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軍神?死神?秦将白起

彼は中国歴史上数少ない天才的統帥、百戦錬磨経て負けたことがありません。功績が高すぎてやがて国王に自害させられ、後世から英雄の名誉どころかずっと叩かれています。

なぜなら彼の行動があまりにも残虐だったからです。

白起の最も有名な功績は趙国との「長平の戦い」で趙軍40万人を殺したこと。趙国の抵抗意識を崩すため、あえて投降した者も殺してしまい、とんでもない悪名が残されてしまいました。

現代になっても長平地域にまだ豆腐を白起と呼び、最も有名な風土料理は「焼き白起」、憎しみが二千年以上続いています。


長平の戦い最初秦軍の指揮官は別人でした、趙国の上党地域を狙って進軍し、ここを取れば次は趙国の首都を狙います。趙国も名将「廉颇」を指揮官として長平地域に布陣しました。

「廉颇」はキングダムで旧三大天と言われる名将、布陣も守りに徹底し、秦軍を3年間足止めました。

困った秦国は得意な謀略を使い、わざと趙国内で廉颇高齢なため、怖いから戦いたくない、秦軍が最も恐れているのは趙括だと噂を流しました。

趙括とは趙国旧三大天のもう一人趙奢の息子、若き次世代将軍、軍事理論は父より上ですが、実戦経験がないため、父に「紙上談兵」しかできないと不評。しかし、当時の趙国王も若き新王であり、趙括をとても評価していました。秦国の反間計と知らずに、指揮官を交代してしまいました。


これを機に秦国もすぐ白起を指揮官とし、趙国と決勝戦に挑みました。

趙括は廉颇の防御布陣を一変して、攻めに出ました、白起も趙軍に合わせて敗退のフリをしながら、趙軍主力を誘い出し、後続軍隊と分断包囲させ、各殲滅に成功しました。趙括本人も包囲網の中に戦死しました。

白起は趙軍の士気を下げるため、包囲され投降した趙軍全て殺し、趙国の軍隊がほぼ壊滅させられました。


崖っぷちになった趙国も秦国と同じ策に出ました。白起があまりにも功績ぐ高すぎて秦の宰相を脅かしていたため、白起がこれ以上功績を取ったら君が危ないと説得し、見事に秦軍を撤退させました。

翌年秦軍が再び出兵しましたが、白起が指揮することを拒否しました、多少意地の部分もあったでしょうが、実際に勝機を失ったため、戦うべきではないと思っていました。

しかし、秦王が白起の意見を無視して出兵したあげく惨敗、秦王何度も白起を救援に向かせましたが、結局拒否させられました。最後やっと行くと約束した時、前線からまた秦軍敗戦の知らせがきて、王のメンツが完全に潰され、宰相の陰口効果もあって、白起は秦王に自殺するように命じられ、名将はまた一人戦場以外で亡くなりました

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