【思想】神は信じなさいと言うが、疑うなとは言っていない。

このテクストは、『信仰と洗脳の違い』について考察したものである。

まず、この考察は『「宗教」と「カルト宗教」の違いとは何か』 という問いから派生したものであることを示しておく。

この問いをつきつめていき、到達した個人的な見解は以下の通りである。

現状カルト教団と見做される団体を、「カルト」という語を用いて批判するのは有効ではないように思われる。団体による活動、その「行為」について問題視すべきではないだろうか。

これを踏まえ、持論を展開していきたいと思う。

カルト宗教とは何か?
カルト宗教。これに、明確な定義は存在するのだろうか。
私は、曖昧なものであると捉えている。
しかしそうなると、更なる疑問が生じてくる。
それでは、人は何を以て、特定の宗教を「カルト宗教」として識別するのだろうか......? 反社会的な活動を行う宗教=カルト宗教。このような認識であろうか。

けれども、この「反社会的な活動を行う宗教=カルト宗教」というのを定義とすることは、 矛盾を孕んでいるように思われる。
例えば ISILがテロ行為に及んだ際、その組織を「カルト」という語を用いて批判した人は、かなり少数だったように思われる。更に歴史を遡り、十字軍の起こした戦争、これによって、キリスト教を「カルト」と呼んで、批判することはあるだろうか?

特定の教義に根ざした問題行為(犯罪およびに人道に反すること)が、表沙汰になったとする。するとそれは、「カルト教団(宗教)によるもの」と見なされ、報じられることとなる。
「カルト」という表現には、少なくともそこには批判めいた意味が含まれ、敢えて用いられている。

カルト宗教の定義が曖昧である以上、「あなた達の団体はカルトだ!」とその団体を非難したところで、「我々はカルトではない」と否認されてしまうだけだろう。

このようなことも懸念される。
カルトという語は、一般的に否定の言葉として用いられるが、その曖昧さ故に、団体側の「隠れ蓑」ともなり得るのではないだろうか。

また、これは逆説的なことであるが、カルトという言葉が「勢い」を増せば増す程、その言葉が否定の地位を占めるほど、カルト教団と呼ばれる団体にとって、むしろ好都合とも言える状況に至る――、そのような可能性も孕んでくる。

もしその団体がカルトという言葉を自ら流布していると考えるなら、その団体自身が、おもちゃのナイフを配って回っているようなものだろう。私達は敵から偽物の武器を渡され、無駄な抵抗を続けていることになる。

総じて新興宗教を指し、カルトと呼ぶ風潮もあるかもしれない。 しかし、そうなると全ての宗教において、その発足時は「カルト」となってしまう。 それがもはや多くの人々の文化や生活に根づいている、世界三大宗教のような位置づけのものであったとしても、「起源」というものがそれぞれに、必ずや存在する。

定義が曖昧であることによって、あらゆる宗教が、カルトと指さされ批判されることの一因になっているのではないか。そうも思えてならない。

それでは、宗教、そしてそれにまつわる問題について、一個人としてどのようなスタンスを示していくのがよいだろうか。 私はその「悪質な」宗教活動に対して、カルトという語を用いずに、具体的な行為(例えばテロ行為、霊感商法、政治との癒着、――ひいては、洗脳)を否定していくべきではないだろうかと考える。

そして今回はその行為の一つである「洗脳」
これを否定する為に、『信仰と洗脳の違い』について考察するに至った。

信仰
信仰とは。この言葉を一旦、「信じる」という言葉に置き換えてみる。
「信じる」ということは、疑いを伴うものだ。
疑いのない「信じる」は存在しない。

例えばの話。ピアノが趣味の、正直者の A という人がいたとしよう。 世間も、そしてあなたも、A が正直者だということを認めている。 そんな A がある日、「ラ・カンパネラ*が弾けるようになった」と言った。 
*リストの超絶技巧曲

A は正直者だ。故にあなたはこの発言を「信じる」だろう。
しかし、ここには不確実性が潜んでいる。
彼がどれほどの「正直者」であったとしても、それのみを根拠として彼の発言を「事実である」と判断することは、不可能だ。
事実と判断するには、実際に A がラ・カンパネラを弾いているところを見なければいけない。

そしてある日、あなたは実際にA がラ・カンパネラを弾いているところを見た。つまり、Aがラ・カンパネラを弾けるという事実を、確認した。
それにより、あなたは信じるという行為を終了する。

事実に対しては、信じるということは「不要」なのだ。
「信じている状態」には、不確実性が伴う。不確実性がない状態では、「信じる」という行為は成し得ない。

「信じる」の対義語は、「疑う」......果たして、そうだろうか。
疑うことは、信じることと「対立する事象」ではなく「信じることに不可欠な要素」であると、考えられないだろうか。
紛れもない「事実」に対しては「信じる」も何も、ないのだから。

信じることも疑うことも、不確実性を持っている。
また、私は信じるということを、 行為の只中の状態、いわば過程の状態、プロセスの中におけるものであると考えている。
(”信じる”という行為は、古の態、”中動態”と言えるだろう。)

事実・真実を確認した時、もしくは真実かどうかがどうでも良くなった時に、このプロセスは終わる。
つまり信じるということが終わる時というのは、「信じるということが必要なくなった時」であると言える。
それが事実であると判明した時、もしくはそれが事実であるかどうか、どうでも良いと思うようになった時、信じるということを終了する(または、不要となる)のだ。

このあたりで一旦、まとめておく。

・もしもA‘という事象が「事実である」と確認できるものであるならば、 そもそもA’を「信じるという行為は不要」である。
・事実かどうか確実ではない、不確実性があるからこそ、信じるという行為が発生する。 
・信じるという行為を成すには、不確実性を必要とする。 
・信じるということは意志的かつ過程的な行為で、事実かどうか判明するまで、またはそれをどうでも良いと思うようになるまで、ずっと続く行為である。

 「信仰」も、広義の「信じること」と同じであろう。
信仰とは疑いを伴うものだ。
疑いのない信仰は、存在しない。 事実をすぐさま確認できるのであれば、そもそも信仰は成り立たないのではないか。

これは神の存在の有無という観点においてのみならず、「教義」に 対しても言える。 教義そのものが真理であるとすれば、もはや信仰を持つ必要すらなくなる。

事実をそのままに受け入れることは容易だが(もちろん「受け入れたくない事実」は別だけれど)、事実かどうか分からないことを信じるというのは、なかなかに難しいことである。

しかしながら、その不確実性を以てして、信仰を尊いものと捉えることが出来るのではないか、という考えにも思い至る。
故に神は私達に直接語らず、私達の前に姿を現さないのではないだろうか。 不確実なもの、これはキリスト教における「愛」という概念にも通じるのでは......、そのようにも思われる。

洗脳
ここまでの「信仰」についての考察を基に、「洗脳」について考える。
洗脳とは、 不確実である、真実と判別することができないものを「真実であると認識させる」ことではないだろうか。

不確実であるものに対して、本来、私達はそれを「信じる」(または、疑う)ということしかできないはずだ。
しかし、洗脳下においては「信じる」を超越して、「真実」とみなしてしまっている状態なのではないか?

私は、以下のように認識した。

・信仰は、不確実性のあるものに対する行為。
・洗脳は、不確実性のあるものを、事実として認識させる行為。

洗脳において、不確実性のあるものを事実と認識させるには、その対象へのコントロールが必要であろう。
宗教はコントロールではない。 宗教は私達が自らの意志で目指し、求め、自らが至り、救われるものではないか。 コントロールが及んだところに、もはや“わたし”は存在しない。 その状況下で真理に至ったのは”わたし”ではなく、救われるのも”わたし”ではないのだ。
”わたし”とは、揺らぎの中にあるのではないだろうか。

目の前にある事実を事実と確認するために、”わたし”は必要であろうか?  むしろ、迷いや揺らぎの中にこそ、”わたし”は存在するのではないだろうか?
信仰は、宗教だけのものではない。 法(または常識が作り出す「正しい人間」像)、イデオロギー、アイデンティティなど。これらは真理ではなく、信仰だ。

他人の意見に左右されず、迷いがなく、自己決断できる人は「強い」――。 今を生きていて、肌で感じる概念ではあるが、私はそこに何か機械的なものを感じる。自分の中にある真理に動かされているようにも、思われる。

最後に。
洗脳について考える際に、もう一つ念頭に置いておきたいことがある。

私達は誰かによる意図、差し金ではなく、個または集団で、ある事象についてそれを事実・ 真理であると「激しく思い込むこと」がある。
そういった状態を洗脳と呼ぶべきかは判断に迷うところがあるけれど、「洗脳下に近い」状態と言えるのではないか?

信仰、ひいては洗脳については、グラデーションがあるのかもしれない。洗脳”的”な状態、というのも存在するのかもしれない。

意図的に為されたのではない、洗脳的な状態を否定することは難しい。
何故なら、その発端や悪意を見出すことは至難であり、存在しない可能性もあるからである。
けれども、意図的な洗脳という行為について、私は否定をしたい。 

過激な言い方をすれば、それは”わたし”を殺すに等しいことである。 
(ここで”等しい”というのは、”わたし”を完全に殺すことは、できないと考える為だ。)
洗脳が解ける人がいるように、”わたし”はどこかに生き残っているのだろう。

追補
・仕事上での信頼とは?
仕事における信頼というのは、具体的に、どのようなものを指すのだろうか。

私達が人に何かを依頼をする時には、「あの人なら(間違いなく)この仕事を上手くやってくれるはずだ」と思っている。多かれ少なかれ。

しかし、ここにも不確実性がある。完成後の状態はあくまで想像だ。
未来の出来事、つまりは「不確実なこと」である。
では、「仕事を完遂してくれるだろう」という信頼を持たせる所以は、どこにあるのか。 それは条件、ではないだろうか。

私達は信頼に至るまでの「条件」を意志的に持ち、無意識的に抱いている。 
この条件が取りこぼされた時に、その「信頼」が崩壊するのだろうと、私は思う。

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