている。拡大すれば他者のことを考えている。
自分で座れるかを考えることは、楽しむことへも繋がるはずだ。それは「座れる」から、「座る」への変化だ。
「ここに座ったら風の通りが良さそうだし、眺めも良さだし、とにかくなんか良さそうだ。」
これは座れるかの判断ではないだろう。「座れる」というのはネガティブな判断であるが、「座る」ということはポジティブに座る場所を探すことであり、楽しむことである。この座る場所を探すというのは、想像力や文学的な力を使うのではないだろうか。
路上着座とは、かくも豊かなことではないだろうか。
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