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ひかげのたいよう#9

“夢と出逢った私”

 まさに文字通りの血の滲むような努力が実を結び、私は両親が希望していた中高一貫教育の私立校に合格することができた。決められた道だからと最初こそ気が進まなかったものの、ここで過ごした六年間が、どんなに深い暗闇も迷わず進んでいけるようにと正しい地図を記してくれた。その地図を標に辿り着いた先で待っていたのが“今の私”だ。
 家から電車を乗り継いで三十分程の駅に降り立つと、こぢんまりとした駅前から真っ直ぐに伸びるメインストリートが私を出迎えた。左手には商店が建ち並び、右手にはグラウンド。通りを抜けて信号を渡り、木々に囲まれた川路のでこぼこ道を暫く進む。木漏れ日を浴びながら歩いて行くと、川を渡る為に架けられた歩道橋が見えてくる。そこに川路に寄り添うように建っている学び舎が、私の母校だ。この場所が私に多くのことを教えてくれた。一生の宝である友情や、恋。言葉の遣い方。努力は嘘をつかないこと。どんな時も我慢と負けない気持ちが大切だということ。そして、私たちはダイヤの原石だということ。良いことも、そうでないことも勿論あった。それでもその全てが“今の私”を創っていることは何物にも代え難い事実だ。ここでの六年間が記した地図の始まりを辿ると、そこに描かれていたのは夢との出逢いだった。受験の為に合唱団を最後までやりきることはできなかったけれど、歌が好きだという気持ちは大事にとっておいた。その気持ちに再びスポットライトが当たる。
 姉の中学受験の合格が決まった後のこと。つまり、私が中学受験に向けて勉強を開始した小学三年生の終わり。もう一つの運命の出逢いがあったことを忘れてはならない。ここまでくると、小学三年生の一年間が人生の始まりだと思っても何ら不思議ではない。ある日、姉が二枚のCDを買ってきた。姉への合格祝いだったのか、“あの人”がお金を出してくれたらしく、珍しいこともあるものだと驚いたのを今でも覚えている。その内の一枚の、優雅に宇宙旅行を楽しんでいるようなディスクジャケットが、今も鮮明に脳裏に焼き付いている。初めて手に取るCDは、私の中に隠された魅力を最大限に引き出してくれる。収録された十二曲を何度も繰り返し聞いては歌った。CDがぼろぼろになる頃には、こっちの私の方が好きだなと思う自分がいることに気づいた。姉が買ってきたCDが別の物だったとしたら、きっと“全く別の私”になっていたに違いない。あの歌声は、それほどまでに私を“私”らしくさせた。受験勉強している時も、合唱団に通っている時も諦めてからも、“あの人”から何度罵られても、どんな真っ暗な人生でさえも照らしてくれる心の灯台だった。あの歌声の持ち主は今でも私の憧れの人だ。中学生になると、そんな憧れの人を好きだというクラスメイトに出会う。私よりもずっと前にその歌声と出逢っていた彼は、その魅力を熱く語ってくれた。その話を聞くのが好きだった。憧れの人を思う度に、歌が好きだという気持ちが大きくなっていくのを感じた。そんな中学一年生の終わり頃には、歌手になりたいと思うようになっていた。歌が好きという気持ちを大切に育てたら、将来の夢へと成長していた。そんな至ってシンプルなものだった。夢になりたての頃は漠然としたものだったけれど
「夢を見るなら大きな夢を。」
と教えてくれた人がいた。だからなのか、私には歌手になるなんて無理かもしれないと思ったことは一度もなかった。“夢と出逢った私”は、挨拶代わりに自分の夢を語った。それはもう周囲が呆れるほどに。同級生にギターの弾き方を教えてもらい、音楽室のギターを借りてコードを覚えては練習した。ちっとも奇麗な音は出なかった。弦を押さえる指は痛くなる一方だった。それでも私にはその練習の時間がとても楽しかった。合唱団の練習をしていたあの頃の気持ちが蘇ってくるようだった。下手くそなりに、初めて何かの曲を弾いて歌えた時は感動した。中学三年生になり、バンドを組んでいた同級生がボーカルをやってみないかと私に声をかけてくれた時には、迷わずOKと返事をした。私はすぐにバンドメンバーに加わり、人生初のスタジオでの練習にも参加した。全てが初めて知ることばかりで私の世界も色付き始めた。しかし浮かれていたのも束の間。音楽活動をしている私に腹を立てた“あの人”は、私が育てた夢をびりびりに引き裂いていった。
 次回の練習で使う楽譜を自宅にFAXしてもらった時のこと。大量に送られてくるそれに、“あの人”は急に苛立ち始めた。夕食の準備中だったこともあり、ぴーぴーがーがーと止まらない機械音が気に障ったようで
「どういうことか説明しろ。」
といつもの剣幕で命令してきた。仕方がないのでありのままを説明する。友だちに誘われてバンドのボーカルをやることになったこと。その練習の為の楽譜を送ってもらっていたこと。どんなに丁寧に話をしたところで聞く耳を持たない人だ。案の定
「今すぐ電話して辞めるって言え。」
と言われてしまう。我が家では“あの人”の命令は絶対だ。それに逆らうことは死を意味していた。それ以来、家では音楽の話をしてはいけない雰囲気になった。私の夢への入口を塞いだ後、それでも気持ちが収まらない“あの人”の怒りの炎は、弟にも燃え移った。弟は自分で買ったエレキギターを持っていた。弟が自分で貯めたお金で買ったのだから弟の自由なはずだが、“あの人”にはそんなの通用しない。
「お前たちはホント自分のことしか考えてないんだな。」
 お前たちの為に家のことも仕事もしてやってるのに、勝手に良い思いしやがって。許さない。そんな感情をぶつけられているようだった。我が家では“あの人”を怒らせないように良い子でいなければならないし、“あの人”より良い思いをすることは許されない。上手くバランスを取りながら生きていくのは不可能に近かった。どんなに上手くやってのけても、そんな私たちすら気に食わないからだ。
 “あの人”の怒りが静まった夜、びりびりに破かれた夢を繋ぎ合わせながら私は考えた。私の夢はそんなに自分のことしか考えていないのだろうか。百歩譲ってこの夢が独りよがりなものだったとしよう。しかしどれだけ考えても、その仮定の上に私の人生は成り立たない。歌のない人生なんて、答えを導き出せない方程式と同じだ。この胸の高鳴りがそれを物語っていた。この夢を諦めるなんて到底できない。音楽や歌が彩る私の世界は、それは美しかった。だからこそ感謝の気持ちを込めて歌い続けたかった。そしてそれがいつか誰かの為になったらいいなと思った。憧れの人の歌が、私にとってそうであったように。考えれば考えるほど私の気持ちは確かなものになってゆく。
「やっぱり私には歌しかない。」
 私が歌を歌う理由ははっきりしている。だからこそ前に進まない理由はなかった。たとえ“あの人”にどんなに馬鹿にされても、暴力を振るわれようとも、私はこの夢を絶対に諦めないと心に誓った。私の初めての反抗だった。

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